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第31話「符号が逆だ」

 夜。中継塔の近くで野営をしていた。


 塔の中は寒い。石と金属しかない空間は熱を蓄えないから、夜は外のほうがましだ。焚き火を囲んで、六人と一匹。パーティが増えた分、火の周りが窮屈になった。


 ザインは焚き火から少し離れた場所に座っていた。白い外套を敷物にして、膝の上に羊皮紙を広げている。ペンを持っている。イレーネと同じだ。この世界の知識人は全員、羊皮紙に何か書くらしい。


 ただし、ザインの書き方はイレーネとは違った。


 イレーネは文字を書く。報告書。記録。文章。ザインが書いているのは——数字だった。数式。図形。幾何学的なパターン。ペン先が紙の上を走る音がかりかりと小刻みで、文章を書くリズムとは明らかに異なる。


 何を計算しているんだろう。


 焚き火を挟んで、レオンとバルトロメイが並んで座っている。バルトロメイが何か小声で話しかけている。レオンが短く返す。師弟の会話。内容は聞こえない。でも二人の肩の線が同じ角度だった。


 イレーネが干し肉を配っている。ザインの分も。ザインは受け取って、視線を羊皮紙から上げないまま齧った。食事に興味がない人の食べ方。


 ティックがアカリの膝の上で丸くなっている。今日は光の粉をたくさん使ったから疲れたのだろう。寝息が小さい。


 スマホを見た。76%。画面の明るさを最低にしてから確認する。変わっていない。今日はカメラ以外使っていないから、ここから先の消費は少ないはず。


 ザインのペンの音が止まった。


 一瞬だけ。すぐにまた動き出した。でも止まった。何かに引っかかったように。


 アカリは焚き火を見つめた。炎がぱちぱち鳴っている。眠い。今日はいろいろあった。中継塔。回路。接触不良。バイパス。ザイン。「技術だ」。


 目を閉じた。


          ◇


 翌朝。


 鳥の声で目が覚める前に、声で目が覚めた。


 「起きろ、聖女」


 ザインだった。


 目を開けた。朝の光がまだ白い。早朝だ。ザインが立っている。見下ろしている。白い外套の裾が朝露で湿っている。寝ていないのかもしれない。目の下に隈がある。


 「……おはようございます」


 「符号が逆だ」


 「……え?」


 ザインが羊皮紙を突きつけた。


 目の前に広げられた紙面。数式が並んでいる。この世界の文字で書かれた数式。でも構造は読める。変数。演算子。等号。数学は——言語が違っても、構造は同じだ。


 数式の途中に、赤い線が引かれていた。ザインが夜中に引いたのだろう。赤い線の横に、小さな文字で注釈が書いてある。


 「お前が昨日やったバイパス。接続の向き。魔力の流れの入口と出口」


 ザインの指が数式の一箇所を指した。


 「符号が逆だ」


 アカリはまだ半分寝ぼけている頭で、数式を見つめた。ザインの数式は——アカリのバイパスを、この世界の魔力理論で記述したものだった。銅線の接続点。魔力の流入方向。導体の抵抗値。全部が数式になっている。


 そして赤い線の箇所。入口と出口の符号。


 「……あ」


 見えた。


 電子回路では電流は正極から負極に流れる。でもアカリが接続したバイパスは、この世界の魔力の流れの方向に対して——逆だった。入口が出口になっている。出口が入口になっている。


 「逆……なのに、通じた?」


 「通じた。通じてはならないのに、通じた」


 ザインの声が低くなった。


 「魔力には方向がある。聖陣の導体は方向性を持つ。電——お前の世界の言葉で言えば、整流器のようなものだ。一方向にしか通さない。お前のバイパスは逆向きに接続されている。理論上は、魔力が流れるはずがない」


