第33話「ティックの日記」
みんなが寝静まった夜だった。
焚き火は小さくなっている。レオンが薪を足さなかったからだ。レオンは木の幹に背を預けて目を閉じている。寝ているのか起きているのか。この人は半分ずつだ。
バルトロメイは豪快に寝ている。鼾が規則的に聞こえてくる。ザインは少し離れた場所で外套にくるまっている。今夜は計算をしていない。昨夜一睡もしなかった分を取り返しているのだろう。
アカリは寝台がわりの敷布の上で横になっている。眠れなかった。目を閉じても、ザインの質問が頭の中で回っている。「なぜ銅だ」「符号が逆だ」「サキ、その名をどこで聞いた」。
目を開けた。
焚き火の向こうに、イレーネがいた。
座っている。姿勢がいい。夜中なのに背筋が真っすぐだ。膝の上に羊皮紙。手にペン。インク壺が地面に置いてある。蝋燭はない。焚き火の残り火だけで書いている。
ペンが動いている。かりかり。小さな音。もう何度も聞いた音。でも今夜の音は、いつもより遅い。一文字書いては止まり、また書いては止まる。迷いながら書いている。
何を書いているんだろう。
ザインが来てから、イレーネはザインの前で記録を取ることをやめた。でも夜は書いている。全員が寝てから。相変わらず、全部書いている。
——あの人の報告書がグレゴリウスに届いたら、私は終わる。
あの村の夜。イレーネは「聖術」と書いた。「技術」ではなく。あれでアカリは一度救われた。でもザインが「技術だ」と口にした今、イレーネの「聖術」という嘘はどこまで持つのか。
考えても答えは出ない。
ティックが動いた。
アカリの肩で寝ていたティックが、もぞもぞと身じろぎして、翅をぱたぱたさせた。寝ぼけている。半分起きて半分寝ている。目がとろんとしている。
ふわり。
飛んだ。アカリの肩を離れて、ふらふらと宙を漂う。酔っぱらいの蝶みたいな飛び方。方向感覚がない。焚き火の残り火に吸い寄せられて——通り過ぎて——イレーネのほうに向かっていく。
イレーネの肩に、ぽすん、と着地した。
ペンが止まった。
イレーネが横を見た。肩の上に、寝ぼけたティックがしがみついている。翅がイレーネの首筋に触れている。光の粉が、ぱらぱらと修道服の肩に落ちた。
「……ティック」
小さな声だった。報告書を読み上げる声でも、「聖女様」と呼ぶ声でもない。もっと低い。もっと柔らかい。初めて聞く声だった。
ティックが目をこすった。小さな拳で。
「んー……あったかいー」
イレーネの体温に寄り添っている。修道服の肩は布が厚い。ティックにはちょうどいいベッドなのだろう。
イレーネは払いのけなかった。
ペンを持つ手を膝に下ろして、動かなくなった。ティックが落ち着くのを待っている。いつもなら「聖女様のお傍に戻りなさい」と微笑みながら言うのに、今夜は何も言わない。
ティックが首を持ち上げた。半分寝ぼけたまま、イレーネの膝の上を見ている。
「それ、何書いてるのー?」
「……日記です」
日記。嘘だ。あれは日記じゃない。報告書だ。でもティックに報告書と言っても意味がないから、日記と言ったのかもしれない。あるいは——ティックの前では、報告書と呼びたくなかったのかもしれない。
「日記ー」
ティックが口の中で転がした。
「日記かー。ティックも昔、日記書く人見たよー」
イレーネのペンが、膝の上で微かに動いた。
「あの子もいっぱい書いてたー。夜にねー、こうやってー、ちっちゃい火のそばでー」
あの子。
サキのことだろうか。サキも夜に何かを書いていたのだろうか。動画は三本残っていたが、日記は——ガラケーの中にテキストファイルがあったかもしれない。確認する術はもうない。バッテリーが死んだ。
