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第2章 _『さよなら』とーー

第2章

『さよなら』とーー

2-2-1

「サキさん。知っていることがあれば話してほしい」

楽屋に設置された簡素な机を挟み、雲井さんに問い詰められる。年長者であり穏健派の彼も直面した緊急事態に余裕がなくなっていた。

緊張感が場を満たす。ここからは考えて発言しなければならない。

下手な憶測や不正確な情報を与えては彼を混乱させるだけだ。

挿絵(By みてみん)

机の上には何の変哲もない一枚の便箋、手がかりとなるのはこれだけだった。

・・・どこ行っちゃったのよ。優里。

胸の内でいなくなってしまった恩人の名を呼ぶ。

当然、応える声はなく、私の呼号は記憶と思考の渦にただ溶けていった。

「優里と最後に会ったのは君だ。何かおかしなところはなかった?」

雲井さんは少しでも情報を得ようと問いを投げる。

「残念ながら・・・何も」

私はそう返すことしかできなかった。数日間とはいえ同じ屋根の下で時間を過ごしたというのに、情けない。

無力感から握った拳に力が入る。

「無理はないが・・・思い出してほしい。僕たちの、劇団スフィアのピンチなんだ」

雲井さんの顔には焦燥と絶望に満ちているようだった。

公演の前日に主演女優が謎の失踪、劇団の団長としてはピンチと表現してもまだ足りないくらいだろう。

力になりたい。

その一心で私ーー笹木沙妃は今日ここに至るまでの経緯を回想する。


2-2-2

「・・・宜しくお願いします」

一頻り物品の特徴を挙げ、用紙に連絡先を記載する。

「はい。受け付けました。そやけど・・・見つかるんはいつになるか。帰るアテはあるのかい?」

初老の警官は心配そうな目を向ける。交番を訪ねた時から親身に話を聞いてくれた。きっと良い人なのだろう。

「大丈夫です。スマフォはあるので親に迎えに来てもらうよう頼んでみます」

できる限り毅然とした態度で応じる。これ以上、心配をかけたくはなかった。

警官は何かを言いたそうにしていたが、無理矢理納得するように頷いた。

「分かった。困ったらまた来んさい。どうにかして力になるから」

真摯な態度で助力を申し出てくれる。本当に良い人だ。

だからこそ、そんな良い人に迷惑をかけている自分に嫌気が差した。

「有難うございます」

一礼し交番を後にする。キャリーケースのホイールの回りが心なしか重たく感じた。

「はぁ・・・」

大きな溜息が自然と口から漏れ出す。

4年振りの訪問となる国内屈指の観光地ーー京都、眼前には炎天の元を行き交う観光客の姿があった。夏休み期間中ということもありかなり混雑していたが、それを押してでも訪れる価値がこの地にはあるのだろう。

・・・こんな時に財布を落とすなんて。

私は地元への帰省の前に京都に立ち寄ることにした。ちょっとした小旅行と旧い友人と会うためだ。

友人ーー西ノ宮京司と会うのも4年振りとなる。中学を卒業して音信不通となっていたのだが、ひょんなきっかけで連絡先を知ることとなった。京都の大学に通っているらしいので夏季休暇を利用して会いにきたという訳だ。

・・・絶対バカにされる。

高笑いをする京司の姿が脳内のモニターに映し出される。

「おーサキか!久しいな!こんなところでどうした!」

そう、こんな感じでお気楽調子の大声で・・・ってあれ?

「き、京司・・・!?嘘でしょ?」

愕然としたーーという表現は今この時のためにあるのだろう。

無駄に良く通るバリトンボイスと大口を開けた豪快な笑い方、どこか芝居がかった物言いーー先ほどまで脳裏の虚像に過ぎなかった存在が、今は確固たる実体を持っていた。

アクシデントに頭を抱える私の前に、現れたのは紛れもなく西ノ宮京司だった。

確かに彼とは会うことになっていたが、具体的な待ち合わせ場所まで擦り合わせはしていなかったはずだ。

「いやはや奇遇だな。まぁ合流の手間が省かれたか。ふむ・・・どうした?幽霊でも見たような顔をして」

どうやら今日は厄日のようだ。



京司とは小学生の時からの付き合いだ。転校生だった私に最初に声をかけてくれたのが彼だった。

改めて考えると京司はかなり破天荒なやつ、もっと言えば変なやつだった。独自で考案したカードゲームをクラスで流行らせたり、校内放送を私物化しラジオ番組ーーこれがそこそこ聴ける内容だったのが腹立たしいーーを始めたりと奇行は枚挙に暇がない。しかし、自然と彼の周りには人が集まっていた。人を振り回す無茶苦茶なやつだが、そこに悪意や打算といった歪みがなかったからだ。また、無茶をやり通すだけの実力と行動力を備えていたことも要因だろう。

口に出したことはないが、私は京司に感謝している。彼の飾らない振る舞いや言動から学ぶことは多くあった。

ただーー

「京都に着いた途端にこれとはーーとんだ不幸だな!ハッハッハ!」

・・・飾らなすぎるのも問題よね。

「あーもう!うっさい!」

慰めや同情の念が一切感じられない言動と表情に語気が荒くなってしまう。

抗議の意味を込めて私は水の入った紙コップを呷る。

京司はソファの背もたれに身体を預けこれは傑作だ、と眼鏡のブリッジに手をやる。

目鼻立ちのはっきりとした顔と自信に満ちた顔つき、メタルフレームの眼鏡も併せてどこか理知的でミステリアスな風貌だ。黙っていれば異性にモテたことだろう。黙っていれば。身に纏ったハイビスカス模様のアロハシャツは些か奇抜ではあったが、陽気でお気楽な性格を表しているようで不思議とよく似合っていた。

京都駅で再会を果たした私たちは近くの商業ビルに移動していた。大手ディスカウントストアや衣料品店、イベントホールまで備えたショッピングモールは案の定、人でごった返している。地下のフードコートでどうにか席を確保し、断腸の思いで友人に今の身の上を語った。

そしたら、爆笑された。よりによってこいつの前で醜態を晒すことになろうとはーー過去の自分を恨むばかりである。

「それにしても、アンタが京都にいるとは意外だったわ」

話題を私の失態からお互いの近況にシフトさせる。

京司は中学を卒業後は都内の高校に進んだ。大学もそのまま東京かと勝手に思っていたのだが。

「懇意にしている教授がいてな。それと家の事情だな。俺が関西圏にいた方が色々と都合が良いんだ」

なるほど、思っていたよりシリアスな理由があったようだ。

こう見えて京司はさる大企業の社長の次男である。社長ーー京司の父ーーが若くして起業し、一代で急激な成長を遂げたらしい。後継は長男になると何かの折に聞いていたが、事はそう単純ではないようだ。

「それと・・・東京の暮らしに飽きてな。関西に住んだ方が面白そうだったんだ!」

白い歯を見せ豪快に笑う。なんだかこっちが本音で会社のことはその方便だという気がしてきた。

相変わらず底が見えないやつだ。

「そっちはどうだったんだ?アメリカ」

紙コップを傾け口を湿らせると京司はこちらに水を向ける。

私は中学を卒業した後、アメリカに渡った。父の仕事の都合ではあったが私の目標ーー夢のために必要だと考えてのことでもあった。

「苦労もあったけど良い経験になったわ。英語に苦手意識がなくなったのは収穫ね」

「治安はどうだった?」

「シアトルは比較的治安が良い方ね。景色も綺麗だし住みやすかったわ」

スマフォをタップし現地の写真を見せてやる。治安や景観の良さもさることながら、航空博物館や美術館など見所の多い街だ。

京司は興味深そうに画面を覗き込み頷いていた。

「いずれ訪れてみたいものだ。その時は案内してくれ」

「そうね・・・ナツキも誘ってあげたら喜ぶかもね」

武宮那月ーーこちらも小学校時代からの友人だ。サッカー選手を目指し強豪高校に進学したが、膝を怪我し夢が絶たれてしまったと聞いている。元気にしているといいのだけど。

「カグヤも一緒にな」

「げ・・・カグヤ・・・」

もう一人の友人ーーいや、腐れ縁の顔が思い浮かぶ。

昔から何かにつけて因縁をつけてきた相手だ。読み書きできる漢字の数、読んだ本の冊数、体力テストのスコアーー今思うとくだらないことで張り合っていた。本当に、実に、くだらない。

苦い思い出を噛み締める私に京司はニヤニヤと笑みをこぼす。甚だ鬱陶しい。

「今はこっちの大学だったか」

「ええ、東京の大学に通いながら診療所でアルバイトさせてもらっているわーー見習い未満だけどね」

京司は結構な事だ、と満足げに笑った。

「ったく・・・変わらないわね」

「お互いにな」

溜息と共に悪態をぶつけるもあっさり受け流される。まさに柳に風といった様子だ。

ピーピーピー

「お、できたか」

手元で番号の書かれたブザーから呼び出し音が鳴る。注文した料理が出来上がったのだろう。

京司は軽快に立ち上がり弾むような足取りで私の横を通り過ぎていった。

人混みの中でも独特の存在感を放つ京司を見送り、私は真っ暗なスマフォ画面に視線を落とした。

お互いになって・・・私ってそんなに変わってないかしら?

