第28話「師匠の決意」
焚き火を囲んでいた。
街道脇の空き地。バルトロメイが火を起こしてくれた。レオンと同じ手際の良さ。師匠と弟子は火の起こし方も同じだ。
誰も喋らなかった。
焚き火がぱちぱち鳴っている。あとは虫の声。夜の風。それだけ。
サキの動画を見てから、もう一時間以上経っている。日が暮れて、星が出て、焚き火が起きて。それでもまだ、空気が重い。
アカリはスマホを見ていた。
80%。スマホは生きている。でもモバイルバッテリーは、バックパックの底で冷たくなっている。インジケーターはゼロ。もう光らない。
80%だけで、ここから魔王城まで。
いや——ここから、封印の儀式まで。
封印の儀式。聖女が死ぬ儀式。冷却フィンの代わりに燃え尽きる儀式。サキも、その前の聖女も、その前の前の聖女も、みんなそうやって消えた。来て、泣いて、光になった。
そして私が次の「みんな」になる。
……怖い。
怖いに決まってるじゃん。死にたくない。帰りたい。家に帰りたい。お母さんのご飯が食べたい。学校に行きたい。部室で工作がしたい。推しの新作が見たい。
でも——。
村の子供の顔が浮かんだ。「おいしい!」って笑った顔。井戸の水が戻ったとき泣いた老人の顔。あの少年の「ろーどあうと!」。サキの「ごめんね」。
何も考えられなかった。怖いと、帰りたいと、でもと、ぐるぐるぐるぐる回っていて、どこにもたどり着かない。
「……二十年前の携帯にバックアップ全部使っちゃった」
声に出した。独り言のつもりだった。でも焚き火の前だから、全員に聞こえている。
「でも後悔はしない。……多分」
多分。また「多分」がついた。でもこれは本当だ。多分を含めて、本当。サキの声を聞けた。サキの怒りを知れた。冷却系のバグのことを知れた。それは80%のバッテリーでは買えないものだ。
バルトロメイが顔を上げた。
涙の跡が、焚き火の光で乾いて光っていた。目は赤い。でも目の奥に、さっきまでとは違うものがあった。沈んでいたものが、浮いてきている。決意の色。
「聖女よ」
声が低かった。でもさっきの嗚咽とは違う。地面から響くような、元の声。
「儂はお前と行く」
全員が動きを止めた。
「師匠」
レオンが声を上げた。低い声が、わずかに裏返っている。
「サキの声を聞いてしまった」
バルトロメイが焚き火を見つめている。炎が目に映っている。
「二十年間、あの端末の中で、あの子が泣いていた。怒っていた。一人で戦っていた。儂はそれを知らなかった。知ろうとしなかった。端末を首から下げて、墓標のつもりで、弔ったつもりで。あの子はまだ——中で叫んでいた」
声が震えた。一瞬だけ。すぐに立て直した。
「もう引退者のふりはできぬ。サキが見つけたバグ——冷却系の欠陥。あの子の理論を、途絶えさせてはならん。お前がこの先、同じ道を歩くのなら——」
バルトロメイの目がアカリを射抜いた。
「儂の剣が、少しは役に立つだろう」
レオンが立ち上がりかけた。何か言おうとして——言えなかった。唇が動いて、止まった。
バルトロメイがレオンを見た。
「レオン」
「……はい」
「お前の『任務』の正体を、儂は知っている」
レオンの顔から血の気が引いた。
焚き火の明かりでもわかるほど白くなった。灰色の目が見開かれている。唇が薄く開いて、閉じて、また開く。何も出てこない。
「師匠……それは……」
「護衛ではないな」
短い一言が、夜の空気を裂いた。
護衛ではない。レオンの任務は護衛ではない。
アカリの思考が止まった。護衛じゃないなら何。魔王城まで送り届けると言った。送り届けた先で、封印の儀式がある。聖女が死ぬ儀式。聖女が冷却フィンの代わりに——。
つながりかけた。何かがつながりかけた。でもつながる前に、頭が拒否した。考えたくない。今は。
「だからこそ行く」
バルトロメイの声が続いた。
「二十年前、儂はサキを守れなかった。儂は聖騎士団長でありながら、教団の決定に従い、あの子を——」
言葉が切れた。唇を噛んだ。深い皺が歪んだ。
「……同じことを、繰り返させるわけにはいかん」
焚き火がぱちんと爆ぜた。火の粉が舞い上がる。
レオンは座ったまま動かなかった。白い顔で。師匠の言葉が、自分の任務の意味を暴いたことを理解して。
イレーネが焚き火の向こう側にいた。膝の上に羊皮紙が広げてあった。でもペンは動いていなかった。インク壺の蓋も開いていなかった。広げただけ。書く準備はしていたのに、書けなかった。
ティックはアカリの肩で眠っていた。小さな寝息。光の粉が翅から零れている。何百年分の「みんな」を語った妖精は、今は小さな寝息を立てている。
アカリはスマホを握りしめていた。80%。冷たい画面の光だけが、手のひらを照らしている。
来て、泣いて、光になるの。
——まだ、泣いてない。




