第18話「声の周波数」
核を探す。
でもどうやって。紫色の粘液は井戸の底まで沈んでいる。目で見ただけじゃ、どこに核があるかわからない。カメラのズームでも限界がある。水の中は暗い。粘液で濁っている。
……音だ。
さっきカメラで見たとき、粒子は一方向に流れていた。何かに引き寄せられていた。引き寄せるということは、核がエネルギーを発している。エネルギーがあるなら、何かしらの信号が出ているはず。光か、熱か、振動か。
振動なら、音として拾えるかもしれない。
スマホのボイスメモアプリを開いた。63%。録音ボタンをタップ。スマホを井戸の縁に近づけて、マイクを水面に向けた。
十秒間、録音する。
停止。再生。
……水の音。ぼこぼこという低い音。粘液が動く音。泡の音。ノイズ。聞き取れるのはそれだけ。
でもスペクトルが見たい。波形じゃなくて周波数分布。工業高校で使った音響解析ソフトに似たアプリがスマホに入っている。去年の文化祭で、軽音部のPAを手伝ったときにインストールしたやつ。オフラインで動く。
録音データをアプリに読み込ませた。スペクトルグラムが表示される。横軸が時間、縦軸が周波数、色が強度。ほとんどが低周波域。水の音。泡の音。予想通り。
でも——。
300ヘルツから3000ヘルツのあたりに、細い線が走っていた。
ノイズじゃない。パターンがある。強弱がある。波形が揺れている。
この周波数帯は——人の声の帯域だ。
指が止まった。
人間の声は、基本周波数がだいたい100から300ヘルツ。倍音を含めると3000ヘルツくらいまで広がる。このスペクトルに出ているパターンは、まさにその範囲に収まっている。
音量を最大にして、もう一度再生した。スマホを耳に当てる。水の音の下に、何かがある。かすかに。ノイズの隙間に。
聞こえた。
声だ。
人の声だ。
何を言っているかはわからない。言葉になっていない。でも音の上がり下がりが、明らかに人間の発声パターンだ。唸っているような。呻いているような。大勢の声が重なって、一つのうねりになっている。
スマホを耳から離した。手が震えている。
「……声がする。この粘液の中に、人の声が」
レオンが眉をひそめた。
「声?」
「マイクで——あ、えっと、この聖具で音を拾ったの。水の音の下に、人の声みたいな音が混ざってる。周波数が一致してる」
レオンは理解していない。周波数もマイクもわからないだろう。でもアカリの顔を見て、何かを判断した。
「……それが核か」
「声が一番強い場所が核だと思う。粒子がそっちに流れてたから」
スマホを井戸の中に向ける。マイクの向きを変えながら、音量の変化を探る。左。右。中央。
中央やや右寄り。深さは——水面から腕一本分くらい下。音量が最大になる場所。粘液が濃い場所。粒子が渦を巻いている場所。
ここだ。
収束光を構えた。スマホのフラッシュ。歯車パーツ。光を一点に絞る。狙いを定める。
撃った。
光が水面を貫いた。紫の粘液を突き破って、核に到達する。
井戸の中で何かが叫んだ。
声だ。明確な声。さっきまでの唸りじゃない。甲高い、引き裂くような悲鳴。人の声なのに人の声じゃない。耳の奥が痛い。頭の芯が痺れる。
粘液が暴れた。水面が跳ねる。紫色の飛沫が井戸の縁を超えて飛んでくる。腕にかかった。冷たい。冷たいのに、触れた場所が熱い。
「止めるな!」
レオンの声が聞こえた。井戸の縁をレオンが押さえている。飛沫を浴びながら、仁王立ちで。
光を当て続けた。手が震える。歯車パーツがずれそうになる。もう片方の手で押さえる。両手で構える。ステッキは膝で挟んだ。
悲鳴が弱くなっていく。粘液の飛沫が収まっていく。紫色が薄くなっていく。
最後に、ぷつん、と何かが弾ける音がした。
静かになった。
井戸の中を覗き込む。水面が揺れている。まだ紫がかっているけど、さっきより薄い。ずっと薄い。粘液の膜は消えた。呼吸も止まった。
でも——底のほうに、紫の影がまだ残っている。水面近くは透明に戻ったのに、深いところにうっすらと。
「……全部は、消せなかった」
声が小さかった。悔しい。あと少しだったのに。でもバッテリーが——。
スマホを見た。55%。63%から8%消費。合計で今日だけで13%。
井戸の水を桶で汲んだ村人が、おそるおそる口をつけた。一口。
「……飲める」
涙声だった。
「飲めるぞ! 水が戻った! 聖女様が水を救ってくださった!」
広場から歓声が上がった。泣いている人がいる。抱き合っている人がいる。子供が水を飲んで、母親が子供の頭を撫でている。
全部は消せなかった。底にはまだ残っている。でも飲める水にはなった。村人には、それで十分だった。
アカリには、十分じゃなかった。
井戸の縁に手をついた。膝の力が抜けて、もたれかかるように体重を預けた。石の縁が冷たい。
指先に何かが触れた。
粘液だ。さっき飛沫で飛んだ分が、縁の石に残っていた。紫色の、薄い膜。もう動いていない。死んだ残滓。
触れた瞬間——。
視界が白くなった。
大量の人影が見えた。どこかの暗い場所。地下。石の壁。鎖。人が並んでいる。何十人。何百人。口が開いている。叫んでいる。
「痛い」
「助けて」
「ここから出して」
声が重なっている。うねりになっている。さっきスペクトルで見たパターンと同じだ。あの周波数。あの揺れ。
人の声だった。大勢の人の、苦しむ声だった。
白が消えた。
井戸の縁にもたれかかっていた。指が粘液に触れたまま。心臓がバクバク鳴っている。息が荒い。汗が冷たい。
「聖女様? お顔の色が優れませんが」
イレーネの声が聞こえた。遠い。近いはずなのに遠い。
「……大丈夫。ちょっと、疲れただけ」
嘘だ。大丈夫じゃない。今のは何。何を見た。あの人たちは誰。あの声は。あの場所は。
粘液から手を離した。指先を旅装束で拭った。紫色の痕が、布に残った。
誰にも言えなかった。何を見たのか。何を聞いたのか。言葉にならなかった。言葉にしたら、本当になりそうで怖かった。
村人たちの歓声が、遠くで鳴っている。




