第2話「圏外」
石壁が冷たかった。
あてがわれた部屋は広い。天蓋つきの寝台。窓には色ガラス。燭台の炎が壁に大きな影を落としている。豪華なのだろう。たぶん。でも石壁に指を触れると、指先から体温が吸い取られていく。
夜だった。
あの祭壇での騒ぎのあと、何人もの修道士に囲まれてここに通された。食事が出た。硬いパンと薄いスープ。無理やり口に押し込んだが、味がよくわからなかった。修道士たちが何か説明していたが、半分も聞き取れなかった。言葉は理解できる。でも内容が頭に入ってこない。
今は一人だ。
寝台の端に腰掛ける。パーカーのポケットからスマホを取り出した。画面をつける。
圏外。
まあ、そうだよね。ここは異世界だ。電波塔なんかあるわけない。LINEもSNSもブラウザも、何もかも繋がらない。ホーム画面の壁紙だけが光っている。アイアン・ベルの公式イラスト。銀髪碧眼の変身姿ではなく、変身前の——メガネをかけた地味な女子高生の姿のほう。自分に似ているから選んだ壁紙だった。
85%。さっきのフラッシュで2%減った。
スマホを膝の上に置く。
代わりにバックパックを下ろした。床に座り込む。石の床が冷たい。でもいい。中身を一つずつ取り出す。確認する。手を動かしていないと、頭がおかしくなりそうだった。
装甲板。四枚。EVA素材にメタリック塗装。傷はない。LEDユニット。基板が一枚。チップLEDが十二個。配線は無事。バッテリーボックス。単四電池三本。未開封の予備が二本。モバイルバッテリー。容量一万ミリアンペア。残量ほぼ満タン。ポーチを開ける。精密ドライバーセット。六角レンチ。ニッパー。ペンチ。銅線のリール。アルミホイル。瞬間接着剤。半田ごて——は、コンセントがないから使えない。
並べた。石の床の上に、全部並べた。
寝台の脇にはステッキが立てかけてある。LED三色切り替え。フラッシュモード。効果音のスピーカー。そしてグリップの中にはクラッカーが一発、仕込んである。
冷たい石の床に、自分の持ち物が整列している。
工具と、衣装パーツと、スマホと、推しのステッキ。
これだけ。これが、この世界で自分が持っている全部。
メガネを外した。
右手の甲で目を擦る。レンズが曇っている。涙だ。拭いても拭いても、レンズの曇りが取れない。眼鏡拭きはスーツケースの中。スーツケースはホームに残したまま。
パーカーの袖口でレンズを拭いた。繊維の跡が残った。でもさっきよりはマシだ。
かけ直す。
石の床の道具が、ぼやけた輪郭から、くっきりした形に戻る。
「……道具はある」
声に出した。ちゃんと自分の声が聞こえた。それだけで少し、呼吸が楽になる。
「知識もある。推しの台詞だってある」
何一つ面白くない。全然笑えない。でも泣いたままでいたら、ベルに怒られる。アニメの第四話。災害で泣き崩れた一般人の前に降り立ったベルは、こう言った。「泣いてもいいよ。でも、泣き終わったら立って」。
立つ。膝が笑っている。でも立った。
「生き延びる。何があっても」
燭台の炎が揺れた。窓の外は暗い。星が見える。見たことのない星座だった。
◇
朝。
石壁の隙間から差し込む光で目が覚めた。知らない天井。一瞬だけ混乱して、すぐに思い出す。ここは異世界で、私は聖女と呼ばれていて、それが何を意味するのかまだわかっていない。
控えめなノックが三回。
「失礼いたします、聖女様」
扉が開く。修道服の女性が立っていた。二十代半ば。姿勢がいい。修道服の襟元は糊が利いていて一切の皺がない。口元にはにこやかな微笑み。
「はじめまして。お世話係を仰せつかりました、シスター・イレーネと申します」
丁寧な言葉。温かな声音。目元も笑っている。
でも——首元に、銀色の印章がぶら下がっていた。修道服の内側から覗く、小さな金属の光。視線が吸い寄せられる。配線の接触不良を見つけたときと同じ感覚。何かがおかしい。何がおかしいのかは、まだわからない。
何の印なのかは、わからない。
でもイレーネの微笑みの奥で、何かが光っていた。




