第21話「首に下げた墓標」
翌朝。出発の準備をしていた。
村人たちが食料を分けてくれた。パン。チーズ。干し果物。水の入った革袋。「ほんの気持ちですが」と老人が言った。水が飲めなかった村が、水を分けてくれている。断れるわけがない。
「ありがとうございます。大切にいただきます」
頭を下げた。聖女としてじゃなくて、普通に。この人たちに頭を下げるのは、普通のことだと思った。
バックパックに荷物を詰め直す。スマホ、80%。モバイルバッテリー、75%。ステッキ。アジシオ。工具ポーチ。歯車パーツはステッキに戻した。ネジを締め直す。次に使うときまた外せばいい。
レオンが馬の鞍を締めている。イレーネが毛布を畳んでいる。ティックが子供たちと遊んでいる。「ばいばーい!」「ティックちゃんまた来てねー!」「また来るー! きれいなものいっぱい見せてねー!」
平和だった。朝の村は平和だった。
街道に出た。
村の入り口まで見送りに来てくれた老人に手を振って、歩き始めた。空が青い。昨日の夜の篝火の匂いがまだ服に残っている。
三十分ほど歩いたとき、レオンの足が止まった。
前方に、人影があった。
街道の真ん中に立っている。逆光で、シルエットだけが見える。大きい。レオンより大きい。肩幅が広い。何かを背負っている。
レオンの手が剣の柄に——いかなかった。
手が止まった。肩の力が抜けた。この人の肩から力が抜けるのを、初めて見た。
「——師匠」
声が変わっていた。低い声が、ほんのわずかに上がっている。
逆光の中から、人影が歩いてきた。
老人だった。白髪。短く刈り込んでいる。顔に深い皺。日焼けした肌。体は大きいが、背中がわずかに丸い。年齢は六十代半ばか、もう少し上か。
鎧を着ていた。古い鎧。金属の表面が曇っている。革紐が何度も結び直された跡がある。右の肩当ての縁が欠けている。使い込んだ道具の色をしている。
腰に剣。柄の革が磨り減って、木の地が見えている。
「レオンか。大きくなったな」
低い声。でもレオンとは違う低さ。重い。地面から響いてくるような声。
「師匠、なぜここに。巡礼は南方のはずでは」
「風の向くまま足の向くまま。老人の巡礼に予定表はいらん」
笑った。深い皺が動いて、顔全体が笑顔になった。目尻の皺が扇状に広がる。優しい顔だった。でも目の奥に、何かが沈んでいた。疲れ、ではない。もっと古いもの。
老騎士の視線がアカリに移った。
「ほう」
一歩近づいた。アカリの旅装束を見ている。胸の歯車エンブレムを。ステッキを。
「……光を纏う聖女か。久しぶりだ」
久しぶり。
その言葉に、時間の重さがあった。「久しぶり」というのは数日や数ヶ月のことじゃない。もっとずっと長い時間を、この人は「久しぶり」と言った。
「あ、あの……はじめまして。アカリです」
「バルトロメイだ。元・聖騎士団長。今はただの老いぼれ巡礼者だ」
聖騎士団長。レオンの上司——いや、元上司か。そしてレオンが「師匠」と呼ぶ人。
バルトロメイがアカリの顔を覗き込んだ。目が合う。茶色い目。深い。この目は何かを探している。イレーネの「探し方」とは違う。イレーネは情報を探していた。この人は——人を探している。アカリの中に、誰かの面影を。
見つからなかったらしい。
バルトロメイの目に、ほんのわずかに影が落ちた。落ちて、すぐに消えた。笑顔に戻る。でもその影を、アカリは見た。
「レオン。この子の護衛か」
「はい」
「そうか」
短いやりとりだった。でもバルトロメイの「そうか」には、何か複雑なものが混ざっていた。
風が吹いた。バルトロメイの襟元が揺れた。
そのとき、見えた。
首から何かを下げている。革紐で。胸元に。小さな四角い物体。手のひらに収まるくらいの大きさ。金属の表面が鈍く光っている。
折り畳み式の。
二つに折れる形の。
ヒンジがある。
心臓が止まった。
ガラケーだ。
間違いない。折り畳み式携帯電話。2000年代前半のモデル。塗装が剥げている。ヒンジ部分の銀色が露出している。液晶カバーに無数の傷。角が欠けている。ストラップホールに革紐が結ばれていて、それが首にかかっている。
革紐の根元に、もう一つ何かがぶら下がっていた。小さい。親指の先くらい。プラスチック。色が褪せていて、元の色がわからない。でも形は——人の形。女の子の形。杖を持っている。マントを翻している。
キャラクターストラップだ。魔法少女の。二十年分の摩擦で塗装がほぼ剥げて、顔も服もわからなくなっている。でも杖のシルエットだけは残っていた。
二十年。
この鎧の下で、この人の体温で、二十年間。
足が動かなかった。目が離せなかった。あの四角い物体から。
バルトロメイが気づいた。アカリの視線の先を追って、自分の胸元を見下ろした。
表情が変わった。笑顔が消えた。レオンに見せなかった顔。老人の顔の皺が全部、下を向いた。
「あの……」
声が震えた。自分の声が震えているのがわかった。
「それ、見せてもらえますか」
バルトロメイの手が、無意識に胸元を押さえた。
ガラケーを庇うように。二十年間そうしてきたように。




