第15話「イレーネの筆跡」
森を抜けた。
二日目の午後、木々が急に途切れて、空が開けた。まぶしい。森の中に二日もいると、空ってこんなに広かったっけ、と思う。
街道が丘陵地帯に伸びている。左手に畑。右手に牧草地。遠くに集落の屋根が見える。風に干し草の匂いが混ざっている。森の湿った空気とは全然違う。乾いていて、温かくて、人間の場所の匂いがする。
レオンが先頭を歩いている。今朝のハミングのことは、なかったことになっている。完全に。一言も触れない。アカリも触れない。ティックだけが「あの音もっとー」とたまに言って、レオンに黙殺されている。
昼の休憩。
街道脇の大きな木の下に腰を下ろした。イレーネが水筒と干し肉を配る。アカリはアジシオを取り出して、干し肉に一振りした。肉の表面に白い粒子が散る。うん。おいしい。アジシオは万能だ。
イレーネにも振りかけようとしたら、イレーネが碗を差し出してきた。無言で。微笑みながら。
……この人、催促してる。催促の仕方がスマートすぎて一瞬わからなかったけど、碗を差し出すのは催促だ。
一振り。イレーネが目を閉じて一口。表情が、ほんのわずかに和らいだ。この人がアジシオを口にするときだけ、微笑みの質が変わる。仕事の微笑みから、味の微笑みに。
レオンが黙って碗を差し出した。
えっ。レオンも?
顔はいつもの仏頂面だ。目もこっちを見ていない。でも碗が差し出されている。
「……はい」
一振り。レオンが一口飲んだ。表情は変わらない。一ミリも変わらない。でも二口目を飲んだ。三口目も飲んだ。碗が空になった。
……美味しかったんだね。言わないだけで。
休憩の後半。レオンが丘の上に偵察に行った。ティックは草むらで虫を追いかけている。
アカリとイレーネが、二人きりになった。
イレーネは木の幹に背を預けて、膝の上に羊皮紙を広げていた。ペンが走っている。いつもの光景。でも今日はアカリの隣だった。距離が近い。
見えた。
見ようとしたんじゃない。ちらっと横を向いたら、羊皮紙の表面が目に入った。
筆跡が綺麗だった。一文字一文字が均等で、行間も揃っている。印刷みたいだ。この世界にプリンターはないのに。修道院で鍛えた文字なんだろう。
読もうとした。読めなかった。文字は理解できるはず。言葉は通じている。でもイレーネの筆記体は、話し言葉とは別物だった。装飾的な書体。しかも略号が多い。意味のわからない記号が文字の間に挟まっている。
一箇所だけ、読み取れた文字列があった。
「ロードアウト」。
カタカナじゃない。この世界の文字で、発音だけが転写されている。
心臓が冷えた。
イレーネがこちらを見た。微笑み。羊皮紙を自然な動作で閉じた。急いで隠すのではなく、書き終わったから閉じた、という所作。でもタイミングが良すぎる。アカリの視線に気づいていた。最初から。見せたのかもしれない。
「……イレーネさん。いつも何を書いてるの?」
聞いてしまった。聞かないつもりだったのに。
イレーネが微笑んだ。いつもの微笑み。
「聖女様のご記録でございます。聖女の御旅路を後世に伝えるのも、お世話係の務めでございますので」
御旅路の記録。後世に伝える。
嘘だ。あの文面は旅行記じゃない。「ロードアウト」の発音を転写して旅行記に何の意味がある。あれは——分析だ。調査報告だ。
でも笑顔が完璧すぎて、「嘘でしょ」とは言えなかった。
「……そうなんだ」
「はい。聖女様のお言葉も、お振る舞いも、すべて記録に値いたします」
すべて。
その「すべて」には、LEDのストロボも、スマホのフラッシュも、焚き火の前の配線修理も含まれている。全部見ていた。全部書いていた。そしてたぶん——全部、誰かに報告する。
イレーネの微笑みが、陽だまりの中で揺れている。温かい午後の光。干し草の匂い。穏やかな風景なのに、背筋だけが冷たい。
◇
羊皮紙が、夕暮れの光の中で広げられていた。
丁寧な筆跡。一文字の乱れもない。ただし二箇所、ペンが止まった跡がある。インクが点になって滲んでいる場所。書き手が迷った場所。
——「戦闘時の叫び『ロードアウト』。言語体系は既知のいずれとも一致せず。聖典古語にも、諸国の俗語にも、過去の聖女記録にも類例なし」
——「光の発生源は胸部聖紋ではなく、手持ちの聖具および板状の器物。光の性質は魔力反応を伴わない。原理不明。物理現象に……近い」
「近い」の文字の前に、インクの滲み。迷った跡。
——「板状の器物を頻繁に確認する行動あり。聖具との関連は不明。器物の表面は発光し、使用後に数字が変化する模様。聖女はこの数字に強い執着を示す」
最後の一行。筆跡がわずかに崩れている。
——「結論を保留する。この聖女は、過去の記録のいずれとも一致しない」
羊皮紙が閉じられた。
夕暮れの丘の向こうから、水の音が聞こえていた。川だろうか。でもどこか重い。粘りのある音。水というより、何かが水に混ざって流れている音。
イレーネの目が、一瞬だけ、そちらを向いた。




