第19話「二度目の神の味」
夜になって、村が生き返った。
広場に火が焚かれていた。焚き火じゃない。もっと大きい。丸太を三本組んで、その上にさらに枝を積み上げた篝火。炎が高く上がって、広場全体を橙色に照らしている。
村人たちが動き回っていた。朝、土気色の顔で座り込んでいた人たちが、今は笑っている。井戸から水を汲んで、鍋に注いで、火にかけている。根菜を切っている。干し肉を戻している。子供が走り回っている。鶏が鳴いている。朝はなかった音が、全部戻っていた。
水が飲めるようになった。それだけで、村はこんなに変わる。
「聖女様! こちらへ!」
広場の真ん中に席が用意されていた。木の切り株に布が敷いてある。一番篝火に近い、一番温かい場所。上座だ。
座った。居心地が悪い。隣にレオン。向かいにイレーネ。ティックはアカリの肩で、篝火の炎をきらきらした目で見ている。
村人たちが次々に碗を運んできた。スープ。パン。焼いた根菜。蜂蜜。チーズ。こんなに出していいの。さっきまで水も飲めなかった村なのに。
「聖女様のおかげです。どうかお召し上がりください」
老人が涙ぐんでいた。朝、膝をついて「どうかお救いください」と言った老人。その目に、今は感謝が溢れている。
「神の光だ! 聖女様の光が瘴気を焼き払ったんだ!」
若い男が叫んだ。広場に歓声が響く。
「聖女様万歳!」「神の光!」「救いの光だ!」
……LEDだよ。フラッシュライトだよ。歯車パーツで収束させただけだよ。
でもそれは言えなかった。言う必要もなかった。この人たちにとって、水が戻ったことが全てだ。原理が何であれ、結果が全て。
でも。
井戸の底に、まだ残っている。紫色の影。あれを消せなかった。今は薄いから飲める。でもいつか濃くなったら——。
考えるのをやめた。今は、やめた。
スープを一口飲んだ。根菜のスープ。温かい。味は——。
薄い。
ポーチからアジシオを取り出した。
自分の碗に一振り。もう一口。うん。生きてる味。いつものやつ。
隣の子供がこっちを見ていた。五歳くらい。大きな目。碗を両手で抱えている。
「……かける?」
子供が頷いた。碗を差し出す。一振り。子供がスープを飲んだ。
目が丸くなった。
「おいしい! お母さん、おいしい! 聖女様の白いやつ、すごい!」
母親が駆け寄ってきた。「聖女様、それは何でしょうか」。アカリは碗を差し出した。「塩です。よかったらどうぞ」。一振り。母親が飲んだ。
目が見開かれた。あの表情。イレーネのときと同じだ。
「……なんて、美味しい……」
連鎖が始まった。
「私にも!」「こっちにも!」「聖女様の塩を!」
碗が次々に差し出される。一振り、一振り、一振り。アジシオの赤いキャップが篝火の光を反射している。二十人。三十人。村人の全員が碗を持って並んでいる。
「神の味だ!」
誰かが叫んだ。
「神の味だ! 聖女様の塩は神の味だ!」
合唱になった。神の味。神の味。篝火の前で、村人たちが碗を掲げている。涙を流している人がいる。笑っている人がいる。子供が踊っている。
二度目の「神の味」。一度目はイレーネの碗の中で、二人きりの朝に起きた。二度目は篝火の前で、村ごと起きた。
アジシオの残量が気になった。振ってみる。まだ半分くらいある。大丈夫。まだ持つ。
……スマホのバッテリーより先にアジシオの心配してるの、なんかおかしいな。
レオンが碗を差し出した。
無言で。仏頂面で。森を抜けた日の昼休憩のときと同じだ。顔は見ない。でも碗は差し出す。
一振り。レオンが飲んだ。表情は変わらない。でも碗が空になるのが、少しだけ早かった。
最後に、イレーネが碗を持ってきた。
微笑みながら。いつもの微笑み。でも碗の差し出し方が違った。昼は自然な催促だった。今は——なんだろう。少しだけ、遠慮がある。
一振り。イレーネが碗を口に運んだ。
「神の味だ」とは言わなかった。
初めてアジシオを口にしたとき、イレーネは「神の味だ」と呟いた。あのときは初めての味に打たれて、微笑みが消えて、碗に直接口をつけて啜った。
今は違う。静かに、一口ずつ飲んでいる。丁寧に。噛みしめるように。微笑みは消えない。でもあの「仕事の微笑み」じゃない。もっと静かな表情。
碗が空になった。
「ごちそうさまでした」
それだけ。神の味とも、美味しいとも言わなかった。ただ碗を空にして、「ごちそうさまでした」と言った。
……なんだろう。この人が「ごちそうさまでした」って言うの、初めて聞いた気がする。いつもは食事が終わると静かに片付けを始めるだけだった。
ごちそうさまでした。五文字。短い言葉。でもそこに、この人なりの何かが入っている気がした。感謝なのか、敬意なのか、それとも——。
わからない。イレーネのことは、いつもわからない。
篝火がぱちんと爆ぜた。火の粉が舞い上がる。村人たちの歌声が聞こえる。知らないメロディ。でも温かい歌だった。
55%。井戸の底の紫。粘液の中の声。ビジョンの中の人影。
全部、まだそこにある。消えていない。
でも今夜だけは、篝火の温かさとアジシオの味の中にいてもいいかな、と思った。