ツーサイドアップに纏めていた髪は中学を卒業してから金に染めた。アイボリーのサマージャケットにカーキ色のプリーツスカート、ハイカットスニーカーを合わせたコーデは級友からの評価も悪くない。

吊り上がった目尻と鋭い八重歯ーーそれと低めの身長は今も昔も変わらないが、服装や髪型では多少垢抜けしたと思ったのだが。

・・・まぁいいか。

月日が経とうとも変わらない関係性が少しだけ心地良かった。



・・・お腹すいた。

魚介を使ったスープの香りが食欲を掻き立てたが、私の手元には水の入った紙コップがあるのみだ。

「やらんぞ?」

軽口を効き、京司は湯気の立つ器に顔を近づけ麺を啜る。

「いらないっての」

視線が無意識に吸い寄せられていたようだ。

・・・こんなはずじゃなかったのに。

4年振りに訪れる京都ーーせっかくだから、地場のものを堪能したかった。新幹線の中で行きたい店舗をリストアップしていたのだが全てが徒労に終わった。

「それで、これからどうするつもりだ?」

ラーメンの入っていた器から顔を上げ、京司は問いを投げた。

紛失した財布の中には現金とキャッシュカード、そして帰りの新幹線のチケットが入っていたのだ。よって、財布が見つからない限り独力で帰省することはかなわない。

「・・・両親に頼んで迎えにきてもらうしかないわね」

友人にお金を無心する訳にもいかない。交番で示した初志を貫徹する他ないだろう。

「ふむ」

ラーメンのスープを飲み干した京司は顎に手を当て何事かを考えていた。

「提案なんだが」

「なんか嫌な予感がするわ」

「まぁそう構えるな」

尊大にそう言い放つとメタルフレームの眼鏡が怪しく光った。

「実は今こういうのをやっていてな」

胸ポケットからスマフォを取り出し数回タップ、画面には1枚の画像が表示されていた。

「これは・・・演劇?」

画面の中には和装をした2人の男性が背中合わせの構図で佇んでいた。端には筆書体で『こころ』『公開』という文字と日付が記載されている。どうやら宣伝用のポスターのようだ。

「ふーん。アンタお芝居に興味あったのね」

「ネットで劇団メンバーを募集していてな。面白そうだから参画したんだ!」

なるほど、好奇心旺盛な京司らしい。

「それで?提案って?」

「あぁ、ここに書いてある通り今週の土曜日から3日間に分けて公演を行うことになっているんだ。だが、人手不足から現場が切迫していてな」

話が見えてきた。

「数日間こちらに残って作業を手伝ってもらえないか?見返りとして滞在中の諸々の費用と帰省のための移動費を支払おう」

外注費もバカにならないのでな、と付け足し京司は私の答えを待った。口調こそ気安いものだったが表情には誠実さが見てとれる。

私は暫しの黙考の後に答えを返した。

「有難い申し出だしお芝居にも興味はあるけど・・・遠慮しておくわ」

私の顔を立てて『取引』の形を提案してくれたのだろう。しかし、この条件は私にとって都合が良すぎた。

京司は再び顎に手を当てる。

「・・・サキよ、今日は何曜日だ?」

提案の辞退を受け入れるかと思いきや京司は神妙な面持ちで問いを投げた。

「何曜日って・・・月曜日・・・あ!?」

今の時刻は14時ちょっと前、当然両親は働いている。『迎えにきてもらう』などと簡単に言いはしたが、仕事を直ぐに切り上げるというのは容易ではないだろう。そもそも、地元から京都駅まで片道5〜6時間はかかる。今日中に帰れるか怪しいところだ。

「一般的な話だが、今の時期は連休前の追い込みで忙しいだろう。ご両親の手を煩わせるのも・・・」

「アンタに諭されると・・・くるものあるわね」

なんだって私はこんなポカを・・・紙コップを握りしめ自分の間抜けさを呪う。


2-2-3

「ハッハッハ!数日間だが、よろしく頼むぞ!」

歓迎の言葉と共に、京司は無遠慮に私の背中をバシバシ叩く。屈辱であるが今回ばかりは耐えるしかなかった。

車内の吊り広告を眺め気分を紛らす。『行こう。東北』という文字列が冷房の風と運行の振動により踊っている。

結論として私は京司の提案を飲むことにした。

『ごめんね、京司君。どうかサキをよろしく頼むよ。お金は追って振り込ませてもらうから』

電話越しでお父さんは謝辞を述べた。京司の見立て通り、仕事との折り合いがどうしてもつかなかったのだ。『近くに頼れる人は・・・』と思案するお父さんに友人の名を告げるとトントン拍子で話が進んだ。京司とは小学生からの付き合いということもあり、お互いの親とは面識があった。数回話した程度だったと思うが、お父さんは京司に好感を持っていた。その京司からの申し出なら悪いようにはならないと踏んだのだろう。

自分の不始末を親と友人に任せっきりとは・・・何とも情けない。

・・・切り替えよう。

「それで、作業って具体的に何をするの?」

吊り革でバランスを取りながら傍の友人に問いを投げる。

私たちは電車を利用し四条駅近辺にある貸スタジオへ向かっていた。ちょうど稽古が予定されており、そこで団員との顔合わせ、その後実際の作業に取り掛かるという段取りだ。

「衣装の仕上げや道具の製作がメインだな。今週の金曜日に最終リハがあるからそれまでには間に合わせたい」

それなら力になれそうだ。細かい作業は好きだし、手先も器用な方だと思う。もっとも、作業量と難易度は未知数だが。

「それと動画編集だな」

「動画?」

「ああ、公演の3日前からキャストによる宣伝動画を1本ずつ公開することになっている。それに加えて、準備期間の舞台裏をドキュメンタリー風に記録した動画の合計4本だ」

宣伝とお客さんへのサービスといったところか。

「ウチは小規模ながら実力のある役者もいる。そういう人がここを巣立ってもやっていけるように種まきを、と思ってな」

なるほど、もう少し先を考えてのことだったようだ。

しかし動画編集かーーやったことがない。

「既に素材はあるからインタビュー動画はカットと字幕をつけるだけだな。舞台裏のやつはセンスが出ると思うが」

「プレッシャーかけてくれるわね」

挑発的な物言いに自然と対抗心が芽生える。

演劇、初対面のメンバー、衣装作りに動画編集ーー『初めて』ばかりだったが、こういう状況は嫌いじゃない。

京司は軽く笑うと車窓に視線を移した。

「そういえば劇団、なんて名前なの?」

「劇団スフィア」

友人がそう答えると同時に車両のドアが開いた。



京司曰く、京都市は学生演劇のサークルや劇団が盛んな街なのだそうだ。人口の1割が大学生であるーーこれは東京や大阪の比率よりも高いーーこと、古典文学や歴史の代表的な舞台であることに起因する、と推察していた。

そんな中で劇団スフィアはメンバー6人程の小さな集団と言えた。

「貰いっ子じゃ、ねぇあなた」

長髪の女性がポツリと心情を吐露する。

短い台詞だが感情が伝わってくる。悲壮感ーーしかし心のどこかで現状を受け入れているような諦観の念が滲んでいた。

「子供はいつまでも経ったってできっこないよ」

男はそれに応えるーー否、心ここにあらずといった様子だ。向ける眼差しに宿るは悲哀か絶望かーー正の感情でないことは明白だった。

「ーー天罰だからさ」

二者は互いをにくまざるも何処か決定的に、そして致命的に擦れ違っていた。

10秒にも満たない極々短いやり取りだけでそれが解った。

「・・・一度休憩にするか、星川」

一区切りついたのか、男ーー主演の一人で風浦という人物だーーは短く告げ相対する女性に背を向ける。乱れ髪が揺れ、隙間からは鋭い眼光が覗いた。高い身長と重く深みのある声は貸スタジオのステージ上でもよく映えていた。

「・・・はい」

星川と呼ばれた女性は険しい表情を浮かべていたが渋々それを受け入れる。自身の芝居に満足していないのだろうか。

私は小さく息を吐く。無意識のうちに見入ってしまっていたようだ。子供の頃、家族でお芝居を見に行く機会は数回あったがここまでの没入感を覚えたことはなかった。

演者との物理的な距離が近いからだろうかーーいや、そうじゃない。

京司から手渡された台本を捲る。

劇団スフィアの演目は夏目漱石の代表作である『こころ』を原作とした会話劇だ。

『こころ』は私も読んだことがある。私と先生、Kの3人の登場人物を中心に人間の心の有り様を描く。心とは何なのか、人間とはどうあるべきなのか、そもそも明確な解は存在するのか。初めて読んだ時には子供ながらあれこれと考えを巡らせて言いようのない不安に駆られた。

『私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。』(1)

私にとって特に印象的だった一文だ。先生は私へ手紙を遺してこの世を去る。しかし、肉体的な死を迎えてなお、精神的には死していない。むしろ絶えず変化していく人間の精神性というのは死によって一つの完成に至り、他者を媒介に新たな生を得るのかもしれない。

そう、観劇に没頭できた理由の一端はおそらくここにある。

日本人の誰もが知っている名著、そして扱うテーマも普遍的なものだ。芝居の観賞を通じて私たちは再び根源的な問いと向き合うことになる。深く暗い海へと潜っていくように。

「良い感じじゃないか!」

傍で見学していた京司が大声で感想を述べる。

私も同意見だった。

物語とテーマが良いものでもそれだけでは完成度の高い演劇にならない。それらを咀嚼し体現する演者の存在が必要不可欠だ。素人意見ながら、ステージ上の両名は充分にその責務を果たせているように思えた。

