第22話「20年の手触り」
バルトロメイは動かなかった。
胸元を押さえた手が、そのまま固まっている。大きな手だ。指が太い。関節が節くれだっている。その手の下に、ガラケーがある。
沈黙が長かった。街道の風が草を揺らす音だけが聞こえる。
レオンが一歩前に出た。
「師匠。この者は——」
「わかっている」
バルトロメイがレオンを制した。目はアカリを見ている。アカリの目を。アカリの手を。
「お嬢ちゃん。これが何かわかるのか」
お嬢ちゃん。聖女様じゃなくて、お嬢ちゃん。
「……はい。わかります」
「この世界のものではない」
「はい」
「お前も、この世界の者ではない」
質問じゃなかった。確認だった。バルトロメイの目がアカリを射抜いている。老人の目。でも甘さがない。元聖騎士団長の目。レオンを育てた人の目。
イレーネが微かに身じろぎした。気配だけ。でもバルトロメイはそれを無視した。
「……はい」
認めた。レオンの前で。イレーネの前で。この世界の者ではないと。
レオンが目を伏せた。知っていたのか、今わかったのか。どちらにしても、何も言わなかった。
バルトロメイの手が、ゆっくりと胸元から離れた。
革紐を首から外す。太い指が、紐の結び目をほどく。手が震えていた。老齢のせいではない。この人の手は鎧を着けるとき震えなかった。剣を握るとき震えなかった。この紐をほどくときだけ、震えている。
ガラケーが、バルトロメイの手のひらの上に乗った。
小さかった。あの大きな手の中で、驚くほど小さかった。
「二十年、肌身離さなかった」
声が低い。地面から響くような声が、今はもっと低い。
「……どうぞ」
差し出された。
両手で受け取った。
最初に感じたのは、温もりだった。
バルトロメイの体温。鎧の下で、肌の上で、二十年間蓄えられた人間の温度。金属とプラスチックの筐体が、まるで生き物のように温かい。
次に、重さ。
軽い。スマホより遥かに軽い。百グラムもないだろう。でも手のひらの中で、ずっしりと重い。物理的な重さじゃない。別の重さ。時間の重さ。
指先が表面をなぞった。
塗装が剥げている。元は何色だったんだろう。銀色の下地が至るところで露出している。角が丸くなっている。二十年間、布と肌に擦れ続けて、角が削れたのだ。
ヒンジ部分。ここが一番ひどい。開閉を繰り返した跡。いや、違う。この端末はもう動かない。開閉を繰り返したんじゃない。バルトロメイが何度も触ったのだ。開こうとして、開かなくて、それでも触って。ヒンジの塗装だけが、他の部分より深く剥げている。
液晶カバー。無数の細かい傷。鎧の金属と擦れてできた傷。一本一本が、バルトロメイと過ごした日の記録。
背面パネルの角が欠けていた。ぶつけたのか、落としたのか。欠けた断面が滑らかになっている。割れた直後の鋭さが、長い年月で磨り減った。
そして——電池カバーの隙間に、何かが挟まっている。小さな花。押し花。紫色の、小さな花びら。もう色が褪せかけている。いつ挟んだんだろう。五年前か。十年前か。
ポケットのスマホに手が伸びた。取り出す。隣に並べた。
左手にガラケー。右手にスマホ。
スマホの画面には保護フィルムが貼ってある。傷は一つもない。角も欠けていない。ケースの中で守られている。買ってからまだ一年。バッテリーも劣化していない。
ガラケーには何もない。保護するものが何もない。裸のまま二十年間、鎧の下にあった。
時間の差が、両手の重さの差になって伝わってくる。一年と二十年。新品と遺品。生きている端末と、死んでいる端末。
目の奥が熱くなった。
なんで。泣くところじゃない。ただの古い携帯電話だ。ただの機械だ。でも——。
この端末を持っていた人がいた。私と同じように、この世界に来た人がいた。この画面を見て、このボタンを押して、この端末に何かを残した人がいた。
そしてその人は——もういない。
「これは」
バルトロメイの声が聞こえた。震えていた。元聖騎士団長の、地面から響くような声が、震えていた。
「二十年前の聖女の遺品だ」
遺品。
「彼女の名はサキ。お前と同じように——光の世界から来た子だった」
サキ。日本語の名前。日本人の女の子。この世界に召喚されて、聖女になって、そして——遺品。遺品ということは。
ガラケーを握りしめた。バルトロメイの体温がまだ残っている。でもその奥に、もう一つの体温があった気がした。二十年前の、サキという女の子の、体温の残滓。
もうとっくに消えているはずの温度が、指先に触れた気がした。




