表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/37

第12話「お母さん狼」

 光が消えると、匂いが来た。


 血の匂い。獣の匂い。それから、焦げたような——靄が蒸発するときの匂い。どれも嗅いだことがない匂いだった。嗅ぎたくなかった。


 レオンが松明を点けた。イレーネが荷物から取り出したものだ。いつの間に準備してたんだろう。この人はいつも、いつの間にか何かを済ませている。


 火が揺れる。


 灰色の毛皮が、地面に横たわっていた。


 三頭。逃げなかった個体。さっきまで黒い靄にまとわれていたのに、今はただの灰色だった。普通の灰色。犬に似ている。大きいけど、犬に似ている。目が閉じている。赤い光はもう消えていた。


 一頭の口元から、白い泡が垂れている。もう一頭は前脚が不自然な角度に曲がっていた。逃げようとして、転んだのかもしれない。


 レオンが膝をついた。剣を地面に突き立てて、一頭ずつ確認していく。毛皮をめくる。脇腹を見る。手つきが慣れている。何度もやったことがある動きだった。


 三頭目の前で、手が止まった。


 「……来い」


 アカリに向かって言った。声は低いけど、命令じゃなかった。呼んでいる。


 立ち上がる。膝がまだ震えている。数歩。三頭目の前に来た。


 レオンが毛皮をめくっていた。腹側。灰色の毛が薄くなっている部分。乳房が並んでいた。六つ。張っている。先端が赤い。


 「……授乳の跡だ」


 「え……」


 「最近まで乳を飲んでいた子がいる」


 意味がわからなかった。一秒遅れて、わかった。


 この狼は、お母さんだった。


 どこかに子供がいる。巣穴に。この森のどこかに。お母さんの帰りを待っている子供が。


 「こいつらは元々この森の普通の狼だった」


 レオンが毛皮を戻した。丁寧に。さっきまで斬ろうとしていた相手に、丁寧に毛皮を戻した。


 「瘴気に当てられると獣は靄を纏う。目が赤くなり、人を襲うようになる。だが元は——ただの獣だ」


 ただの獣。ただの、子育て中の母親だった狼。それが瘴気とかいうよくわからないものに侵されて、赤い目になって、人を襲うようになって、ストロボの光で——。


 膝から力が抜けた。地面に手をついた。土と落ち葉の感触。冷たい。


 ティックが降りてきた。死んだ狼の鼻先に、ふわりと着地する。小さな手で灰色の毛を撫でた。


 「……あの子たち、お母さんだったんだねー」


 いつもの語尾。いつもの声。でも、いつもと違った。ティックの大きな瞳が、光の粉で濡れていた。妖精の涙が光の粉なのか、光の粉に涙が混ざっているのか、わからない。


 きらきら光る雫が、灰色の毛皮の上に落ちた。


 何も言えなかった。「ごめんね」も違う。「仕方なかった」も違う。ストロボの光で追い払っただけだ。直接手を下したわけじゃない。でもこの三頭は逃げ遅れて、靄が剥がれて、裸のまま倒れて、それで——。


 それで、子供が帰りを待ってる。


 イレーネが背後に立っていた。松明を掲げている。その顔を見上げた。微笑み。いつもの微笑み。松明の炎で影が揺れているのに、微笑みだけはぶれない。


 「聖女様。お怪我はございませんか」


 怪我はない。体にはどこも。


 「……ないです」


 「それはよろしゅうございました」


 イレーネの空いた手が、何かを持っていた。羊皮紙。ペン。いつ取り出した。松明を持ちながら、死骸を照らしながら、もう片方の手で記録を取っている。


 何を書いてるの。狼のこと? 私のこと? ストロボのこと?


 聞けなかった。聞く気力がなかった。


 レオンが立ち上がった。剣の血を布で拭いている。右腕の傷はイレーネが布で巻いていた。これもいつの間にだ。


 「……行くぞ。ここにいても瘴気に当たるだけだ」


 立つ。立たなきゃ。膝に力を入れる。バックパックが重い。ステッキを杖にして、なんとか体を起こした。


 ポケットのスマホが気になった。


 取り出す。画面を点ける。


 68%。


 ——は?


 78から68。10パーセント。一回の戦闘で10パーセント。


 ストロボ何分使った。三分? 五分? フラッシュライトは全力だった。画面も点けた。ぜんぶ同時に回した。


 「一回で10パーセント……? そんなに使うの……?」


 声が震えた。狼のせいじゃない。数字のせいだ。


 残り68%。このペースで戦闘が続いたら六回で空になる。六回。魔王城まで何日かかるかもわからないのに、たったの六回。


 画面を消した。消してもう一度点けた。68%。変わっていない。変わるわけがない。充電器なんかない。この世界にコンセントはない。


 78が68になった。あの11日の計算は、もう意味がない。


 スマホをポケットに戻した。指先がかじかんでいる。寒さのせいか、恐怖のせいか。


 前を歩くレオンの背中を追う。隣にイレーネ。肩にティック。ティックの翅が、まだかすかに震えていた。


 灰色の毛皮が、暗闇の中に取り残されていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