「・・・気休め言わないでーー風浦さん」

長髪の女性ーー星川は不服そうに稽古の再開を提案する。端正な顔には疲労と焦燥感が浮かんでいた。

それを受けた風浦は首を振り、口を開く。

「旭日ーーシーン10から」

「はーい。風浦さん」

スタジオの隅から弾むような声ーー振り返ると一人の青年の姿があった。昼間見たポスターに写っていた人物だ。無地のカッターシャツとスキニーパンツが良く似合っていた。

彼は折りたたみ式の携帯電話をパチンと閉じ、ステージへ悠然と歩を進める。

風浦と同程度の長身とスラリとのびた手足、短く切り揃えられた黒髪ーー先の両名に引け劣らない存在感があった。

定位置に着くと青年は微笑と共に下壇へと目配せする。

一瞬だけ、視線が交錯するーー

『ちゃんと見ててね』

黒光りする瑪瑙めのうのような瞳に吸い込まれる。そんな錯覚を覚えると同時にーー彼の舞台の幕が上がった。

「自分は薄志弱行で到底行先の望みがないーー」

Kの没後のシーンだろう。

Kは下宿の娘に密かな恋心を抱いてた。しかし、先生とのやり取りから自己矛盾に気づき自ら命を絶ってしまう。

静かに、それでいて丁寧な筆致で青年はKの心のうちを描き出す。

「貴方には大変世話になった。世話ついでに”後”の片付けも頼みたい」

そうしてKは別れを告げる。

娘と先生と、世間とそれからーー

青年は微笑む。

もはやこの世に未練はない。否、未練を残す資格すらも自分にはない。

「本来であればーー」

“そう”することがーー

「もっと早くにーー」

贖罪なのだとーー

「待って!」

「うお!びっくりした!」

鼓膜に響いた友人の声が私を現実へと引き戻した。

「え・・・あ!」

全身の血が沸騰する。

その場の視線が私に集中していた。


2-2-4

「とんだ役者だったな!ハッハッハ!」

耳障りな声が店内をこだまする。デリカシーの欠片もなかったが、ここまでくるとイジってくれた方がまだ立場があった。

「・・・稽古のお邪魔をしてすみませんでした・・・」

大衆酒場の活気の中、消え入りそうな声で何度目かの謝罪の弁を口にする。

稽古が一段落し私たちは近場にある居酒屋へ移動した。小上がりの和室には焼き物と仄かにアルコールの匂いが充満している。壁には短冊状の和紙が多種多様な品目を掲げていた。

元々、今週のどこかで決起会を開催する予定だったらしい。そこに臨時スタッフーー私のことだーーの加入が決定し、その歓迎会も兼ねて本日開催の運びとなったのだ。

「いやいや、真剣に観てくれたってことでしょ?嬉しかったな」

件のシーンを演じた旭日さんは私をフォローしてくれる。男性にしては高く澄んだ声音が今は胸に沁みた。

「まぁ優里の演技に感心する気持ちは分かるよ・・・それにしても遅いな。栞さん」

斜向かいに座る青年ーー雲井さんが落ち込む私に共感を示しつつ話題を変えてくれる。劇団スフィアの最年長者であり、団長を務めているのだそうだ。

雲井さんは稽古の終了間際にスタジオに姿を現した。ワイドカラーのYシャツに紺色のネクタイという装いから退勤後に駆けつけたのだと推察される。今年で26歳になると言っていたが若々しい顔立ちと人の好さそうな雰囲気も相まって頼りになる上級生という印象だ。

「もうそろそろ着くはずだが・・・衣装作成が難航しているのだろうな」

「無理してないといいけど・・・しーちゃん」

旭日さんが所在なさげに天井を見上げる。

居酒屋に入って数分経過したものの私たちは杯を上げてはいなかった。劇団のメンバーが全員揃っていないからだ。

もう一人のメンバーは雨上栞という人物で衣装と各種道具の製作を担当しているらしい。元々、今日の稽古には顔を出す予定だったが、最後まで来る事はなかった。京司の言う通り作業が押しているのだろうか。

「それにしても財布を失くすなんて大変だったね」

雲井さんに水を向けられる。人の良さそうな丸顔に心配げな表情が浮かんでいた。

「泊まるところは決まってるの?」

反射的に隣に座る京司に視線を向ける。今のところ生殺与奪権は彼に握られている訳だが、せめて雨風が凌げるーー欲を言えばお風呂に入れるーー場所を斡旋してほしい。

「そうだな・・・優里、もし良ければ泊めてやってくれないか?戸建だったよな?」

「うん。いいよ」

京司の申し出を旭日さんは即時快諾する。

「えっ・・・?」

私は傍の幼馴染の顔を二度見、いや三度見する。

流石に歳の近い異性が同じ屋根の下というのは・・・しかし好意を無下にする訳にも・・・頼む京司、察して!

「一応言っておくが優里は女性だぞ」

「へ?」

「あ、うん。一応女だから安心して?」

私の反応に旭日さんは慣れたものとばかりにケロリとしている。

「えええぇぇぇ!?」

京司は雲井さんと顔を見合わせてやれやれと呆れた表情を見せる。

財布の紛失、旧友との再会、芝居の見学、赤っ恥・・・男性だと思っていた人が実は女性で・・・私の不徳もあるのだがいよいよ感情の整理が追いつかない。

「あの・・・遅れました・・・すみません、すみません」

「あー栞さん。座って座って飲み物は・・・」

「お茶で・・・」

下座の方からか細い女性の声、程なくして飲み物と氷の入ったグラスが運ばれてくる。

「それじゃあ、手短に。公演まであと1週間を切った。ラストの追い込みを頑張って欲しいのと臨時だけどサキさんに加入してもらった。それとーー」

「長いぞー」

「あーもういいか!乾杯!」

石化している私を他所に乾杯の音頭が取られた。



・・・お酒って何が良いのかしら。

子供の頃からの疑問は未だ解消されていない。

あと2年もすれば飲酒が認められる年齢になるのだが、特段飲んだみたいとは思わなかった。

「あの・・・大丈夫、ですか?」

「もう・・・いっはい・・・」

目の前で酔い潰れる美少年ーーもとい美少女に声をかけるも碌な言葉が返ってこなかった。

乾杯から20分程度しか経っていないのだが。

「弱いくせに飛ばすから・・・ほら水」

雲井さんが慣れた様子でお冷の入ったグラスを勧める。完全に保護者である。

旭日さんはへへへと幸福そうにニヤけていた。

「雲井さんと旭日さんは知り合って長いんですか?」

「え、ああ・・・僕は優里と同じ高校の出身でね」

数拍の間を置いて雲井さんは私の質問に答えてくれる。

「社会人になって2年目くらいの頃だったかな。母校の文化祭を冷やかしに行った時に演劇部の出し物を見たんだ。その劇の主演が優里だった」

隣の若き主演女優に微笑を向ける。そこには信頼と畏敬の念が宿っていた。

他のメンバーの手前、全てを詳らかにすることは避けたのだろうが表情が何より雄弁だった。なるほど、劇団のルーツはここにあったのか。

「まぁ酒癖は直してほしいけど・・・」

雲井さんは呆れた様子で頭を掻いた。

「・・・劇団を立ち上げて3年になるけど年々良い芝居ができるようになってきてる、と思うんだ。いや、どこまで行っても身贔屓なんだけど」

「ハッハッハ!自信を持って良いぞ!」

「アンタはもう少し謙虚でもいいと思うわ・・・」

雲井さんと京司、まるで対照的な態度に思わずツッコんでしまう。まぁ、ある意味バランスが取れているのかもしれない。

実際、劇団スフィアにおける京司の貢献度は高いように思う。演者としてはもちろん、脚本の補助から演出、スタジオの予約や宣伝などの雑務全般を担っているとのことだった。他のメンバーが芝居の質の向上に集中できているのは彼の尽力あってこそだろう。

「今後もよろしくな、京司」

雲井さんはグラスを掲げ、それに対し京司は任せろと笑いと自身のグラスをかち合わせる。

「サキさんもよろしく。癖の強い連中だけど・・・京司の友達だしあんまり心配してないよ」

「は、はい・・・ちょっと嫌な信頼のされ方ですけど」

冗談めかした笑みを交わすと共にグラスが鳴る。

・・・こういう飲み方なら悪くないのかも。

「うう・・・ゔぉえ・・・復活!」

目の前で突っ伏していた旭日さんがムクリと顔を上げる。

「ふっかつ!ふっかつ!サキちゃん乾杯〜いえ〜い」

端正な顔に人懐っこい笑みを湛えた彼女と杯を合わせる。こちらに好意を向けてくれているのだろうが、どう考えても平時のテンションではなかった。

期せずして模範生と反面教師を同時に見ることとなった。

数日間とはいえこの人と生活を共にするのか。早くも不安になってきた。

「う、よろしく・・・」

「え〜ノリ悪いぞっ!」

「あーサキさん、せっかくの機会だし他のメンバーとも顔合わせしてきてよ」

不満そうな旭日さんを制し雲井さんが助け舟を出してくれた。

アイコンタクトで感謝を示し席を立ち下座の方へ移動する。

実際、明日以降の作業のことはまだ何も決まっていない。雨上さんとはコミュニケーションを取っておいた方が良いだろう。

「ええと・・・ここいいですか」

星川さんと風浦さん、雨上さんーー空いた角の席を指し、了解を得る。

「どうぞ」

星川さんは短く言って席を詰めてくれる。手入れの行き届いた長髪がサラリと揺れ、微かにシトラスの匂いが香る。繊細かつ美麗な面容からはスタジオでの険しさは消失していた。

