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第36話「30年の指紋」

 地下室から遺品を運び出した。


 地上に並べた。中継塔の入口のアーチから差し込む朝の光の下で、一つずつ。灰色の旅装束。シャーペン。関数電卓。数式の紙束。それから——昨夜は暗くて見落としていたものがいくつか。


 消しゴム。白い、四角い消しゴム。半分以上使い切っていて、角が全部丸くなっている。表面に鉛筆の黒い粉が染みついている。ケースはとっくに失われている。


 定規。十五センチの透明な定規。プラスチック。端が欠けている。目盛りは読める。センチとミリ。回路図を描くのに使ったのだろう。


 全部で五つ。シャーペン、関数電卓、消しゴム、定規、紙束。


 工業高校の筆箱の中身だ。


 アカリは自分のバックパックを開けた。工具ポーチを取り出す。中身を一つずつ出して、マナの遺品の隣に並べた。


 精密ドライバーセット。ニッパー。ラジオペンチ。テスター。銅線のリール。半田ごて。予備のLED。ボタン電池のパック。


 新品同然だった。工業高校二年分の使用感はある。ドライバーの柄に指の跡がある。ニッパーの刃先にわずかな傷がある。でもそれだけだ。二年。たった二年。


 マナの道具は三十年だった。


 関数電卓を手に取った。


 昨夜はフラッシュの光で見た。今朝は自然光で見る。印象が違う。昨夜より、ずっとひどい。


 筐体の黒い塗装が、全体的に褪せている。光沢がない。マットになっている。三十年間、手の脂と摩擦で表面が変質している。角が丸い。バルトロメイのガラケーと同じだ。角が削れている。でもガラケーは鎧の内側で——この電卓はどこにあったのだろう。ポケットか。鞄か。手の中か。


 裏返した。裏面に——シールの跡があった。


 四角い。プリクラのサイズ。三十年の経年変化で色がほとんど抜けていて、ほぼ白い膜になっている。でも端のほうに、わずかにピンク色が残っていた。ピンクと、金色の星の欠片。剥がれかけている。角が浮いている。


 魔法少女だ。


 九十年代のアニメの。変身ステッキを持った女の子。顔はもう色が抜けて見えない。でもステッキの形と星のモチーフでわかる。あの時代の魔法少女。アカリが生まれるずっと前の。お母さんが子供の頃に見ていたかもしれない作品の。


 この人も——好きだったのか。魔法少女が。


 関数電卓の裏に魔法少女のプリクラシールを貼る女子高生。三十年前にそういう子がいて、異世界に来て、数式を書き続けて、誰にも理解されずに死んだ。


 シールを剥がさなかった。三十年間、計算する手の下で、魔法少女がずっと裏側にいたのだ。


 液晶をもう一度見た。


 ひびは左上から始まっていた。放射状に広がっている。衝撃点は一箇所。落としたのだ。石の床に。あるいは壁に叩きつけたのか。ひびの間から滲んだ黒い液が、画面の半分以上を覆っている。液晶の中の液体が、ゆっくりと漏れ出して、三十年かけて画面を侵食した。


 まだ生きていたとき——液晶が割れる前——この画面に、何が表示されていたんだろう。最後の計算結果。最後に打ち込んだ数式。答えが出たのか、出なかったのか。もう永遠にわからない。


 ボタンに指を置いた。


 朝の光の下で、改めて確認する。sin、cos、logの三つのキー。印字が完全に消えている。白いプラスチック。周囲のキーと比べると、表面の質感も違う。指の脂で磨かれて、ほんのわずかに艶がある。三十年分の指紋が重なって、プラスチックを研磨した。


 他のキーも見た。数字の0から9。+、-、×、÷。これらは印字が薄くなっているが、まだ読める。使った頻度がsin、cos、logより低いのだ。逆に——電源ボタンは印字がほぼ残っている。電源は一日に一度か二度しか押さない。それ以外の時間はずっと、計算していたということだ。


 シャーペンを手に取った。


 グリップ部分を回して見る。透明な軸の内側に、芯が三本見える。0.5ミリのHB。残り三本。最後まで使い切れなかったのか、それとも芯を補充する手段がなくて節約していたのか。


 グリップに傷があった。


 爪で引っ掻いたような細い傷。不規則だが、ある範囲に集中している。親指が当たる位置。考えるときの癖だったのだろう。数式が詰まったとき、無意識にカリカリとグリップを引っ掻いていた。


 アカリにも癖がある。半田ごてを持つとき、人差し指の腹で柄を撫でる。お父さんに「焦るな、指を動かせ」と言われてから。


 この人にも癖があった。名前も顔も知らない。でも癖は知っている。爪で引っ掻く人だった。


 電卓をアカリの道具の隣に置いた。


 精密ドライバーの隣に、関数電卓。ニッパーの隣に、シャーペン。銅線リールの隣に、消しゴム。テスターの隣に、定規。


 二つの筆箱。三十年の差。一方は新しくて、もう一方は死んでいる。


 でも並べると——同じだった。道具の種類が違うだけで、構成が同じだ。必要なものだけ持っている。余計なものがない。装飾がない。全部、何かを作るための道具。何かを直すための道具。


