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第35話「封じられた部屋」

 中継塔の床に、扉があった。


 昨日は気づかなかった。壁の回路ばかり見ていたから。石の床に溶け込むように嵌め込まれた四角い蓋。縁に刻まれた紋様が、周囲の石と同じ色に馴染んでいる。見つけようとしなければ見つからない。


 ザインが紋様の上に手をかざした。目を閉じる。白い外套の袖が垂れて、床を擦る。唇が動いている。音にならない言葉。


 紋様が光った。薄い青。石の縁に沿って走る光。かちん、と金属の音がして、蓋が浮き上がった。


 「……四百年以上前の封印だ。術式の様式が古い」


 ザインの声に、緊張がある。昨日の「異論は認めない」の勢いは消えている。開けてしまったという自覚が、声を低くしている。


 蓋を持ち上げた。レオンとバルトロメイが両側から手をかけて、石の蓋を横にずらす。重い。二人がかりで歯を食いしばっている。


 穴が開いた。


 階段だった。石の階段が下に伸びている。暗い。空気が違う。地上の湿った空気ではなく、閉じられた空間の——乾いた、古い空気。ほこりの匂い。紙の匂い。


 紙。


 「ティック、中どう?」


 ティックが穴に顔を突っ込んだ。翅がぴくぴく動いている。


 「んー……ぴりぴりしないよー。怖いのいないー。でもなんか……しょっぱい匂いするー」


 しょっぱい。涙のことだろうか。ティックの語彙では。


 レオンが先に降りた。剣を抜いて。松明はない。暗い。


 アカリはポケットに手を入れた。スマホに指が触れる。節電ルール。今日の三回目。夜に使うはずだった分。


 ——ここで使う。


 スマホを取り出した。74%。フラッシュライトを起動した。白い光が階段を照らす。


 「降りるよ」


 全員が降りた。


          ◇


 部屋があった。


 階段を十段ほど降りた先に、小さな空間が広がっていた。天井が低い。アカリでもかがまなくていいが、レオンとバルトロメイは頭を下げている。壁は地上と同じ石造り。導線の溝は——ない。この空間には回路が走っていない。封印された、空白の部屋。


 フラッシュの光が壁を舐めた。


 何もない。石の壁。石の床。石の天井。正方形の空間。四畳半くらい。窓はない。通気口もない。なのに空気は乾いていて、かび臭くない。封印の術式が空気を保存していたのかもしれない。


 部屋の奥。壁際の床に、何かがあった。


 フラッシュの光を向けた。


 布だった。灰色の布。旅装束に似ている。畳まれている。その上に、何かが並べてある。


 近づいた。膝をついた。フラッシュを近づける。


 最初に目に入ったのは、シャーペンだった。


 0.5ミリ。透明な軸。中の芯が見える。残り三本。グリップの部分が変色している。黄ばんでいる。でも形は——知っている形だ。日本製のシャーペン。コンビニで二百円くらいで売っているやつ。


 手が伸びた。触れた。プラスチック。冷たい。でも石の冷たさとは違う。この冷たさを知っている。筆箱の中の、あの冷たさ。


 シャーペンの隣に、もう一つ。


 関数電卓。


 心臓が跳ねた。


 黒い筐体。横長のボタンが並んでいる。液晶画面。画面が——割れていた。左上から右下に向かって、蜘蛛の巣のようなひびが走っている。ひびの間から黒い液が滲んでいる。液晶の液漏れ。画面の半分以上が黒い染みに侵食されている。


 ボタンに指を置いた。


 印字が消えている。全部ではない。一部だけ。sin。cos。log。三角関数と対数。その三つのキーだけが、印字が完全に消えて、白いプラスチックの地肌が見えている。他のキー——数字や演算記号——は印字が残っている。