一方、私の正面の席に座る女性は烏龍茶の入ったグラスを両手で持ち俯いている。

「ええと・・・雨上さんですよね。臨時で製作のお手伝いをすることになった笹木といいます」

大体の事情は京司が伝えてくれていたが、改めて挨拶をする。

長く伸びた黒い髪と紺色の縁の眼鏡からか、短絡的ながら図書館で本を読んでいる姿が連想された。身にまとう慎み深い雰囲気がそのイメージを助長させる。

「は、はい。よろしく・・・お願いします・・・」

恐る恐るといった様子で私に挨拶を返してくれる。

「雨上といいます」

しかしーー

・・・目が合わない。

見ず知らずの私にいきなり胸襟を開いてくれ、というのは無理な話か。

ゆっくりと、根気強く対話を重ねるのがベターなのだろうが、状況がそれを許すのか怪しいところだ。

「笹木さん。スマフォ貸して」

「え・・・あ、はい・・・」

短く嘆息する星川さんへスマフォを明け渡すと、要領良く画面を操作し直ぐにこちらに返して寄越す。

「これ、栞さんのアカウント」

「・・・ありがとうございます・・・?」

そっけなく、それだけ言うと私から視線を逸らす。

今一つ状況が飲み込めないまま画面に表示された『友達に追加する』のアイコンをタップする。

数秒後、画面上部にメッセージ受信の通知が表示される。

雨上栞『先程は失礼しました。明日以降、お世話になります。』

雨上栞『私だけでは手に負えなかったのでとても心強いです(T ^ T)』

雨上栞『公演までタイトかもしれませんが頑張りましょう٩( ᐛ )و』

「わ・・・え・・?」

次々と届くメッセージに圧倒されてしまう。そして、文面と実物のテンションの乖離が著しかった。

SAKI SASAKI『こちらこそよろしくお願いします』

SAKI SASAKI『急な参画となってしまいすみません』

アプリ上でレスをする。何だか淡白な文章になってしまった。

雨上栞『いえいえ( ^∀^)』

雨上栞『明日は私の家で優里さんの衣装の最終調整をして、試着までしてもらう予定です。』

雨上栞『10時に集まっていただくことになっています٩( 'ω' )و』

雨上栞『サキさんもその時間に来ていただけますか(*⁰▿⁰*)』

SAKI SASAKI『了解しました。今晩は旭日さんのお家にご厄介になるので一緒に伺おうと思います』

雨上栞『d(^_^o)』

絵文字を駆使しながら簡単な挨拶と明日以降の段取りの説明をしてくれる。

なるほど、これが彼女流のコミュニケーションの取り方のようだ。

「よろしく・・・お願いします・・・」

「ええ、こちらこそ」

スマフォから顔を上げたかと思うと直ぐに伏せてしまう。でも、一瞬だけどーー目を合わせてくれた。

「か、花蓮さん・・・ありがとう・・・」

「どういたしまして・・・それじゃ私はそろそろお暇しますね」

雨上さんの謝意へ簡潔に言葉を返し、星川さんは退出の意を示す。

「あ、うん。今日はありがとね」

「気をつけてな!」

他のメンバーは思い思いの別れの言葉を口にする。

・・・案外あっさりしているのね。

雲井さんや京司に比べて劇団スフィアに対する思い入れは薄いように感じた。無論、各々のスタンスがあるのだろうし比べるものではないのだが。

雨上栞『花蓮さんは他の劇団での活動もあるから中々時間が取れないんです(´・ω・)』

雨上栞『でも今日みたいにフォローしてくれたり良い人なんです(`・ω・´)』

なるほど、そういう事情があったのか。色々な環境に身を置くことで自身の芝居を高めようとしているのだろう。スタジオで見せたストイックな姿勢にも納得がいく。

星川さんは会釈しその場を後にするーーかと思いきや最後に旭日さんを一瞥する。

ほんの一瞬の出来事だったが星川さんの視線の鋭さにはある種の敵意の感情が仄見えたーー気がした。

・・・何か因縁があるのかしら。

気にし過ぎか。単純に酔っ払って醜態を晒している旭日さんに呆れている、というだけな気もする。

「・・・笹木さん、だったか」

「は、はい!」

重厚感のある声に思わず肩を揺らしてしまう。

斜向かいの席に佇む風浦さんに目を合わせる。姿勢と体格、それと眼光の鋭さからどうしても圧迫感を感じてしまう。顔の輪郭はシャープで整っていたがどこか陰のある男性だった。

「どうだった、今日は?」

「どう・・・というのは?」

質問の意図を図りかねるも補足情報はなかった。

恐らくだが今日の稽古を指してのことだろう。

「素人意見ですが・・・良かったと思います」

視線で続きを促される。

あまり気の利いたことは言えないが、正直に自分の感想を話すことにしよう。

「先生役の風浦さん、K役の旭日さん、静役の星川さんーーそれぞれ演者さんの感情が乗っていて迫力がありました」

風浦さんは無言で頷き、数秒の間をおいて私に問いを投げた。

「君は、感情が乗った芝居の方が好きなのか?」

「どちらかといえば・・・解りやすい方が好きなのかもしれません」

改めてそう聞かれた時、即座に出せる答えを持ち合わせていなかった。自分の趣味嗜好について存外無関心だったことに気付かされる。

風浦さんはそうか、と頷き何事かを考えている。名のある高僧と問答を交わしているような心地になってきた。

「・・・人の死についてどう思う?」

そして、なんだか重いテーマになってきた。

『こころ』では主要人物の内2名が自死する。この問いかけも芝居に起因するものだと察せられた。臨時とはいえ私も劇団スフィアのメンバーだ。意見を求められた以上は精一杯答えよう。

私にとっての死とはーー

『サキーー』

一瞬、旧友の顔が脳裏を過ぎる。

「・・・悲しいものだと思います。どんなに望んでも再会が適わない・・・永遠のお別れだから」

身近な人が亡くなるというのはーー想像しただけでも辛いものがあった。

その辛さを乗り越えて成長する、あるいは人はいつか死ぬものと受け入れるという考え方もあるのだろう。しかし、それを持論と主張するには私は若過ぎた。

「そうか。遺された側はそう思うだろうな」

「風浦さんは・・・どう考えているんですか?」

先生はKと同じく自死を選択する。先生を演じるこの人が何を考えて演じているのか気になった。

「分からない」

「・・・え?」

困惑する私をよそに滔々と語る。

焦点がこちらに定まらず、どこか陶酔している様子だった。

「分かっていなかったんだ。死ぬべき理由も、生きるべき理由も、遺された者の思いもーー何もかもが。長々と書いた遺書は単なる後付けの理屈だ。自死を決行したのは虚仮に過ぎない。俺は、未だに死の輪郭にすら触れられない」

真に迫る独白に思わず圧倒されてしまう。理解が追いついているか怪しいが『分からない』という解釈をしたということか。

先生の死は不可解な点が多い。遺書は私への教訓として書き出され、叔父の悪性とKを陥れた己の罪悪について触れ、最後は急に『明治の精神殉死する』として没する。様々な解釈の余白を潰さないーーそんな選択をしたのだろう。

「ありがとう。参考になった」

問答は終了となる。多少は良い影響を与えられたのだろうか。

ふと、スマフォに目をやると幾つかメッセージを受信していた。

雨上栞『風浦さんは興行シーンでも大活躍してる役者さんなんですᕦ(ò_óˇ)ᕤ』

雨上栞『ちょっと表現は独特ですけど( ´_ゝ`)』

その後、他のページへのリンクが貼られている。

舞台の公式ページとネット記事のようだ。私でも知っている有名な俳優との共演経験もあり、記事では『将来を有望視されている俳優』として称賛を受けていた。

・・・もしかして結構凄い人?

