第30話「接触不良」
ザインの目が、壁の腐食箇所に向けられた。
アカリが指差した場所。導線の表面を覆う緑色の酸化物。完全に断線している接点。
ザインは一歩近づいた。外套の裾が石の床を擦る。細い指が壁の導線に触れた。長い指だった。節くれだっているのに、指先だけが妙に滑らかだ。薬品で焼けた指。研究者の指。
「……確かに腐食しているな」
声に驚きはなかった。認めただけ。事実を認めただけ。
「だが、聖陣の劣化は自然の摂理だ。千年の聖陣が経年で損傷するのは想定の範囲。定期点検で確認し、魔力で補修する。それが宮廷魔術師の務めだ」
「魔力で補修って……具体的にどうやるんですか」
「術式で導線に魔力を上書きする。腐食した部分に新しい魔力層を被せれば、導通は回復する」
上書き。被せる。
「……それ、根本的に直ってなくないですか」
ザインの目が細くなった。
「何だと」
「腐食した金属の上に魔力を被せても、下の金属は腐食したまま残ってます。被せた魔力層も、いつか剥がれますよね。そしたらまた導通が切れる。また上書きする。また切れる。その繰り返しで、どんどん接点が不安定になっていく」
言いながら、自分の声が加速しているのがわかった。止まらない。回路の話になると止まらない。工業高校の回路実習で先生に「お前は回路の前だと早口になるな」と言われた。そのときと同じだ。
「必要なのは上書きじゃなくて、腐食した部分を迂回する新しい導通路です。バイパス。腐食箇所を避けて、生きてる導線同士を直接つなぐ」
ザインが黙った。沈黙が冷たい。
「……小娘。千年の聖陣の設計を、お前ごときが批判するのか」
「批判じゃないです。接触不良は事実です。直せます」
口が先に動いた。頭が追いついていない。何を言ってるんだ私は。宮廷魔術師に向かって「直せます」って。
でも直せる。銅線とニッパーがあれば直せる。焚き火の前でLED配線を修理したのと、原理は同じだ。断線した箇所を迂回して、生きてる接点同士を銅線でつなぐ。それだけ。
ザインが腕を組んだ。
「やってみろ」
挑発ではなかった。試験だった。宮廷魔術師が聖女に課す、実技試験。
ポーチからニッパーと銅線のリールを取り出した。
銅線を引き出す。長さを目測する。腐食箇所の手前と先——生きている導線の露出部分を確認する。バイパスに必要な長さは約十五センチ。ニッパーで切る。きん、という音が塔の中に響いた。
被覆を両端五ミリずつ剥く。指先で銅の地金が出ているのを確認する。
壁の導線に銅線を押し当てた。腐食箇所の手前、導線が生きている部分に、バイパスの入口を合わせる。接触面積を稼ぐために、銅線の先端を導線に巻きつけた。三回。きつく。
腐食箇所を越えて、もう片方の端を、生きている導線に巻きつける。同じく三回。
両手が塞がっている。銅線を押さえながら、接点が離れないように。焚き火のときと同じだ。片手で押さえて、もう片手で作業する。
「ティック」
「はいー?」
「光の粉、少しだけちょうだい。接点のところに」
ティックが飛んできた。銅線と導線の接点に、光の粉をぱらぱらと振りかける。金色の微粒子が接触面に入り込む。
井戸のとき、光の粉はストロボの光を増幅した。ということは光の粉には魔力の伝導性がある。銅線と導線の間の微細な隙間を、光の粉が埋めてくれれば、接触抵抗が下がる。
理論じゃない。直感だ。でも直感が正しいことは、指が知っている。
銅線から手を離した。
バイパスが壁に張りついている。見た目は最悪だ。千年の精緻な聖陣の上に、赤銅色の銅線がむき出しで走っている。アルミホイルの絶縁もない。美しくない。工業高校の実習なら「やり直し」と言われる。
でも——。
導線が温かくなった。
さっきまで冷たかった左側の回路。指を当てると、温度が変わっている。温かい。何かが流れている。銅線のバイパスを通って、魔力が迂回路を見つけた。
塔の上方で、かちん、と音がした。
全員が顔を上げた。
天井に近い壁面に、丸い金属板が嵌め込まれていた。魔力灯。レンズのような構造。さっきまで暗かったそれが——光っていた。
弱々しい。ちらちらしている。安定していない。でも、光っている。
ティックが歓声を上げた。「光ったー! きれいー!」
バルトロメイが目を細めた。「ほう……」
レオンは無言だった。でも目が魔力灯と、壁のバイパスと、アカリの指先を順番に見ていた。
イレーネの手が動いた。外套の内側に。羊皮紙を取り出しかけて——止まった。ザインがいる。ザインの前で記録を取ることを避けた。判断が速い。
ザインは動かなかった。
腕を組んだまま、魔力灯を見上げていた。光が白い外套に反射している。顔に影が落ちている。目だけが光っている。
長い沈黙だった。
「……何を使った」
声が変わっていた。さっきの乾いた声ではない。もっと低い。もっと慎重な声。
「銅線です。銅の導線で、腐食箇所を迂回しました」
「銅」
「はい」
「なぜ銅だ」
「導電率が高いからです。銀の次に高い。金属の中では——」
「そうではない」
ザインの声が鋭くなった。
「なぜ銅で魔力が通る。金属は魔力を通さない。これはこの世界の常識だ。鉄も銀も金も、魔力を通さない。だからこそ聖陣には特殊な魔力導体を用いる。千年前の技師たちが精製した、専用の合金だ。それを——ただの銅が、代替した」
アカリの手が止まった。
金属は魔力を通さない。知らなかった。この世界の常識を知らなかった。銅線で通じたのは——なぜだ。
「……わかりません」
正直に言った。「なぜ銅で通じたのかは、わかりません。でも事実として、通じました」
ザインの目がアカリを射抜いた。
長い視線だった。値踏みしている。計算している。この老魔術師の頭の中で、何かが高速で回っている。
「……これは」
ザインの声が落ちた。独り言のように。でも全員に聞こえる声で。
「奇跡ではない。技術だ」
空気が変わった。
奇跡ではない。技術。この世界で初めて、アカリの行為を「技術」と呼んだ人間。レオンは「俺の知る戦い方ではない」と言った。イレーネは「聖術」と書いた。村人は「神の光」と叫んだ。
ザインだけが、「技術」と言った。
ザインが外套を翻した。入口に向かって歩く。途中で立ち止まった。振り返らずに言った。
「聖女。私は魔王城まで同行する」
「え——」
「聖女の魔力回路への理解を監修する義務がある。宮廷魔術師として」
表向きの理由。声の温度がそう言っている。本当の理由は別にある。
ザインが歩き出した。
バルトロメイが小さく笑った。「あれは興味を持ったな」
レオンが眉をひそめた。「……味方ですか」
「わからん。だが敵ではない。今のところは」
ザインの白い外套が、アーチの光の中に消えていった。
アカリは壁のバイパスを見つめていた。赤銅色の銅線。見た目は最悪の、でも確かに機能している迂回路。
スマホを確認した。76%。カメラを使った分。接写と、フラッシュ。
六人になった。




