第十章 -輪郭のない想い-
-描かれる自分に、気づいた日―
静かな午後。
陽の傾きが湖面を橙に染め始めていた。
飛鳥は、湖の淵に腰を下ろしたまま、
羽を少しだけ広げ、ゆったりと風を感じていた。
斜めから差し込む光が、水と羽のあいだでゆらゆらと揺れる。
その音も匂いも、なにもかもが優しくて、
飛鳥は思わず目を閉じた。
(……なんか、こんな時間、はじめてかも)
人に見られないようにと、いつも隠れていた。
誰かと一緒にいても、心はどこか逃げ場所を探していた。
でも今は、隣に誰かがいるのに、怖くない。
それが、少し不思議だった。
カリ、カリ……。
規則的な音がする。
ティロがまた、スケッチをしている。
飛鳥は、おそるおそる横目でその手元を見た。
紙の上には、
自分の輪郭が、静かに描かれていた。
翼を伸ばして座る姿。
風に揺れる髪の線。
光に透けた羽の細かな描写。
(……あたし、描かれてるんだ……)
何かが、胸の奥できゅっと締めつけられた。
同時に、ほんの少しだけあたたかくなる。
「……ねぇ、それ……」
思わず声をかけていた。
ティロは鉛筆を止めて、顔を上げる。
「……あ、ごめん。勝手に描いてた……嫌だった?」
「ううん……ちが……」
飛鳥は、どう答えればいいのか分からず、視線を落とした。
「……変じゃない?」
「え?」
「……あたしの姿。羽とか、脚とか……気味悪くない?」
ティロは少しの間、何も言わなかった。
けれどやがて、小さく笑って、スケッチブックを閉じた。
「……絵を描く時ってさ、
“これを描きたい”って思った瞬間、もう全部“きれい”なんだよ」
「……え?」
「不思議で、見たことなくて、すごく綺麗で……
だから、描いてる。
君のこと、“おかしい”とか“気味悪い”とか、思ったことない」
ティロの声は、ただ静かで、まっすぐだった。
飛鳥はうまく返せなくて、
ただ、翼の先を自分の脚にそっと重ねる。
「……そっか……」
言葉はそれだけだったけれど、
胸のなかには、静かな風が吹いていた。
いつかは飛べるのか分からない翼。
でも今、その羽を「見たい」と言ってくれる人が、隣にいる。
それだけで、ほんの少しだけ、
自分の姿を見つめてもいい気がした。
——つづく




