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第16話「水が死んだ村」

 村は、静かだった。


 静かすぎた。街道沿いの小さな集落。石造りの家が十数軒。畑がある。家畜小屋がある。井戸がある。人が暮らしている場所のはずなのに、生活の音がしない。


 子供が遊ぶ声がない。鶏が鳴いていない。鍛冶の音も、洗濯の音も、何もない。


 窓が閉まっている。昼間なのに。


 レオンの手が剣の柄に乗った。無言で周囲を見回している。イレーネの微笑みが薄くなった。ティックがアカリの襟元に潜り込んだ。森のときと同じだ。ティックの翅が震えている。


 「……何かがおかしいよね」


 「ああ。村だ。人がいるはずだ」


 レオンが初めて、二語以上で応えた。それだけで状況がまずいのだとわかる。


 広場に出た。


 井戸がある。石組みの古い井戸。その周りに、人が座り込んでいた。五人。六人。もっといる。家の壁に背を預けて座っている人たちもいた。顔色が悪い。土気色だ。目の下に隈。唇がひび割れている。


 一人の老人がこちらを見た。


 目が見開かれた。ゆっくりと立ち上がる。膝が震えている。


 「せ……聖女、様……?」


 かすれた声が、広場に響いた。


 連鎖的に、周囲の人間が顔を上げた。アカリの旅装束——その胸元の歯車エンブレムを見ている。お披露目で見せた聖紋。噂が伝わっているのか、それとも聖女が来るという知らせがあったのか。


 老人が膝をついた。


 「聖女様……どうか……どうかお救いください……」


 その声で、家の中から人が出てきた。女性。子供。みんな同じ土気色の顔をしている。よろめきながら、広場に集まってくる。


 「水が……水が死んだのです」


 水が死んだ。


 「井戸の水が紫色に変わって、飲めなくなりました。三日前からです。飲んだ者は腹を壊し、熱が出て……子供たちが、子供たちが弱っていって……」


 老人の目に涙が浮かんでいた。しわの間を伝って落ちていく。


 周りを見る。痩せた子供が母親にしがみついている。毛布にくるまれた老婆が、壁に寄りかかって目を閉じている。みんな、脱水の症状が出ている。唇のひび割れ。窪んだ目。水が飲めなくなって三日。


 ——助けなきゃ。


 そう思った。考える前に思った。でもすぐに自分の手を見た。この手には何もない。魔法は使えない。祈っても水は浄化されない。私はただの——。


 「……井戸を見せてもらっていいですか」


 声が震えた。でも出た。


 老人が頷いた。井戸に案内される。石組みの縁を覗き込んだ。


 紫だった。


 水面が紫がかっている。透明じゃない。表面に薄い膜が張っていて、光を当てると虹色にぬらりと反射する。油膜みたいだ。でも油じゃない。匂いが違う。甘い。嫌な甘さ。腐りかけの果物に似ている。


 スマホを取り出した。68%。カメラを起動する。井戸の縁にスマホを近づけて、水面を接写した。ズーム。


 粘液だ。紫色の粘液が水に溶けている。表面だけじゃない。水の中にも漂っている。半透明の、ゼリーみたいな塊が、水面の下をゆっくり動いている。


 「ティック。これ見てわかる?」


 襟元からティックが顔を出した。井戸を覗き込む。


 「あれー、ヌルヌルだねー。触ったらベトベトになるよー」


 「触っちゃだめだよ! ……ベトベトって、前に見たことあるの?」


 「あるよー。黒い森にもいたよー。もっと小さいやつー。木の根っこについてたー」


 「それって瘴気と関係ある?」


 「たぶんー。ティック、ぴりぴりするから近づかなかったけどー」


 瘴気。黒い森の影狼と同じ。瘴気が水に溶け込んで、粘液になって、井戸を汚染した。


 スマホの画面を見直した。接写した写真を拡大する。粘液の中に、さらに細かい粒子が見える。紫の粒子が、粘液の中を漂っている。規則的な動きだ。ランダムじゃない。何かに引き寄せられるように、一方向に流れている。


 ……何かがいる。この粘液の、奥に。


 井戸の水面が、かすかに揺れた。


 風のせいじゃない。粘液の膜が、内側から持ち上げられるように膨らんで、また沈んだ。呼吸みたいに。何かが、水面の下で、呼吸している。


 後ずさった。心臓が跳ねている。


 「レオン」


 「……見た」


 レオンが井戸の縁に手をかけて、水面を見下ろしていた。灰色の目に紫色の反射が映っている。


 「剣で斬れる相手じゃないな」


 「……うん」


 「お前の光は、効くのか」


 影狼に効いた光。ストロボ。フラッシュ。散光。でもあれは靄の上に直接当てたから効いた。水の中に溶けている粘液に、散光を当てても——。


 「……わかんない。でも、やるしかない」


 レオンが頷いた。短く。一度だけ。


 振り返ると、村人たちが広場に集まっていた。全員がこちらを見ている。土気色の顔。窪んだ目。子供が母親にしがみついている。


 聖女様、どうか。


 その声が、全員の目から聞こえていた。

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