第3話「神の味」
湯気の向こうに、イレーネの目がある。
石造りの浴室。湯船というより水盤に近い。湯は温かいが、底の石がごつごつして落ち着かない。アカリは膝を抱えて縮こまっていた。
「失礼いたしますね、聖女様。お背中をお流しいたします」
布を手にしたイレーネが、にこやかに近づいてくる。
「あ、いや、自分でできるんで——」
「いいえ。お世話係の務めでございます」
断る隙がなかった。イレーネの手が背中に触れる。ゆっくり、丁寧に、肩甲骨のあたりを撫でるように拭いていく。湯気の中で布が肌を滑る音だけがする。
お風呂って、本来リラックスするものだよね。全然リラックスできない。背中に人の手がある。それだけで肩が強張る。
何かを探している、と気づいたのは二周目だった。
布が背中の同じ場所を繰り返し通る。首の付け根。左の肩甲骨の下。腰のくぼみ。触れ方が微妙に変わる。拭くんじゃなくて、なぞっている。指先に力が入り、皮膚の感触を確かめるような動きになる。布越しなのに、指の形がわかる。
鳥肌が立った。寒いからじゃない。
「……あの、くすぐったいんですけど」
「申し訳ございません。お肌がとても綺麗でしたので、つい」
微笑み。しかしイレーネの目は笑っていなかった。一瞬だけ。メガネを外しているからぼやけていたが、それでもわかった。
——何を探してたの。
◇
祈りの作法は、完全に不合格だった。
「聖典第三章第七節。光輝の誓い。お唱えください」
「……え、えっと」
「暗唱で結構です」
「……」
「……聖女様」
「ごめんなさい全然わかんないです」
イレーネのペンが紙の上を滑った。書いている。何か書いている。あの微笑みのまま。
続けて聖典の朗読。祈りの姿勢。手の組み方。全部ダメ。手を合わせる角度が違う。膝のつき方が浅い。目を閉じるタイミングが遅い。
真面目にやっている。やっているのに、身体が覚えていないものは出てこない。考査で回路図は描けても、古文の暗唱はいつも赤点だった。こういうの、本当にだめなんだって。
イレーネが微笑む。「ご幼少の頃を、俗世でお過ごしになったのですね」
……聞いてるようで、聞いてない。この人、最初から答えを知ってる顔してる。
◇
食事は、黒パンとスープだった。
木のテーブル。木の椀。木の匙。全部木だ。パンを千切る。硬い。ライ麦の酸味。スープを一口。
「……味、うす……」
塩気がほとんどない。具は根菜が二切れ。脂は浮いていない。修道院の食事とはこういうものなのかもしれないが、朝からこれはつらい。
ポーチを探る。指先に馴染んだ小さな容器が当たった。引っ張り出す。赤いキャップ。
アジシオ。
コスプレイベントでは必需品だ。夏場の塩分補給。握り飯にも使う。なぜかいつもポーチに入っている。
自分の碗に振りかけた。一振り。スープの表面に白い粒子が散る。もう一口。
「……うん。生きてる味がする」
手が勝手に動いた。イレーネの碗にも、さっと一振り。
イレーネの匙が止まった。
「……聖女様。これは——」
「あ、アジシオ。塩だよ」
イレーネがスープを口に運ぶ。匙の縁が唇に触れ、液体が喉を通る。数秒の沈黙。
目が見開かれた。あの微笑みが消えている。匙を持つ手が、わずかに震えていた。
「……何という」
もう一口。今度は目を閉じた。匙を口に含む時間が、さっきより長い。味わっている。この人が何かを「味わう」ところを見るのは初めてだった。いつもの食事では、栄養を摂取するみたいに淡々と食べていたのに。
「このような微細な粒子の……これほど清澄な塩は、見たことがございません」
声が変わっている。報告書を読むみたいな平坦な声じゃない。息が混じっている。
碗を両手で包み込むように持ち直した。匙を置いて、碗に直接口をつける。三口目。四口目。啜る音がする。修道女が碗に口をつけて啜るのは、たぶんこの世界でも行儀が良くない。でもイレーネは止まらない。スープが減っていく。さっきまでの冷静な所作が、全部どこかに行った。
「……神の味だ」
碗を下ろしたイレーネの目が潤んでいた。涙じゃない。でも潤んでいた。
アジシオが神格化された瞬間だった。味の素株式会社もびっくりだと思う。
アカリはどう反応すればいいかわからず、黒パンを齧った。
窓の外から甲高い声が飛び込んできた。
「やーだよー! ティックのー!」
白い布が宙を舞っている。イレーネのハンカチだった。ティックが両手で抱えて飛び回り、追いかける修道士を翻弄している。
「ティック! それ返して!」
椅子を蹴って立ち上がる。走る。石の廊下。角を曲がる。ティックは笑いながら天井近くを飛んでいる。
「あはは、追いかけてくるー! 面白ーい!」
背後で、かすかに羽根ペンが紙を引っ掻く音がした。
——また、書いてる。
何を書いているのかは、わからない。でもあの音は、もう覚えた。




