第12話「お母さん狼」
光が消えると、匂いが来た。
血の匂い。獣の匂い。それから、焦げたような——靄が蒸発するときの匂い。どれも嗅いだことがない匂いだった。嗅ぎたくなかった。
レオンが松明を点けた。イレーネが荷物から取り出したものだ。いつの間に準備してたんだろう。この人はいつも、いつの間にか何かを済ませている。
火が揺れる。
灰色の毛皮が、地面に横たわっていた。
三頭。逃げなかった個体。さっきまで黒い靄にまとわれていたのに、今はただの灰色だった。普通の灰色。犬に似ている。大きいけど、犬に似ている。目が閉じている。赤い光はもう消えていた。
一頭の口元から、白い泡が垂れている。もう一頭は前脚が不自然な角度に曲がっていた。逃げようとして、転んだのかもしれない。
レオンが膝をついた。剣を地面に突き立てて、一頭ずつ確認していく。毛皮をめくる。脇腹を見る。手つきが慣れている。何度もやったことがある動きだった。
三頭目の前で、手が止まった。
「……来い」
アカリに向かって言った。声は低いけど、命令じゃなかった。呼んでいる。
立ち上がる。膝がまだ震えている。数歩。三頭目の前に来た。
レオンが毛皮をめくっていた。腹側。灰色の毛が薄くなっている部分。乳房が並んでいた。六つ。張っている。先端が赤い。
「……授乳の跡だ」
「え……」
「最近まで乳を飲んでいた子がいる」
意味がわからなかった。一秒遅れて、わかった。
この狼は、お母さんだった。
どこかに子供がいる。巣穴に。この森のどこかに。お母さんの帰りを待っている子供が。
「こいつらは元々この森の普通の狼だった」
レオンが毛皮を戻した。丁寧に。さっきまで斬ろうとしていた相手に、丁寧に毛皮を戻した。
「瘴気に当てられると獣は靄を纏う。目が赤くなり、人を襲うようになる。だが元は——ただの獣だ」
ただの獣。ただの、子育て中の母親だった狼。それが瘴気とかいうよくわからないものに侵されて、赤い目になって、人を襲うようになって、ストロボの光で——。
膝から力が抜けた。地面に手をついた。土と落ち葉の感触。冷たい。
ティックが降りてきた。死んだ狼の鼻先に、ふわりと着地する。小さな手で灰色の毛を撫でた。
「……あの子たち、お母さんだったんだねー」
いつもの語尾。いつもの声。でも、いつもと違った。ティックの大きな瞳が、光の粉で濡れていた。妖精の涙が光の粉なのか、光の粉に涙が混ざっているのか、わからない。
きらきら光る雫が、灰色の毛皮の上に落ちた。
何も言えなかった。「ごめんね」も違う。「仕方なかった」も違う。ストロボの光で追い払っただけだ。直接手を下したわけじゃない。でもこの三頭は逃げ遅れて、靄が剥がれて、裸のまま倒れて、それで——。
それで、子供が帰りを待ってる。
イレーネが背後に立っていた。松明を掲げている。その顔を見上げた。微笑み。いつもの微笑み。松明の炎で影が揺れているのに、微笑みだけはぶれない。
「聖女様。お怪我はございませんか」
怪我はない。体にはどこも。
「……ないです」
「それはよろしゅうございました」
イレーネの空いた手が、何かを持っていた。羊皮紙。ペン。いつ取り出した。松明を持ちながら、死骸を照らしながら、もう片方の手で記録を取っている。
何を書いてるの。狼のこと? 私のこと? ストロボのこと?
聞けなかった。聞く気力がなかった。
レオンが立ち上がった。剣の血を布で拭いている。右腕の傷はイレーネが布で巻いていた。これもいつの間にだ。
「……行くぞ。ここにいても瘴気に当たるだけだ」
立つ。立たなきゃ。膝に力を入れる。バックパックが重い。ステッキを杖にして、なんとか体を起こした。
ポケットのスマホが気になった。
取り出す。画面を点ける。
68%。
——は?
78から68。10パーセント。一回の戦闘で10パーセント。
ストロボ何分使った。三分? 五分? フラッシュライトは全力だった。画面も点けた。ぜんぶ同時に回した。
「一回で10パーセント……? そんなに使うの……?」
声が震えた。狼のせいじゃない。数字のせいだ。
残り68%。このペースで戦闘が続いたら六回で空になる。六回。魔王城まで何日かかるかもわからないのに、たったの六回。
画面を消した。消してもう一度点けた。68%。変わっていない。変わるわけがない。充電器なんかない。この世界にコンセントはない。
78が68になった。あの11日の計算は、もう意味がない。
スマホをポケットに戻した。指先がかじかんでいる。寒さのせいか、恐怖のせいか。
前を歩くレオンの背中を追う。隣にイレーネ。肩にティック。ティックの翅が、まだかすかに震えていた。
灰色の毛皮が、暗闇の中に取り残されていく。




