第三章 ーLC-00 アジュールー
封印の札が風に舞った、その刹那。
空間がきらめいた。
——気配が変わる。音もなく、匂いもなく、ただ世界そのものが静まり返る。
そんな中、天井の吹き抜けに、影が揺れた。
「……はぁ...やっぱり...なぁ」
九重がそっと扇子を伏せ、顔を上げる。
その表情はあくまで涼しく、
しかし、口元にだけ少し、
まるで、イタズラが母親に見つかった少年の様な、苦笑いが浮かんだ。
崩れた天井から、ふわり、と何かが降りてくる。
長い蒼の髪を静かに揺らしながら、
音もなく、柔らかく地面に降り立ったのは、
ひとりの女性だった。
肌は、陶器のように冷たく白く、そこにほんのりと青みが差している。
頬や肌のかしこには、紋様の様な朱の刺青が彫られているのがみえた。
鼻筋はすっと高く、口元と顎は柔らかな曲線で形作られ、静かな包容を感じさせる輪郭。
額には黒金の髪飾りが左右に二つ飾られ、前髪をかき分けるようにそっと留められている。
彼女の仕草は、嫋やかで、
しかし、ルビーのように透きとおる赤の瞳の奥に、まるで子を慈しむ母の様な、優しさを感じさせる。
しかし、鼻先から頬にかけて淡く散ったそばかすが、どこか彫刻の様な触れ難さを和らげ、人間味と親しみを感じさせていた。
——そんな存在。
「やっぱり、この子の事、気にしてはったんやねぇ...アジュール……」
九重はその名を呟く。
それだけで、場の空気がさらに澄んでいく。
アジュールと呼ばれた女性は、何も言わず、
目元を、すっと優しく曲げ、ただ九重にむかって微笑んだ。
優しい目元を囲む縁の影が、その奥行きを際立てていた。
そして、飛鳥へ向き直と、真っ直ぐに歩み寄った。
その足取りは、水面を滑るように静かで、グリーンのビスチェに、斜めに巻いたロングスカートが波のように揺れる。
腰元に垂れた、細いチェーンと宝玉の飾りが、歩くたびに揺れて、音もなくきらめいた。
飛鳥は、まだ鳥籠の中。
目を見開き、その姿を見上げていた。
「……やっぱり……こわい……。外に出るの……」
その声に、アジュールは静かに首を横に振る。
それは否定でも拒絶でもない仕草。
そして、膝をつき、ひとつ手を伸ばした。
スカートの深いスリットから、しなやかな脚と、その先のアンクレットがわずかに覗く。
その動作は、触れるわけでも、命じるわけでもない。
空気を撫でるような、そっと風を導くような動き。
飛鳥の肩に、風がふれた。
それだけで、彼女はわかった。
「……あなた、優しいんだね……」
言葉は返ってこなかった。
けれど、アジュールの長い髪がそっと揺れて、頬にかかった光が、ゆるやかに笑みを照らした。
それは、ささやかな肯定のようだった。
「この子はねぇ、喋れへんのやけど……この子の目ぇみたら、ちゃんと伝わるやろ?」
九重が後ろから静かに言葉を継ぐ。
「飛鳥ちゃん。この子はまぁ...“見守っとる”だけの様な存在やけど……
いざという時は、ちゃんと、向かうべき方へ背中押してくれはる。そんな子や」
アジュールは、ゆっくりと立ち上がる。
彼女のドレスが風にそよぎ、腰飾りが揺れる。
言葉はなかった。
でも、その瞳は飛鳥に伝えていた。
(——もう、大丈夫。あなたは行ける)
そして、アジュールはやさしく、そっと鳥籠の扉を大きく開いた。
それに促される様に、檻の中の少女は、自分の足で——外の世界へと一歩を踏み出す。
一歩を踏み出す足が震えた。でも、肩を撫でた風が、背中をそっと押してくれる気がした。
「…………うん」
飛鳥がそう言ったとき。
アジュールが静かに首を傾けて——
ふっと、安堵したように笑みを浮かべた。
そして、その喉が微かな音を漏らす。
「……クルルル……」
甘えた子犬の鳴き声の様な声だった。
それは、これまでの威厳とは正反対の、どこかくすぐったいような、嬉しさに溶けた小さな鳴き声。
飛鳥は、これまでの彼女の雰囲気との落差にきょとんとした。
そして、なぜか自然と微笑みが浮かび、彼女に微笑み返す。
——それは、飛鳥が目覚めてから、初めて見せた笑顔。
「この子はね。今、
いってらっしゃい——て言わはったんよ」
九重が飛鳥にむけて呟く。
優しい蒼い風に背中を押されて、檻の中の少女は、自分の足で——外の世界へと一歩を踏み出した。
——つづく