第四章 ー風の感触、羽の記憶ー
一歩、また一歩。
草の上に、かすかな音が落ちる。
鳥籠を出た少女は、風に触れながら、ゆっくりと歩いていた。
頬に沿う長いもみあげが、風に揺れる。
幼い瞳の奥に、寂しさを滲ませた、半人半鳥の少女。
彼女——飛鳥は、檻の外に出た。
そして、初めての空気。初めての光。
それは決して“まぶしい”わけではなかった。けれど——
「……風、あったかい……」
翼が、そっと揺れた。
肘から先が羽根に変わった自分の両腕。
どこか重たくて、けれど心の奥に、何かがうずく。
飛鳥は、ゆっくりと翼を広げようとする。
だが——うまくいかない。
関節が、どこにあるのか。
羽ばたくためには、どこに力を入れればいいのか。
何も、思い出せない。
「……飛べない……」
つぶやきは、すぐ隣にいた少女に届く。
色の抜けたような白い肌に、長い白髪を高く結い上げた姿。巫女装束に、狐面を被る少女——九重は答えた。
「……せやろなぁ。けど、今はそれでええんどす」
九重は、いつもの調子で扇子を開いたまま、そっと座り込む。
脚を横に流して草の上に腰を落とし、ちらりと飛鳥を見やる。
「飛べんことが、罪なわけやない。忘れたんは、忘れたんでしゃあ無い。せやけど……」
扇子を畳み、その先で飛鳥の胸のあたりに軽く触れる。
「ここが、風を覚えとったら——いつか、また羽ばたけますえ?」
飛鳥は、ふと地面に目を落とした。
桃色の鱗に覆われた鳥の脚。その足先が、柔らかく草を踏みしめている。
「……あたし、なんでこんな姿なんだろ……」
「……それは、わからへん...でも...」
九重は、さほど間を置かず答えた。
「あんたは、あんたや。あんたは“飛鳥”ていう、誰も代わることできへん、たった一人の娘や」
飛鳥は、はっと顔を上げた。
九重の瞳が、狐面の奥からこちらを見つめていた。
「……“飛鳥”って、わたしの名前……だよね」
「せや。あんたが飛びたがる目ぇしとったから、そう呼ばせてもろた。
気に入らへんかったら、変えてもよろし。けどな……」
九重は、風を感じるように目を細める。
「——その名前はな、あんたを見た時に、風と一緒に吹いてきたんえ?」
と言って微笑みながら、飛鳥を見つめた。
飛鳥は、自分の名前を心の中でそっと繰り返した。
“飛鳥”。
小さくて、でも羽音のように軽やかで。
檻の中では見つけられなかった音だった。
「あの……ありがとうございます。九重...さん...」
「九重、でよろし」
「ありがとう。九重...」
飛鳥が微笑んだ。
その笑みを見て、九重はほんの一瞬だけ——
面の奥で、やわらかな微笑みを返した。
けれどそれもすぐに消え、またいつもの仮面を戻す。
「……ほな、行きなよし。風が止まる前に」
「九重は...付いて来てはくれないの?」
飛鳥はオズオズと聞いた。
「ウチができるのは、檻の鍵を開けるまで。その先を進むんは、あんた自身や」
飛鳥は、すこしだけ泣きそうな、不安そうな顔で俯く。
「だいじょうぶ。ウチも、さっきの子...アジュールも、ちゃんと見守ってて、いざっちゅう時には助けたるさかい」
飛鳥は、きゅっと口元を結び、顔を上げた。
「さあ、飛鳥ちゃん。行きなよし」
「...うん!」
飛鳥はまだ飛べない。
けれど、足はある。
そして——名前も、ある。
少女は草を踏みしめ、森の奥へと歩み出す。
光と風の交わる方向へ。まだ見ぬ空を探して。
その背を、九重はそっと見送った。
風の中にただ一人、座ったまま。
「……旦はん、今回ばっかりはなぁ。
あの子の自由を押し込めるんは、ええ事とは思われへんえ?」
その言葉は、誰に届くでもなく、風に溶けていった。
***
森は静かだった。
太陽は高く、葉を透かして地面に淡い光を落とす。
小さな風が、枝葉の隙間をすり抜け、鳥の声さえも揺らすことなく過ぎていく。
飛鳥は歩いていた。
肘から先が翼に変わった両腕をやや持ち上げるようにして、
長く細い鳥の脚で、慎重に草を踏みしめながら。
翼は、枝に触れればすぐに音を立ててしまう。
草に引っかかるたびに、足取りは鈍り、動きはぎこちなくなっていく。
「……ごめん……」
誰にでもなく、そう呟いた。
転びそうになって、地面に手をつこうとして——手がない。
翼しかない自分の姿に、また少しだけ心が沈む。
「なんで、あたしだけ…こんな…」
呟いても、返事はない。
風はただ、すり抜けていくだけだった。
ふと、小さな小川のせせらぎが聞こえた。
その音に導かれるように、飛鳥は歩を進める。
やがて、水面がきらきらと揺れる場所に出る。
そこには、小さな泉のような浅瀬があった。
飛鳥はそこに腰を下ろす。
脚を折り、翼を畳んで、そっと地面に触れるように座る。
「……冷たくて、気持ちいい……」
足の指で水をすくい、ぴちゃぴちゃと遊ぶ。
指先が草を撫でるように、水の上をたどる。
手はないけど、あたしには足がある。
翼は重いけど、風を感じることができる。
そう思ったとき——
「……あたし、ここにいてもいいのかな……」
また、誰に聞くでもなく、そう問いかけた。
答えはない。
でも、水面がふるえて、風がそっと髪を揺らした。
飛鳥は目を閉じて、風の音に耳をすます。
遠くで鳥の声がした。虫が飛ぶ音がした。
どれも、自分とは違う命の声。
でも——
「……あたしも、ここにいるんだよ」
そう小さく呟いたとき、胸の奥にあたたかい何かが灯る気がした。
森のどこかで、小枝が折れる音がした。
けれど飛鳥は、もう振り返らなかった。
今はまだ、“誰か”を探すよりも——
「……あたしの風を、探したい……」
そう、静かに思った。
泉のそばで、風を抱きしめるように、少女はひとり——座っていた。
それは、孤独ではあるけれど。
ほんの少しだけ、自由な時間だった。
——つづく