 同業者だ。


 この人は、私と同じ仕事をしていた。


          ◇


 紙束を広げた。


 朝の光の下で、一枚ずつ。全部で三十七枚。数式が書かれた紙が二十四枚。回路図が描かれた紙が八枚。両方が混在した紙が五枚。


 数式は——わからなかった。


 積分記号がある。微分方程式がある。行列がある。工業高校二年生の数学では、太刀打ちできない。変数の名前すらこの世界の文字だから、何を計算しているのかの推測もできない。


 「……数学、苦手なんだよな」


 呟いた。情けなかった。目の前に三十年前の同業者の仕事がある。読めない。理解できない。「理解してほしかった」と書いた人の数式を、理解する能力がない。


 回路図に手を伸ばした。


 一枚目。導線の配置図。結節点が丸で描かれている。分岐が直角に曲がっている。定規を使った直線。きれいな図面。几帳面な人だったのだ。


 二枚目。結節点の拡大図。接点の構造が細かく描かれている。導体の断面図。寸法が書き込まれている——ミリ単位で。


 三枚目。


 手が止まった。


 回路の全体図だった。中継塔の壁面に走っている回路——あの聖陣の全体像を、一枚の紙に描いたもの。上から見た平面図。導線の配置。結節点の位置。分岐のパターン。


 そして——回路の右下に、もう一本の線が描かれていた。本来の回路とは別の、赤い線。シャーペンではなく、何か別の筆記具で描かれている。色が違う。赤い実線。本線に対して並列に配置された、バイパス回路。


 冷却系のバイパスだ。


 サキが動画で「途中まで描いた」と言っていたもの。この人はそれを——もっと先まで描いていた。いや、サキよりずっと前に、同じものを設計していた。


 回路図を凝視した。


 導線の描き方。分岐の角度。結節点の記号。寸法線の引き方。


 知っている。


 この描き方を知っている。


 お父さんの配電盤の設計図。家の向かいの作業場の机の上に、いつも広げてあった図面。配線図。回路図。お父さんの字で、お父さんの描き方で。


 同じだ。


 「この回路図……」


 声が出た。震えていた。


 「お父さんの配電盤の設計図と、同じ描き方だ」


 JIS規格。日本工業規格の電気回路記号。導線は直線。結節点は黒丸。抵抗は□。コンデンサは二本の平行線。接地はぎざぎざの三角。


 この人はJIS規格で回路図を描いていた。三十年前に。異世界の魔力回路を。日本の工業規格で。


 なぜなら、それしか知らなかったから。自分が学校で習った描き方しか、持っていなかったから。アカリがお父さんに教わった描き方で銅線を巻いたのと、同じ。自分の世界の言葉で、異世界を翻訳するしかなかった。


 紙を握る手が白くなっていた。力が入りすぎている。シワになる。いけない。三十年前の紙だ。壊れる。


 そっと指を緩めた。紙を膝の上に戻した。


 回路図の端に、小さな字があった。日本語。数式の注釈ではない。独り言のような。


 ——「この描き方で伝わるのかな。誰に見せればいいのかな」


 伝わらなかったのだ。JIS規格の回路図は、この世界の誰にも読めなかった。ザインの魔法理論とは記号体系が違う。数式は共通言語になれたかもしれないが、回路図は——翻訳できなかった。


 アカリには読める。


 三十年遅れの、同じJIS規格を学んだ工業高校生には読める。


 「読めるよ」


 声が震えていた。紙に向かって言った。紙の向こうにいる、名前も顔も知らない人に。


 「読めるよ。私、読める。あなたの回路図、読めるから」


 スマホを取り出した。72%。カメラを起動。三十七枚、全部撮った。一枚ずつ。数式は読めない。でも回路図は読める。全部記録した。


 70%。


 三十七回のシャッターで2%。一枚あたり約0.05%。計算するのはもうやめようと思ったのに、計算してしまった。


 でも後悔はない。二度目だ。この部屋で後悔がないのは。


          ◇


 ——聖女監察報告書 第十九日 記録官イレーネ——


 対象は先代聖女マナの遺品を発見。関数電卓、シャーペン(0.5mm)、数式および回路図の紙束三十七枚。


 対象は数式を理解できなかった。しかし回路図を一目で読解した。「工業高校の教育」が事実ならば、この読解力は説明可能。


 特記事項:対象は遺品に触れながら泣いた。三十年前の見知らぬ人間の遺品に対して。観客のいない地下室で偽物が泣く理由がない。


 判定:偽物の可能性、六十パーセント。変更なし。


 付記:対象の道具と先代の道具を並べた光景が、記録官の脳裏に残っている。精密ドライバーの隣に関数電卓。ニッパーの隣にシャーペン。三十年の差を挟んで、同じ種類の手が同じ種類の仕事をしようとしている。この所感は報告書に不要であるため削除すべきだが、記録として残す。

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