 なのに流れた。魔力灯が光った。


 「お前の感覚は正しい」


 ザインが羊皮紙を膝に戻した。


 「接触不良の診断は正確だ。バイパスという発想も合理的だ。だが理論的な裏付けが欠けている。お前は正しいことをしたが、なぜ正しいかを知らない」


 「……はい」


 否定できなかった。指が正しいと知っていた。でも頭は追いついていない。お父さんに教わったのは「指で感じろ」であって「なぜそうなるか説明しろ」ではなかった。


 「なぜ銅線で魔力が通るか。説明できるか」


 「……できません」


 「なぜ逆向きなのに通じたか」


 「……わかりません」


 「光の粉は何をした」


 「……たぶん、接触抵抗を下げた。でも『たぶん』です」


 ザインが腕を組んだ。しばらく黙っていた。朝の風が焚き火の灰を巻き上げた。


 「ならば私が説明してやる」


 「え」


 「銅は魔力を通さない。これはこの世界の常識だ。だが常識は理論ではない。千年間検証されなかった仮説に過ぎん。お前の銅線が魔力を通した事実は、千年の仮説に穴を開けた。穴の理由を探るのが理論家の仕事だ」


 ザインの目が光っていた。怒りではない。興味だ。研究者が未知の現象に出会ったときの光。


 「仮説がある。光の粉——妖精のエーテル粒子が銅線の表面に付着し、魔力の導通を可能にした。銅そのものが魔力を通すのではなく、エーテルコーティングされた銅が疑似魔力導体として機能する。この場合、整流作用が無効化される理由も説明がつく」


 半分しかわからなかった。でも半分はわかった。ティックの光の粉が銅線を「魔力が通る銅線」に変えた。粉がコーティングになって、導体としての性質が変わった。


 導電性塗料に似ている。工業高校で習った。金属粒子を樹脂に混ぜて、非導体の表面を導体にする技術。それと同じことが、光の粉と銅線の間で起きた。


 「……導電性塗料みたいなことですか」


 「何だそれは」


 「えっと、私の世界の技術です。金属の粉を混ぜた塗料を塗ると、塗った面が電気を通すようになる」


 ザインの眉が動いた。片方だけ。


 「……お前の世界にも、似た概念があるのか」


 「はい」


 沈黙。ザインの目がアカリの顔を見つめていた。計算している。この老魔術師の頭の中で、何かが組み上がっている。


 「聖女。いや——小娘」


 呼び方が変わった。


 「お前が偽物かどうかの判断は、まだ下さない」


 「……」


 「理由は二つ。一つ、お前の技術は本物だ。動機も理論も不十分だが、結果が出ている。結果を出す者を、理論の不備だけで切り捨てるのは科学者の態度ではない」


 科学者。この世界に科学者という言葉があるのか。いや、ザインが自分をそう定義しているのだ。魔術師ではなく、科学者として。


 「二つ。千年の聖陣に穴を開けた現象が目の前にある。これを解明せずに立ち去ることは、私の矜持が許さない」


 矜持。研究者の矜持。知りたいから残る。正義でも義理でもなく、知りたいから。


 「だから同行する。お前を監視するためではない。お前が起こす現象を観察するためだ」


 ザインが踵を返した。焚き火の灰を踏んで、自分の荷物のほうに歩いていく。


 背中に向かって声をかけた。


 「ザインさん」


 「呼び捨てにしろ。敬称をつけるな。学問に上下はない」


 「……ザイン。あの、ありがとう、ございます」


 ザインは振り返らなかった。代わりに片手を上げた。ひらひら。背中越しに。「礼はいらん。お前が本物だったら、私の千年分の理論が崩壊する。感謝されるようなことではない」


 焚き火の向こうで、バルトロメイが笑っていた。深い皺が扇状に広がっている。「面白い男だろう」


 レオンは黙っていた。ザインの背中を見ていた。灰色の目に、警戒の色がある。味方か敵か、まだ判断していない。


 イレーネは微笑んでいた。いつもの微笑み。でも視線がザインの荷物——羊皮紙の束を追っていた。ザインも記録する人間だ。イレーネにとって、自分と同じ種類の人間がもう一人増えたことは、安心ではなく——脅威だ。


 スマホを確認した。76%。変わっていない。カメラは使っていない。


 でも何か、別のものが増えた気がした。バッテリーには載らない、数字にならない何かが。

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