「いっぱい書いてたよー。紙がなくなるくらい。でもねー、誰にも見せなかったよー。ティックが見ようとしたら、隠しちゃったー」
イレーネの指が、ペンの軸を握り直した。力が入っている。関節が白くなっている。
「……それは、いつ頃の方でしたか」
イレーネが聞いた。ティックに。声が平坦だった。感情を意図的に消している声。報告書を読み上げるときの声に似ている。でも少しだけ、違う。
「いつー? んー、わかんないー。ティック、時間わかんないからー。でもけっこう昔だよー。サキちゃんより前。もっと前。もーっと前」
サキより前。二十年以上前。
「その子ねー、すっごく怖い顔で書いてたー。こうやって——」
ティックが眉間にしわを寄せた。小さな顔で、精一杯険しい表情を作っている。ぜんぜん怖くない。かわいい。
「数字いっぱい書いてたー。文字じゃなくて、数字。ティック、数字わかんないけど、あの子が書いてるの見るの好きだったよー」
数字。文字じゃなくて数字。
アカリの背筋に、冷たいものが走った。数字を書く人。サキより前。サキの動画では「冷却系のバグ」を語っていた。バイパス回路の設計図を途中まで描いたと。でもサキは「検証ができなかった」と言った。
サキより前に、数字を書いていた人がいた。
「その子ねー、ティックに言ったよー。『ティック、わかる? この数字。この数字が正しければ、誰も死ななくていいの』って」
イレーネの目が動いた。
一瞬だけ。まばたきより短い時間。焚き火の残り火が目に反射して、光が揺れた——のではなかった。目そのものが揺れていた。
すぐに戻った。目が元の位置に戻った。微笑みが戻った。
「……その方は、お名前をおっしゃっていましたか」
「名前ー? うーん。言ってた気がするー。でも忘れちゃったー。ティック、名前覚えるの苦手だからー。でもねー、ティックのこと『光』って呼んでくれたよー。ティックの名前じゃないけど、ティックの色だからって」
光。
ティックの光の粉。金色の光。その光を見て、名前ではなく「光」と呼んだ人。
「その子もねー、最後は泣いたよー。いっぱい泣いてたー。数字の紙を抱えて泣いてたー。それからねー——」
ティックの声が、少しだけ遅くなった。
「光になったよー」
焚き火の残り火がぱちん、と小さく爆ぜた。
「みんなそうだよー。来て、泣いて、光になるの」
同じ言葉。あの夜に聞いた、あの言葉。何百年分の歴史が、九文字に圧縮されたあの言葉。
でも今夜は、その言葉がイレーネの肩の上で発せられた。イレーネの修道服に光の粉を落としながら。
イレーネは微笑んでいた。微笑みは崩れていなかった。
でもペンが止まっていた。羊皮紙の上で、途中の文字で止まっていた。インクの点が一つ、紙に落ちた。
ティックが欠伸をした。大きな欠伸。翅がぴくぴく動く。
「ねむいー。……イレーネ、あったかいー。もうちょっとここにいていいー?」
「……ええ。どうぞ」
声が小さかった。イレーネの声が、初めて、小さかった。
ティックが目を閉じた。イレーネの肩の上で丸くなった。翅の震えが止まって、小さな寝息が聞こえ始めた。光の粉が、ゆっくりと修道服の上に積もっていく。
イレーネは書かなかった。
ペンを持ったまま、焚き火の残り火を見つめていた。何を見ているのかわからない。何を考えているのかわからない。この人のことは、いつもわからない。
でも今夜だけは、イレーネが「わからない」のではなく「わかりたくない」のかもしれない、と思った。
スマホを確認する気にならなかった。76%。変わっていない。それは知っている。
目を閉じた。ティックの寝息と、焚き火の音だけが聞こえている。
数字を書いていた人。サキより前の人。誰も死ななくていいと言った人。
その人も——光になった。