 sin。cos。log。


 同じ指で。同じキーを。何年も、何年も、何年も。


 印字が消えるまで押し続けた人がいる。


 指先が震えた。シャーペンに触れたときとは違う震え。この関数電卓を使っていた人のことを考えると、指が勝手に震える。


 スマホのカメラを起動した。接写。シャーペン。関数電卓。並んでいる二つの遺品。シャッターを切った。フラッシュが光って、一瞬だけ部屋全体が白くなった。


 「聖女。これを見ろ」


 ザインの声が、部屋の奥から聞こえた。


 振り返った。ザインが壁際にしゃがんでいた。布の下——畳まれた旅装束の下に、紙の束があった。ザインがそれを引き出している。


 紙。この世界の羊皮紙ではない。洋紙。白い紙。A4。いや、B5か。大学ノートの紙に似ている。でもノートではない。バラの紙。何十枚もある。


 ザインの手が震えていた。研究者の手。薬品で焼けた指先。その指が、紙の束を持ち上げるとき、震えていた。


 「……数式だ」


 ザインが紙を広げた。


 手書きの数式が、紙面を埋め尽くしていた。びっしりと。余白がない。行間もない。一行の数式が終わると、すぐ次の行が始まる。紙を節約している。紙が貴重だったのだ。この世界で洋紙を手に入れることはできない。持ち込んだ分だけ。限りある紙に、限りない数式を詰め込んでいる。


 文字は二種類あった。この世界の文字で書かれた変数と演算子。そして——日本語。


 漢字。ひらがな。カタカナ。


 日本語の注釈が、数式の間に挟まれている。小さな文字。きつい筆圧。シャーペンの芯が紙にめり込んでいる。書いた人の力の入れ方が伝わってくる。


 アカリは日本語を読んだ。


 ——「魔力導体の抵抗率はρ=2.3×10⁻⁴で近似」


 ——「聖陣冷却ラインの熱容量がたりない。計算上、定常状態で微量の漏洩あり」


 ——「冷却系に構造的な欠陥がある。これはバグだ」


 サキと同じ結論。冷却系のバグ。サキの動画で語っていた内容と、同じ。


 でもこの数式は、サキより前に書かれている。ティックが言っていた。「サキちゃんより前。もっと前」。三十年以上前。


 紙をめくった。数式が続いている。ページごとに密度が上がっていく。計算が複雑になっていく。最初のページは基礎的な測定データ。途中から理論式の導出。そして後半——。


 バイパス回路の設計図。


 アカリの手が止まった。


 回路図だ。手描きの回路図が紙面に広がっている。導線の配置。結節点。分岐。そして——冷却ラインに並列に接続された、もう一本の回路。冷却系のバグを迂回するための、バイパス。


 サキが「途中まで描いた」と言っていたもの。この人は——もっと先まで描いていた。


 最後のページ。数式が途切れている。途中で終わっている。等号の右辺が空白。答えが書かれていない。


 その空白の横に、小さな字があった。


 日本語だった。数式ではない。注釈でもない。


 「理解してほしかった」


 五文字。


 数式でも変数でも定数でもない、ただの日本語。紙の端。余白がほとんどない紙面の、最後の隅に、押し込むように書かれた五文字。


 筆圧が違った。数式を書くときの硬い線ではない。震えている。文字が揺れている。


 この人は、泣きながら書いたのだ。


 理解してほしかった。誰に。何を。冷却系のバグを。バイパス回路の設計を。聖女が死ななくていい方法があることを。


 誰も理解してくれなかったのだ。三十年前に。この地下室で。一人で。


 紙を持つ手が震えていた。自分の手なのに止められない。


 フラッシュの光が揺れている。紙の上の数式が、光の揺れで踊っている。


 後ろで、ティックの声が聞こえた。


 「……あの子だー」


 小さな声だった。いつもの「ー」がついている。でも声が震えていた。


 「あの子の字だー。数字いっぱい書いてた子の。ティック覚えてるー」


 ティックがアカリの肩から飛び立って、紙の束の上に降りた。小さな手で、数式の上をなぞった。光の粉が紙の上に落ちた。三十年前の数式の上に、今日の光の粉が。


 「この子ねー、ティックのこと『光』って呼んでくれたの」


 昨夜と同じ言葉。でも今、ティックの目の前にあの人の字がある。声ではなく、字が。触れられる距離に。


 ザインが立ち上がった。紙の束を胸に抱えている。白い外套が地下室のほこりで汚れている。


 その顔が、見たことのない色をしていた。


 怒りでも悲しみでもない。もっと複雑な。もっと深い。理論家が、別の理論家の仕事を見たときの——敬意と、悔恨と、それから。


 「……この数式は」


 ザインの声がかすれていた。


 「千年の魔法理論の基礎を、一人で再構築しようとしている」


 スマホを確認した。72%。カメラとフラッシュの分。


 節電ルールを破った。でも後悔はない。


 この部屋を記録しなければ。この数式を。このシャーペンを。この電卓を。「理解してほしかった」を。


 誰かが理解しなければ。三十年遅れでも。

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