表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君は、風に還る。  作者: 矢崎 那央
第一部
4/50

第四章 ー風の感触、羽の記憶ー

挿絵(By みてみん)

一歩、また一歩。

草の上に、かすかな音が落ちる。


鳥籠を出た少女は、風に触れながら、ゆっくりと歩いていた。


頬に沿う長いもみあげが、風に揺れる。


幼い瞳の奥に、寂しさを滲ませた、半人半鳥の少女。


彼女——飛鳥(あすか)は、檻の外に出た。

そして、初めての空気。初めての光。


それは決して“まぶしい”わけではなかった。けれど——


「……風、あったかい……」


翼が、そっと揺れた。

(ひじ)から先が羽根に変わった自分の両腕。

どこか重たくて、けれど心の奥に、何かがうずく。


飛鳥は、ゆっくりと翼を広げようとする。

だが——うまくいかない。


関節が、どこにあるのか。

羽ばたくためには、どこに力を入れればいいのか。

何も、思い出せない。


「……飛べない……」


つぶやきは、すぐ隣にいた少女に届く。


色の抜けたような白い肌に、長い白髪を高く結い上げた姿。巫女装束に、狐面を被る少女——九重(ここのえ)は答えた。


「……せやろなぁ。けど、今はそれでええんどす」


九重は、いつもの調子で扇子を開いたまま、そっと座り込む。

脚を横に流して草の上に腰を落とし、ちらりと飛鳥を見やる。


「飛べんことが、罪なわけやない。忘れたんは、忘れたんでしゃあ無い。せやけど……」


扇子を畳み、その先で飛鳥の胸のあたりに軽く触れる。


「ここが、風を覚えとったら——いつか、また羽ばたけますえ?」


飛鳥は、ふと地面に目を落とした。

桃色の鱗に覆われた鳥の脚。その足先が、柔らかく草を踏みしめている。


「……あたし、なんでこんな姿なんだろ……」


「……それは、わからへん...でも...」


九重は、さほど間を置かず答えた。


「あんたは、あんたや。あんたは“飛鳥(あすか)”ていう、誰も代わることできへん、たった一人の娘や」


飛鳥は、はっと顔を上げた。

九重の瞳が、狐面の奥からこちらを見つめていた。


「……“飛鳥(あすか)”って、わたしの名前……だよね」


「せや。あんたが飛びたがる目ぇしとったから、そう呼ばせてもろた。

気に入らへんかったら、変えてもよろし。けどな……」


九重は、風を感じるように目を細める。


「——その名前はな、あんたを見た時に、風と一緒に吹いてきたんえ?」


と言って微笑みながら、飛鳥を見つめた。


飛鳥は、自分の名前を心の中でそっと繰り返した。

“飛鳥”。


小さくて、でも羽音のように軽やかで。

檻の中では見つけられなかった音だった。


「あの……ありがとうございます。九重...さん...」


九重(ここのえ)、でよろし」


「ありがとう。九重...」


飛鳥が微笑んだ。


その笑みを見て、九重はほんの一瞬だけ——

面の奥で、やわらかな微笑みを返した。

けれどそれもすぐに消え、またいつもの仮面を戻す。


「……ほな、行きなよし。風が止まる前に」


「九重は...付いて来てはくれないの?」


飛鳥はオズオズと聞いた。


「ウチができるのは、檻の鍵を開けるまで。その先を進むんは、あんた自身や」


飛鳥は、すこしだけ泣きそうな、不安そうな顔で俯く。


「だいじょうぶ。ウチも、さっきの子...アジュールも、ちゃんと見守ってて、いざっちゅう時には助けたるさかい」


飛鳥は、きゅっと口元を結び、顔を上げた。


「さあ、飛鳥ちゃん。行きなよし」


「...うん!」


飛鳥はまだ飛べない。

けれど、足はある。

そして——名前も、ある。


少女は草を踏みしめ、森の奥へと歩み出す。

光と風の交わる方向へ。まだ見ぬ空を探して。


その背を、九重はそっと見送った。

風の中にただ一人、座ったまま。


「……旦はん、今回ばっかりはなぁ。

あの子の自由を押し込めるんは、ええ事とは思われへんえ?」


その言葉は、誰に届くでもなく、風に溶けていった。



***



森は静かだった。


太陽は高く、葉を透かして地面に淡い光を落とす。

小さな風が、枝葉の隙間をすり抜け、鳥の声さえも揺らすことなく過ぎていく。


飛鳥(あすか)は歩いていた。


(ひじ)から先が(つばさ)に変わった両腕をやや持ち上げるようにして、

長く細い鳥の(あし)で、慎重に草を踏みしめながら。


翼は、枝に触れればすぐに音を立ててしまう。

草に引っかかるたびに、足取りは鈍り、動きはぎこちなくなっていく。


「……ごめん……」


誰にでもなく、そう呟いた。


転びそうになって、地面に手をつこうとして——手がない。

翼しかない自分の姿に、また少しだけ心が沈む。


「なんで、あたしだけ…こんな…」


呟いても、返事はない。

風はただ、すり抜けていくだけだった。


ふと、小さな小川のせせらぎが聞こえた。

その音に導かれるように、飛鳥は歩を進める。


やがて、水面がきらきらと揺れる場所に出る。

そこには、小さな泉のような浅瀬があった。



飛鳥はそこに腰を下ろす。

脚を折り、翼を畳んで、そっと地面に触れるように座る。


「……冷たくて、気持ちいい……」


足の指で水をすくい、ぴちゃぴちゃと遊ぶ。

指先が草を撫でるように、水の上をたどる。


手はないけど、あたしには足がある。

翼は重いけど、風を感じることができる。

そう思ったとき——


「……あたし、ここにいてもいいのかな……」


また、誰に聞くでもなく、そう問いかけた。



答えはない。

でも、水面がふるえて、風がそっと髪を揺らした。


飛鳥は目を閉じて、風の音に耳をすます。

遠くで鳥の声がした。虫が飛ぶ音がした。

どれも、自分とは違う命の声。


でも——



「……あたしも、ここにいるんだよ」


 

そう小さく呟いたとき、胸の奥にあたたかい何かが灯る気がした。


森のどこかで、小枝が折れる音がした。

けれど飛鳥は、もう振り返らなかった。

今はまだ、“誰か”を探すよりも——


「……あたしの風を、探したい……」


そう、静かに思った。


泉のそばで、風を抱きしめるように、少女はひとり——座っていた。



それは、孤独ではあるけれど。

ほんの少しだけ、自由な時間だった。



——つづく

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