『小規模ながら実力のある役者もいる』という京司の評価が徐々に実感を伴ってきた。

役者だけじゃない。裏方のメンバーも高いモチベーションを以て活動に参加しているようだ。

・・・ちょっとでも力になりたいわね。

自然とそんな気持ちが湧いてくる。目標に向かって真摯に取り組むメンバーに共感し始めていた。

「あれあれ〜厨二せんぱい〜飲んれらくらい?」

感慨に耽っているところに呂律の回っていない能天気な声ーー顔を上げると旭日さんが風浦さんの肩に手を回していた。

「旭日・・・やめろ・・・」

さしもの実力派俳優も身の危険を感じたのか、拘束を振り解こうと踠いている。

「仁・・・すまん。抑えられなかった」

「優里さん・・・正気に、戻って・・・」

「まだ、死にたくはない・・・」

「ハッハッハ!愉快なことだ!」

・・・本当にやっていけるのか心配になってきた。


2-2-5

ここまでが私と劇団スフィアのメンバーとの出会いだった。

緊張感が支配する楽屋では私と雲井さん、京司の3名が机を取り囲んでいた。

本番前日のリハは公演会場を1日貸し切って行うことになっている。演技のリハーサルはもちろん、機材や道具の搬入やその設営などやらなければならないことは多い。今、現在進行形で他のメンバーがその作業にあたっている。

「どこに行ってしまったんだ・・・優里」

今朝、目を覚ますと優里は姿を消していた。『さよなら』と書かれた紙片を残して。

電話をするも一向に繋がらず、メッセージへの返信もない。

優里の失踪について、私には心当たりがなかった。典型的な楽天家だし私生活がだらしない面もあったけどーー理由もなくこんなことをするやつじゃない。

改めて、卓上の便箋をよく観察する。

挿絵(By みてみん)

アサガオの柄があしらわれた便箋は市販のありふれたものに見えた。特別、手触りが良いとか特殊な素材を使っているなんていうことはなさそうだ。そして、その紙面には黒ボールペンのインクが滲むのみだった。強いて特徴を挙げるならば三つ折りの形跡があるということくらいか。

「この手紙・・・優里の筆跡じゃない」

雲井さんが青ざめた顔で口元を抑えていた。

「ふむ」

唐突に京司は便箋へ手を伸ばし、裏返しにすると何度か紙面を撫でた。そして、折り目に従って紙を曲げて見せる。

「この折り目、緩やかだな」

雲井さんと京司の発言をまとめるとこういくことか。

「つまり・・・便箋は何枚かの手紙の一部ということね。そして、その手紙の主は優里以外の誰か」

「・・・手紙の内容にショックを受けた彼女は堪らず家を出た、ということか」

私の発言を引き継ぐ雲井さんは憔悴しきっていた。あくまで仮説に過ぎないが、状況証拠的には妥当なものと言わざるを得ない。

考えなければならないことは幾つかある。

優里は何故失踪したのか?どこにいるのか?手紙の主は?

比較的考え易いのは手紙の主だろうか。

優里の交友関係は狭かったように思う。アルバイトもしていたようだが公演1週間前はシフトを入れていなかった。ここ数日、優里とは行動を共にしていたが劇団関係者以外と会っている様子もない。

手紙をトリガーに優里が失踪することになったと仮定すると、その発見時刻は昨日の深夜あるいは今日の早朝に絞られる。そうすると、手紙が優里の手に渡ったタイミングは昨日の日中と考えるのが妥当だろうか。

昨日の優里の行動を振り返る。起床後、自室で自主練習、昼食は私と一緒に自宅で摂った。午後は15時から20時まで四条の貸スタジオにてリハーサル前の最終調整ーー仕事後に参加した雲井さん以外はメンバー全員がフル参加だったーーをした。その後はちょっとした買い物をして帰宅という流れだ。期せずして私と優里は1日中同じ行動を取っていたことになる。その間、不審な人物が接近し手紙を手渡すなどということはなかった。

「サキ、優里と離れたタイミングはあったか?」

記憶を辿り友人の問いに答える。

「そうね・・・それぞれがトイレに行った時と買い物ーー洗剤を切らしたのを優里が思い出して四条駅周辺のドラッグストアに寄ったーーそのタイミングだけね。時間にしてせいぜい5〜10分くらい」

「なるほど。そのタイミングで誰かに手紙を渡されたとは考えにくいな」

可能性が0とまでは言えないが限りなく低かった。謎の人物が優里に手紙を渡そうとしたとして、優里が素直に受け取るとは考えにくい。仮にその点を無視したとして、トイレと買い物はあくまで偶発的なイベントだ。私と優里を尾行しそのタイミングを待つーーとても確実性が低いように思えた。

しかし、そうなると・・・

「誰がこんなことを・・・」

雲井さんが絞り出すように呟く。

私を含めた劇団関係者の内の誰かが手紙の主である可能性は高い。

貸スタジオでの稽古の際、荷物は各々で管理することになっており、邪魔にならないよう隅に固めておくのが定例だ。5時間の稽古のどこかで他の者の目を盗んで優里の荷物に手紙を忍び込ませることはーー可能だろう。

「浩二・・・ここは俺とサキに任せてもらえないか?」

京司は意を決したと雲井さんへ今後の動き方を提案する。

「予定通り搬入や設営を進めてくれ。団長のお前が長時間不在では作業が滞るし士気にも関わる。優里のことは皆には伏せておいた方が良いだろう。混乱を防ぐためにな」

京司はあくまで優里を連れ戻し明日の公演を行うつもりのようだ。普段はお調子者の彼だが、昔からこういう時には胆力を発揮する。

「信じてくれ。浩二」

そこには容疑者足り得る私たちをーーという意味が含まれていた。

「・・・分かった、頼む」

劇団スフィアの団長は縋るように京司の肩を掴んだ。

「そういう訳で力を貸してくれ。サキ」

「ええ、分かったわ」

・・・優里。

幼馴染の要請に応えると共に、今は行方の知れない友人の身を案じた。


2-2-6

おーい・・・おーいってば。

聞こえてるんでしょ?無視しないでよ。

どうしたの?怒ってる?

勝手に演劇部に入ったから?いや・・・まぁ何でって言われても・・・良いでしょ?

どうせ部活入ってなかったしさ。せっかくの高校生活なんだから充実させたいじゃん。

部長の子が押しが強くて・・・それに主演が本番直前にインフルエンザだっていうから仕方なく、ね。

え、ルックスとかスタイル褒められたからだろって?

それもまぁなくはないけど・・・いや、そう!褒められれば誰でも嬉しいでしょ?

『お気に召すまま』ーーシェイクスピアの四大喜劇らしいけど高校生で読んでる人いたのかな?

あぁ君のお気には召さなかったみたいだね。

え?あぁうん、解ってる。解ってるとも!

なんやかんやでハッピーエンドで良かった良かった・・・って浅いですね、すみませんでした。

ーーでも、精一杯演じたよ。

・・・じゃあさ、今度は助けてよ。

次はそうーー悲劇をやるんだって。


2-2-7

決起会を終え、私は旭日さんの自宅まで移動することとなった。最寄駅である北大路は京都の中心から離れているということもあってか閑散としていた。近くに有名な観光スポットが少ないーーパッと思いつくのは大徳寺くらいだーーことも要因かも知れない。

そういう事情もあって京都市では比較的家賃相場の低い地域らしい。ただ、観光客の往来が比較的少なく、京都市の中心までは烏丸線を使って15分程度ーー住むには良いところかもしれない。

静まり返った住宅街の夜気がほてった身体から熱を引かせて行くようだった。郊外のこういう空気は嫌いじゃない。地元と似ているからだろうか。

「ごめんねぇ・・・サキ・・・」

耳元でヘニャヘニャとした声が響く・・・酒臭い。

「あーもう・・・ほら、ちゃんと歩く」

隙あらば私の貸した肩にもたれ掛かろうとする旭日優里に向けて毅然と抗議する。最初は敬語で丁寧に接するよう心がけていたが、その対応では一向に歩みが進まなかったのだ。

「ハッハッハ」

その様子を眺め京司は大口を開けて笑っていた。

私のキャリーケースを引いてくれているからその点は感謝するけどウザすぎる。

「ちゃんサキ・・・元気ですか!?」

もう何度目かのダル絡みをしてくる。怪訝そうにこちらを伺う通行人の視線が痛かった。

「元気があれば何でもできる!」

・・・もう道端に捨てようかしら。

貸スタジオでの芝居には感動すら覚えたというのに。一気に印象が悪くなった。

役者って皆こうなの・・・?いや、そんなことはないはず。現に星川さんや風浦さんは節度を保ってお酒を楽しんでいた。

「この辺りだな」

スマホを片手に道案内をしてくれていた京司が足を止める。

周囲には学生や単身者用の小さめのアパートが立ち並んでいた。

「ここれす・・・」

旭日優里は俯きながら、一つの物件を指差す。青い切妻屋根とタイル調の外壁を備えた2階建ての家がアパートとアパートの間にサンドされていた。玄関周りには自転車が乱雑に停められており、ポストからは勧誘のチラシがはみ出ている。

「ここか・・・ではな、サキ。明日以降は雨上さんの手伝いとーー隙間時間に動画編集を頼む」

家主に鍵を開けてもらっている間、京司からキャリーケースとノートPCの入ったトートバッグを渡される。見学の合間に編集ソフトの使い方とこれまで劇団スフィアがアップしてきた動画は一通り予習した。多少の慣れと努力は必要だが、どうにか仕上げられるだろう。

