第34話「節電」
朝。顔を洗って、最初にやったことがスマホの確認だった。
74%。
昨日まで76%だった。2%減った。何もしていない。カメラも使っていない。フラッシュも使っていない。画面を点けて消して、時間を見て、バッテリー残量を確認して。それだけで2%。
バックグラウンドの消費だ。スマホは何もしていなくても、電池を使う。内部時計。センサー。待機電力。異世界に圏外のスマホを持ち込んでも、機械は機械の仕事をやめない。
74%。この世界に来たとき87%だった。十日以上歩いて、戦闘して、カメラを使って、音楽を流して、ガラケーを充電して。それで13%減った。一日あたり——。
計算するのをやめた。計算すると怖くなる。
代わりに、ルールを決めた。
一つ。画面の点灯は一日三回まで。朝の確認。昼の確認。夜の確認。それ以外は点けない。
二つ。カメラは最小限。接写が必要なときだけ。風景は撮らない。記録はザインに任せる。あの人は羊皮紙に全部書いてくれる。
三つ。音楽は聴かない。
三つ目が一番つらかった。焚き火の夜にベルのオープニングを流したのは、あのとき必要だったから。でもあれは贅沢だ。二度目はない。レオンがハミングで覚えてくれたから、もう——。
いや、レオンにハミングしてくれとは言えない。絶対言えない。あの人の耳が赤くなる。
「節電、節電……」
呟きながら、スマホをポケットの一番深いところに押し込んだ。取り出しにくい場所に入れる。癖で触らないように。
◇
街道を歩いている。中継塔からまだ離れていない。ザインが「もう一日、この付近で調査する」と言ったからだ。昨日バイパスした回路の経過観察がしたいらしい。
「銅線のバイパスが安定しているか確認する必要がある。一晩で剥がれる可能性もある」
ザインの言い分はもっともだった。でも本当の理由は別にある気がする。あの塔をもっと調べたいのだ。千年の聖陣に穴を開けた銅線が気になって仕方がないのだ。研究者の本能。
午前中はザインの質問に答えながら歩いた。今日の質問は昨日より穏やかだった。レオンが割って入った効果かもしれない。サキの名前には触れなかった。代わりに、アカリの世界の「回路」について、理論的な質問が続いた。
「お前の世界では、回路の設計に何を用いる」
「設計図を描きます。CADっていうソフトもあるけど、最初は手描きです」
「手描き。紙と筆で」
「紙とシャーペンで。お父さんは鉛筆派だったけど」
ザインが頷いた。「理にかなっている。この世界でも、聖陣の設計は手描きが基本だ。千年前の設計図が、大聖堂の地下に保管されている。私も何度か閲覧したが、劣化が激しく——」
そこで口をつぐんだ。何か思い出したような顔をした。
「……ザイン?」
「いや。なんでもない」
嘘だった。何か引っかかっている。でもザインは続けなかった。外套の裾を翻して、バルトロメイのほうに歩いていった。
◇
昼の休憩。
アカリは木の根元で干し肉を齧っていた。アジシオを振る。レオンが無言で碗を差し出す。一振り。もう儀式みたいになっている。
ティックは草むらで虫を追いかけている。昨夜の話をした後も、ティックはいつも通りだった。光になった人の話をしても、翌朝にはけろっとしている。忘れているのか、忘れていないけど悲しくないのか。ティックの時間感覚では、悲しみにも季節があるのかもしれない。
イレーネが近くにいた。いつもより近い。
昼食を配り終えて、アカリの隣に座った。膝の上には——羊皮紙がない。珍しい。ザインがいるから、昼間は記録を控えている。でもそれだけではない気がする。昨夜、ティックが語った「数字を書いていた人」の話の後、イレーネの「書く」速度が落ちている。
「聖女様」
「はい」
「ザイン殿とのお話、楽しそうでいらっしゃいますね」
微笑み。いつもの微笑み。でも声に、聞いたことのない色がある。
「え? 楽しい、かな……。質問攻めにされてるだけなんだけど」
「ご専門の話をなさるとき、聖女様のお顔が変わりますの。お声も高くなりますし、お手が動きますし」
観察されている。いつも通り。でもイレーネが観察結果を本人に伝えるのは珍しい。
「ザイン殿も、表情がお変わりになりますね。お二人で回路のお話をなさるとき、ザイン殿の目が——若返るようでございます」
何が言いたいんだろう。
「イレーネさん。何か、気になることがあるの?」
イレーネの微笑みが深くなった。
「いいえ。ただ——聖女様のお力が、正しく理解される方が近くにいらっしゃるのは、良いことだと思いまして」
正しく理解される。
イレーネは「聖術」と書いた。ザインは「技術」と言った。「正しく理解」されることは、イレーネの報告書にとっては危険なはずだ。なのに——良いことだと言った。
この人は何を考えている。
イレーネが立ち上がった。「失礼いたします。水汲みに参りますね」。微笑みのまま、小川のほうに歩いていった。背筋が真っすぐ。修道服の裾が風に揺れている。
◇
夕方。
ザインが戻ってきた。中継塔を一人で調べに行っていた。バルトロメイが「気をつけろ」と言い、レオンが「一人で行かせるのか」と眉をひそめたが、ザインは「老人の散歩に護衛はいらん」と振り切った。
戻ってきたザインの顔が、朝と違っていた。
目が光っている。朝の「何でもない」の時と同じ種類の光。でもずっと強い。
「聖女」
呼ばれた。小娘じゃなくて聖女。呼び方が元に戻っている。改まっている。
「あの中継塔に、地下がある」
「地下?」
「壁面の回路を辿った。お前がバイパスした箇所の下方。回路が地下に向かって伸びている。床面に、封印された扉がある。術式の封印。古い。非常に古い。千年ではきかないかもしれん」
ザインの声が、抑制されていた。興奮を隠している。隠しきれていない。
「明朝、あの塔に戻る。地下を開ける」
レオンが口を開いた。「封印された場所を開けるのは——」
「宮廷魔術師の権限で開く。異論は認めない」
ザインは白い外套を翻して、自分の荷物のほうに歩いていった。背中が、いつもより速い。
バルトロメイがアカリを見た。「行くか」
「……行きます」
回路が地下に続いている。アカリがバイパスした回路が。あの銅線が導いた魔力の先に、封印された何かがある。
ポケットのスマホに手が伸びた——止めた。確認は一日三回。朝と昼はもう使った。夜に見る。
節電。
74%。減るだけの数字。でも中継塔の地下に何があるかを見るためなら——カメラの一回分くらいは、使っていい。
使っていいと思いたい。