「分かった。明日中には第一稿を上げられると思う」

動画は明後日ーー水曜日ーーの夜から順次公開する予定となっている。明日チェックしてもらえれば多少の修正事項が出ても間に合うだろう。

「急ぐ事はないさ。ではな」

相変わらず真面目だなと京司は苦笑し、簡単な別れと共に踵を返す。

私もそれに応えるーー前に言わなければならないことがある。

「あ、あのさ・・・」

「どうした?」

「その・・・ありがと。色々助けてもらって」

言い切る前に思わず顔を逸らしてしまう。昔から面と向かってこういうことを言うのは苦手だ。

「そんなことか!律儀なことだ」

「う・・・うっさい!と、とにかくお礼言ったから!もう言ってやらないから」

私の辿々しい感謝の言葉と憎まれ口は笑い飛ばされてしまう。

「ま、その内返してくれ」

軽口を残しその場を去って行く。

・・・何だかんだ良いやつよね。

「あきあした〜」

夜空を見上げ感慨に耽っているところで力のない声が肩を叩く。

振り返ると、戸口を開けっぱなしにしたまま旭日優里がうつ伏せになっていた。うわ言を呟きながら目を閉じている。ここで寝るつもりのようだ。

「ほら、しっかりして。部屋どこ?」

強引に腕を引っ張り、肩を貸す。重い・・・頼むから自分の力で立ってくれ。

玄関内の壁を手で探り電気を点ける。傘立てや靴箱が並ぶタイル張りの玄関は人が二人並ぶには少々手狭だった。

今時珍しい引き戸用の錠前の扱いに手こずるも施錠が完了する。

「・・・2階れす」

右手に人一人がようやく通れるほどの階段が見えた。一階の奥にはリビングらしき部屋が覗くーー横幅が狭い代わりに奥に広い家のようだ。

靴を脱ぎ上がり框に足を掛けるとキィと床が軋む。二人分の負荷がかかっていることもあるのだろうが、相応に老朽化しているようだ。

一段一段、踏み締めるようにして階段を登る。2階には細い廊下が続いており、手前側と奥側に2つの部屋が並んでいた。

「奥の方・・・」

指示に従いドアノブを捻り、居室に足を踏み入れると微かにシナモンのフレグランスが香る。

意外にもーーといったら失礼だがーー部屋は綺麗に整理整頓されていた。大きめのベッドに簡素な座卓と座椅子、書類箱の類があるのみでモノが少ない。インテリアは窓際に置かれた観葉植物と写真立てくらいのもので飾り気はなかった。フローリングや壁紙には幾らか傷がついていたが特に頓着していないようである。

「ごめんね・・・ベッド使っていいから」

自室に着いたことに安堵したのか旭日優里は脱力しその場に寝転がる。

ゲストとはいえベッドを占領するのは気が引ける。来客用の布団などはないものだろうか。しかし、人様の部屋を勝手に物色するのも気が引ける。

何よりーー

「そんなとこで寝たら身体痛める、でしょ・・・」

最後の力を振り絞り主演女優の身体を持ち上げる。両脇に手をいれ引き摺る形になってしまうが、私の力ではこれが限界だ。

「っしょ」

半ば放り投げる形でベッドにダイブさせるとスプリングが上下に揺れた。

畳まれていた薄手の掛け布団をかけてやる。これで風邪をひく心配はないだろう。

・・・身体拭いた方が良いのかしら。

稽古と夏の熱気でそれなりに汗をかいただろう。そのままにしておくのは身体に障りそうだ。しかし、同世代にそこまで世話を焼かれるというのはプライドを傷つけるだろうか。いや、そもそもここまで泥酔するのが悪いのであって・・・

「ありがとう・・・後は大丈夫、だから」

弱々しく礼を述べる彼女の頬はアルコールの影響もあってか上気していた。鼻梁の通った端正な顔立ちと引き締まった肢体も相まって艶気というか色気を感じてしまう。

「そ、そう・・・?風邪引かないようにね。私は・・・下のリビング借りるわ」

逡巡を断ち切られたことに半ば安堵しつつ部屋を後にする。



「・・・こんなところかしら」

最終チェックが完了しPCの画面から顔を上げると、壁時計の針は0時を回っていた。

サイドテーブルにノートPCを置き、ソファに身体を預ける。

間借りしている8畳程のリビングにはソファやテレビ、座卓などの家具家財が詰め込まれていた。パントリーが開けっぱなしになっていたり、通販サイトから送られてきたであろうダンボール箱が放置されていたりと自室とは対照的で些か散らかっている。

卓上のノートPCが唸り声を上げる。エンコードの処理が始まったのだろう。

インタビュー動画の第一稿は完成した。残すは舞台裏のドキュメンタリー風動画だが公開は公演終了後だ。日程的には幾らか余裕がある。明日以降に回しても問題ないだろう。

一先ずはやるべきことはやった。

後はーー

「もう一踏ん張り・・・」

自前のキャリーケースを開きタブレット端末とハードカバーの本を取り出す。

『気分転換にこんなのはどうかな』

東京を発つ前の『先生』とのやり取りを思い返す。

「とはいえ・・・結構、難儀な課題よね」

分厚い専門書のページを手繰り独り言ちる。

課題の内容は『任意の精神病について平易な言葉で説明する』だ。

一見簡単に見える課題だが誰に向けての説明かで文献の参照箇所や話し言葉も変わってくる。また、説明のための資料や時間についても特に指定はない。

・・・考えすぎだろうか。

迷いを拭い去り、目の前の専門書を読み進めることにした。


2-2-8

先生との出会いはもう10年以上前になる。

『お父さん・・・』

あの時の私は絶望の淵にいた。優しかったお父さんがどこかへ行ってしまったから。

『お父さん、頑張り過ぎちゃったみたいだね』

都心の高層マンションから名門と呼ばれる幼稚園に通い、休みの日は『お受験』に備えた習い事と勉強ーー両親は私に将来の選択肢を与えようとしてくれていた。

『少し、休憩が必要なんだ』

大うつ病性障害ーー後にお父さんはそう診断された。

『良い子にするから・・・お父さん・・・』

どこかで歪みが出ていたのだろう。それがお父さんの不調という形で表れた。

『お勉強もピアノもがんばるから・・・1番取るから・・・だから・・・いなくならないで』

先生はまとまりのない私の話を辛抱強く聞いてくれた。

『きっと良くなるよ』

泣きじゃくる私に先生は笑いかけ抱き寄せた。

『不安だったね。もう、大丈夫だよ』

先生の温もりと言葉に私は救われた。

それと同時に私の胸の内に一つの感情が、夢が芽生えた。

ーーこの人みたいになりたい。

険しい道のりだということは幼い私にも理解できた。『お医者さん』は一杯勉強しなきゃなれないから。

先生ーー今の私は貴女にどれだけ近づけた?


2-2-9

目が覚めるとベッドの上にいた。夢を見ていた、気がする。

眠気まなこを擦ると周囲の様子が鮮明になっていくーー旭日優里の部屋だった。

どうやらリビングのソファで寝落ちしてしまったらしい。それを見かねた彼女が私を抱え、ベッドに寝かせてくれたのだろう。

「ーーす」

壁の向こう側から微かに声が聞こえる。

身を起こし、誘われるように隣の部屋へ足を向ける。

半開きなったドアから様子を伺う。

・・・凄い。

驚嘆したのは部屋の様子からだった。隅を取り囲むように配置された本棚にはビデオ、DVD、書籍がびっしり詰め込まれていた。それでなお、納まりきらない分は棚の上に平積みされている。床には台本のコピーが散乱しており、各行にメモ書きがなされている。

並々ならぬ熱意を覗かせる部屋の様相に失いかけていた畏敬の念が再び込み上げてきた。

そして、そんな空間の中心に佇むのは部屋の主である旭日優里だった。

「覚めた結果としてそう思うのです」

切実な表情でセリフを発する彼女の姿に自然と視線が吸い寄せられてしまう。どうやら公演に向けた自主練習をしているようだ。昨日の稽古とは別のシーンだった。

「ーー気の毒だが信用されない、そう仰るんですか」

ここに至り気づく。旭日優里は『私』の役を演じているーーKと合わせて一人二役だ。『こころ』の主要な登場人物は先生、先生の奥さんである静、K、『私』の4名だ。劇団の主力演者と必要な役の数を勘案し、こういう配役になったのだろう。

「ーーじゃあ奥さんも信用なされないんですか」

先生を慕いながらも何処か青さが抜けない少年ーーそんな繊細な機微が感じ取れた。

憧憬と懐疑ーー先生と対話する少年の顔は満足気でありながら、自身の言葉が切る空漠に不満があるようだった。

・・・ああ、そうか。

今更ながら自覚する。私は彼女の芝居に共感し魅了されているのだ。飾らない、ありのままの人間の感情に向き合うーーそんな芝居に。

「・・・うん・・・そうだね」

シーンが一区切りついたのか。短く息を吐く横顔は安堵の感情が見えた。

「何とか間に合いそうかな」

携帯電話の機体に耳を当て小声で自身の芝居を振り返る。

穏やかな声音からは信頼が伺えたーー相手は誰だろうか。

「後はーー」

「あ・・・」

振り向き様に視線が合ってしまう。

「ごめん、邪魔しちゃったわね」

「あーううん。ちょうど区切りの良いタイミングだったから」

私の謝罪に軽く微笑を返し携帯電話を閉じる。昨日の酔いはすっかり醒めているようだった。

「それにーー昨日はすみませんでした!」

落ち着きを払った態度から一転、流れるように土下座へとシフトする。あまりにも鮮やかな転身にあっけに取られてしまう。

昨夜、泥酔し介抱されたことに責任を感じているようだった。

「べ、別にいいわよ。お世話になっているのは私の方だし」

「許してくれる?」

謝罪が受け入れられてなお、正座の姿勢を崩さず恐る恐る顔を上げる。顔に滲む不安の色が生まれたての小動物を想起させた。

「許すわ」

その言葉に表情がパッと明るくなる。本当に感情豊かな人だ。

「その代わりもう無茶な飲み方はしないことね。大事な本番前なんでしょ?もしものことがあったら・・・」

「・・・サキって優しいよね」

忠告を残す私に見当違いのレスポンスーー耳の辺りがカッと熱くなる。

「は、はぁ!?何勘違いしてんの?アンタの心配じゃなくて団員の皆んなの心配してんのよ!アンタ主演でしょ!自覚持ちなさいよ!」

「ほら、優しい」

「あーもう!」

私の発する怒気をいなし優里はニコニコしていた。



「いただきます」

「はい、どうぞ」

手を合わせ箸を取ると無性に食欲が湧いた。

リビングの座卓にはご飯に味噌汁、目玉焼きとベーコン、付け合わせにヒジキと切り干し大根ーー伝統的な日本食が配膳されている。

味噌汁を一口、薄めの味付けと鰹出汁が胃に沁みた。主菜も副菜もご飯に合うーー美味しい。

「料理上手いのね。美味しいわ」

「もっと褒めてー」

そんな手の込んだものじゃないけどねと付け足し、優里は冗談めかして笑う。

シャワーを借りてリビングに戻ると朝食を用意してくれていた。何とも至れり尽くせりである。

彼女は先に食事を済ませていたようだ。自作の手料理に舌鼓を打つ私を満足気に眺めていた。

「サキはアメリカ行ってたんだよね?向こうの食事はどうだった?」

「私がいたシアトルは太平洋に面してるからか魚介類が美味しかったわ。ただ、生食の文化はないみたい。揚げたり煮込んだりして食べてたわ」

向こうの食事も美味しかったが、何だかんだで私は日本食が好きだ。うん、切り干し大根美味しい。味は言わずもがな高野豆腐と大根の食感が楽しかった。

「へぇ・・・いいなぁ海外」

優里は私の2年ちょっとの実体験に感心してくれているようだった。

「行ってみたい国とかあるの?」

「うーん。インドかな。本場のカレー食べてみたいかも」

私の問いかけに無邪気にそう答える。

「あと、象とか見たい。めっちゃデカそうじゃない?」

あまりにも突拍子がない答えに思わず笑ってしまう。

「確か上野動物園で見れたような気がするわ」

「えー現地で見たいんだよー」

まぁそれもそうか。無粋なことを言ってしまったかもしれない。

「でも意外ね。お芝居の本場・・・ニューヨークとかロサンゼルス、ヨーロッパに興味があるんだと思ってた」

「観劇はしてみたいけど・・・そっちは何となく生活が想像できるっていうか」

言わんとすることは分かる。言語や文化の壁はあるものの近代的な生活というのはどこも似たり寄ったりだ。何が起こるか分からない混沌とした環境の方が、彼女にとっては学ぶものが大きいのかもしれない。

目玉焼きの中心に箸を入れると予想通り艶のある卵黄が溢れ出す。そこに醤油をかけてご飯に合わせる。最高である。

「あ、そうだ。パソコンとか参考書?はそこにまとめといたから」

優里は背後のサイドテーブルに堆く積まれた書籍と資料の山を指し示す。昨日ーー厳密には今日ーー出しっぱなしにしたまま寝てしまったのだ。

「あ・・・ごめん。助かるわ」

「サキって医学部?」

書籍のタイトルから察したのだろう。問いかけに首肯を返すと優里は目を輝かせる。

「え!凄いね!」

小さく拍手する素振りと共に頭良いーと賛辞を送ってくれる。

「でもあんな遅くまで・・・やっぱり大変なんだ」

「1年次は教養科目が中心だからそこまででもないわ。まぁ来年に備えて・・・っていうのと興味のある分野の予習ね」

「偉すぎる・・・」

口元に手を当て驚嘆を顕にする。

実際、他の学部と比較して医学部の勉強量は群を抜いている、と思う。単純な在学期間の長さもさることながら、密度も濃い。基本的には1〜5限までコマが埋まっているし、放課後も自習に取り組む学生が大半だ。学年が上がれば当然、現場での実習も開始される。

艶のあるご飯を口に運び噛み締めると米本来の風味と甘味が感じられた。美味しい。

・・・苦労自慢をするのも忍びない。話題を変えるとしよう。

「今日は雨上さんのお家に行くのよね。何時くらいに出るのが良いの?」

時刻は8時半を回ったところだった。

「あー9時過ぎに出れば間に合うと思うよ。祇園四条の辺りだから」

昨日の貸スタジオとそう距離は変わらないか。

「しーちゃんの家は歴史のある呉服屋さんなんだ。お屋敷みたらびっくりするかも」

なるほど、製作に必要なノウハウや設備を豊富に持っていそうだ。和装がメインになる今回の演目では正に本領発揮といえるだろう。一方で助手として要求される水準も高そうでもある。大丈夫だろうか。

「雨上さんとは付き合い長いの?」

「うん。高校生の頃から友達だよ。手先が器用で色々な衣装作ってくれるんだ。それに本も一杯読んでて物知りだしお菓子も作れるし・・・」

声を弾ませて友人の美点を挙げる様子が微笑ましかった。性格は正反対ながら良いコンビなのだろう。

「多才なのね。そうすると中学は別々ってこと?」

「うん。私、実家は福知山の方なんだ。高校進学を機にこっちに来たって感じかな」

福知山から京都市内までは電車で1時間半はかかる。日々通学するにはちょっとしんどいかもしれない。

「なるほどね。でも、お芝居に集中するには良い環境よね」

一人暮らしで戸建てであれば自主練習はしやすいだろう。

「まぁね。建物は古いけど良く言えば・・・」

「趣がある、って?」

「そうそれ!」

私たちは顔を見合わせ笑った。


2-2-10

電車を乗り継ぎ私たちは祇園の街を赴いた。

祇園四条駅から地上に出ると晴天が広がっており、その下を地域住民や観光客が行き交っていた。道路を一本挟んだ先には悠然と流れる鴨川とそこに掛かる四条大橋ーー更に歩みを進めると八坂神社、産寧坂、清水寺と観光コースが楽しめる。道中には古くからこの街で商いをしてきた土産物屋や食事処が軒を連ねており散策の自由度も高い。

なんだか初めて観光気分を味わえたような気がする。無論、やるべきことはあるのだが。

「やっぱりこの時期は人が多いなぁ」

優里はげんなりしながらも人混みに身を投じる。私もそれに続いた。

「そうね。普段こっちには来るの?」

「あんまり来ないかな・・・大学は割と近所だし・・・」

先導してくれていた優里がふと歩みを止める。

優里の視線を追う。

「・・・南座ね」

和のーー桃山風というらしいーー意匠が施された4階建の劇場は構えからして壮観で思わず圧倒されてしまう。大きさもさることながら江戸時代初期から現在まで興行を続ける歴史ある劇場である。今日は歌舞伎が披露されるらしく役者の名前を記したのぼりが入場口に散見された。

「いつかこんなところでやれたらいいな」

そんな伝統と威厳に満ちた屋舎を優里は見上げていた。その視線の先に自身の役者としての未来を映したのかもしれない。

「そうね。そしたら観に来るわ」

「ありがと。良い席に招待するから」

ささやかな声援に優里は顔を綻ばせる。

「そんな権限あるの?」

「あるよ!主演で出るから!」

「お、大きく出たわね・・・」

冗談混じりの意地悪に屈託のない笑顔でそう返される。まるで根拠はないが彼女ならできる気がしてきた。

「あ、足止めてごめん。行こっか」

暫く真っ直ぐだねと、案内を再開してくれる。

八坂神社へ続く市道は朝から活気にあふれていた。優里の方へ身を寄せ他の通行人とぶつからないよう努める。

・・・それにしても。

距離を詰めると改めて身長の格差を意識させられる。姿勢が良いこともあって実際の身長よりも数センチ大きく感じられた。

優里の今日の装いはノースリーブのカットソーに紺色のロングスカートーースラリと伸びた脚が良く映えた。昨日とは打って変わって女性的なコーディネートである。

「アンタ・・・ズルくない?」

「え?何が?」

優里のルックスと存在感は人々の注目を引いていた。すれ違う人々は口々に『カッコイイ』『綺麗』などと感想を漏らす。

そこは・・・まぁ良いとして昨日のような男性が着る服でも似合ってしまうというのが許せなかった。これから試着するであろう男性用の着物もきっと似合うのだろう。

身長ーーそれは天からの贈り物なのだ。醜い僻み、無い物ねだりだと分かっていても止められない。

「ま・・・まだ可能性あるから。それに小さくても可愛いよ、サキ・・・元気出して、ね」

観光地にそぐわない負のオーラを感じ取ったのか優里は慌ててフォローの体制に入る。

「う・・・ごめん。でも高い身長って羨ましいわ」

「まぁ・・・お芝居やる上では有利にはたらくこともあるけどさ。これはこれで大変だよ」

・・・そうよね。隣の芝生はなんとやらかもしれない。

「あ、ちょうど着いたよ」

市道から1本小路に入り暫く歩くと一軒の屋敷が目を引いた。青い瓦屋根と深い色合いの板張り壁を備え、玄関先に掛けられた暖簾には屋号と家紋とおぼしき葵の模様が刺繍されている。

「立派なお家ね」

店構えからは老舗としての風格が漂っていた。こういう機会でもなければ足を運ぶことはなかっただろう。

「そうだね・・・裏口から入ろう」

優里は慣れた様子で屋敷の裏手に回る。木製の引き戸に手をかけると内からは檜とお香の匂いが上品に香った。広々とした御影石張りの玄関口には靴の他に下駄が並べられている。

「優里さん・・・サキさん。いらっしゃい・・・ご足労いただいてごめんなさい」

暫くすると奥の方から雨上さんが姿を見せた。申し訳なさそうに低頭すると長い前髪が眼鏡にかかる。

「あ、しーちゃん。今日はカッコいいね!」

雨上さんは黒の生地に白百合があしらわれた着物に身を包んでいる。優里の言う通りシックで落ち着いた、それでいてフォーマルな色合いが優雅だった。

「おはようございます。雨上さん。私も似合ってると思います」

「き、恐縮です・・・」

こちらへと控えめに言って雨上さんは私たちを案内してくれる。正面玄関から続く販売スペースや茶の間を横目に廊下を抜けると大きな座敷間に辿り着く。

「少し・・・待っていてください・・・」

どうやら従業員が使う作業場のようだ。作務衣に身を包んだ職人が肩を寄せ素早い手つきで作業に取り組んでいた。収納棚には色とりどりの生地が巻物上に丸められーー反物といやつかーーストックされている。

作業場の一部を間借りし製作に励んでいたようだ。襖から見切れた雨上さんはリーダーと思しき女性の職人さんにペコペコと低頭していた。それに対し職人さんは恐縮しながらも応答する。何となく会話の内容が想像できた。

「い、行きましょう・・・」

丁寧に折り畳まれた着物を数着抱え、座敷から退出すると案内を再開してくれる。

「雨上さん、持ちますね」

「あ・・・ありがとう」

着物は全部で5着あった。色のついた柄物が2着と比較的落ち着いた色合いのものが3着ーーそれぞれ女性用と男性用だろう。

2階へ続く階段は居住空間に続いている。曇りのない窓ガラスからは市街を行き交う人の姿が見られ、何となく地元の住人になったような錯覚に浸れた。

そして、今更ながら歩行距離が長い。広い屋敷というのもそれはそれで大変そうだ。

暫く廊下を歩くと雨上さんの部屋に通される。

「こちらで・・・少し・・・お待ちください」

そう言って雨上さんはまたどこかへ行ってしまった。

私たちは部屋の中で待たせてもらうことにする。

「なんとも・・・風流ね」

8畳程の和室には床の間が備えられ山景を描いた掛け軸が飾られている。その傍に生けられた紫陽花が雅だった。無垢材を使用した文机と本棚、藤椅子といった和を感じさせる家具が部屋の雰囲気が統一し品格を演出している。

「そうだねー」

口から漏れ出たチープな感想に同意を示し、優里は無造作に座布団に腰を下ろした。

「まーまーそんな固くならずに」

「アンタはこの家のなんなのよ・・・」

ツッコミを入れつつ優里が指し示した座布団に腰を下ろす。

改めて部屋を見渡すとテレビやゲーム機なんかが目に付いた。また、本棚にはお菓子のレシピ本や漫画が収納されている。雨上さんも私たちと同世代の普通の女子なのだ。優里の言う通り変に壁を作る必要はないのかもしれない。

「あ、これ新刊出てたんだ」

・・・まぁ節度は守ろう。

本棚から勝手に漫画本を取り出す優里を生暖かい目で眺めていると雨上さんが姿を現す。

「お待たせ・・・しました」

両腕に抱えているのは・・・ミシンだ。

自分の部屋だというのに身を屈ませそそくさとセッティングを始める。

雨上栞『本日は有難うございます( ^∀^)』

手際良く動作確認まで済ませると高速でスマフォをタップする。

そういえばこれが彼女のコミュニケーションスタイルだった。

雨上栞『仕立てまで終わっていますので後は仕上げ縫いですねψ(`∇´)ψ』

雨上栞『ちょっと量は多いですが頑張りましょう٩( 'ω' )و』

SAKI SASAKI『了解しました。ミシンは学校で習ったのでお力になれると思います!』

とりあえず『!』を付けてみた。



終わった。

糸切り鋏から手を放しバタリと後ろに倒れ込む。集中の糸が切れたのかどっと疲れが襲ってきた。和紙が用いられたシーリングライトから差す白色光がやけに眩しい。

「お疲れ・・・様でした」

「お疲れ〜」

控えめな声と能天気な声が鼓膜を揺らす。少し遅れて一仕事を終えた後の満足感が湧いてきた。

「栞さん、優里お疲れ・・・」

ミシンを使った5着分の仕上げーーそれだけでも作業量としては多かったが手縫いが必要な箇所も相応に多かった。私と優里を含めた3人体制でなければ終わらなかっただろう。

「ごめんなさい・・・色々と見立てが甘かったかも」

「いやいや・・・栞さんのせいじゃないわ」

謝罪を打ち消しつつ身体を起こす。

そもそも私たちが戦力になれたのは『縫う』という比較的馴染みのある作業だったからに過ぎない。それより前の『染め』や『裁断』といった工程を一人でこなした栞さんを責めることなどできなかった。

「でも・・・サキさん。凄かったです。手縫いのところ・・・けっこう複雑だったのに」

「丁寧に教えてもらったので・・・」

中学の家庭科の授業で幼馴染ーーカグヤーーと張り合ってやたら凝った刺繍を縫った経験が活きたようだ。

とはいえ、栞さんのレクチャーによるところが大きいだろう。実際、彼女の方がより速く正確に作業をこなしていた。

「まぁ間に合って良かったね〜」

優里は呑気な笑顔を浮かべ畳の上でグデっと伸びをしていた。

ふと時計を見ると短針は5を差していた。途中、昼食休憩を挟みつつも6時間程度は作業をしていたことになる。

「そうですね・・・それじゃあ優里さん・・・試着を」

「あ、そっか」

優里は思い出したとばかりに立ち上がる。

そしてーー徐に服を脱ぎ始めた。

「ちょ・・・急に脱ぐな!」

あまりにも躊躇いのない動きに困惑してしまう。

「えー女同士だしよくない?」

「そう、だけど・・・」

・・・羞恥心とかないわけ?

「えーと・・・これ羽織ればいいのかな・・・あれ、その前に肌着だっけ・・・」

「アンタねぇ・・・」

分かっていなかったのか。まぁ男性用とはいえ和服って着付けが独特だし無理はないか。

「えっと先ずは・・・サラシを巻いて・・・」

「しーちゃんありがとう!」

見かねた栞さんがテキパキと着付けをしていく。

「キツく・・・ないですか?」

「ううん、だいじょぶー」

優里は完全にされるがままだった。ほとんど介護である。

「おー」

数分後、着付けが完了し優里は小さく歓声を上げた。テンションが上がっているのか姿見の前で謎のポーズを取っている。

着物は紺色で柄のないシンプルなものだった。明治時代の書生が着るもの、ということを考えあえてそうしたのだろう。今朝の演技に見た素朴な青年像とピタリと合致した。

「良いじゃない。似合ってるわ」

私は素直な感想を送る。

「ありがと」

えへへと照れたような笑みを浮かべる。こうした素の反応は純粋無垢な少女のそれだった。

「動きにくさとか・・・ないですか」

「うん・・・多分、大丈夫だよ!流石しーちゃん!」

その言葉に栞さんは胸を撫で下ろし笑顔を見せた。自身の製作物を友人が喜んでくれた事が純粋に嬉しいのだろう。

「いつもありがとね!」

「は、はい・・・優里さんのためなら・・・」

栞さんは感謝の言葉を受け取り恭順の意を示す。

その言葉に私は少し違和感を覚えた。優里の芝居に対する敬意からだろうが、同級生にかける言葉としては大袈裟な気もする。

・・・まぁ気にし過ぎか。

「念の為・・・外を散歩してみますか?」

「良いかも・・・あ、じゃあさ」

優里は名案を閃いたと明朗に笑いこちらを見た。



灯篭の中で火が優美に揺らめいていた。祭囃子と人々の喧騒が入り混じった音に呼応し胸の高鳴りを感じる。

「この辺一緒に歩くのも久しぶりだね」

「そう、ですね」

軽快に石畳を蹴る優里と淑やかに連れ添う栞さんの様子は情景と衣装も相まって絵になっていた。

夜の祇園の街並み、その耽美な景観に心を満たされながらも私はまた別の感動を覚えていた。

・・・これが高身長の世界・・・!

『サキさんには・・・こんなのはどうでしょう?』

そう言って栞さんが勧めてくれたのは牡丹があしらわれた鮮やかな黄色の浴衣と紺色の袴、そして・・・黒のブーツだ。大正浪漫風コーデといって華やかさとカジュアル感を両立した着こなしは年代を問わず相応の需要がある、とのことだった。

和装をしたのは七五三以来なので否応なくテンションが上がった。

何よりーー

厚底の靴を履くことで世界が違って見える。背伸びしなくても前方の状況が把握できるし、人と会話する時に顔を上げなくても良いのだ。

・・・ありがとう。栞さん・・・ありがとう・・・!

圧倒的感謝を噛み締めながら夜の街を闊歩する。

「サキ、似合ってるじゃん」

撮ってあげるーーそう言って優里はスマフォを構え夜の京都を背景にシャッターを切った。

「こんな感じーーカッコ可愛いって感じ?後で送るね」

写真を確認し感謝を示そうと顔を上げるーーそう、顔を上げる。

「あ・・・ありがと」

「どうしたの?」

優里は怪訝そうに私の顔を覗き込み、変なのと笑って歩を進める。

文字通り下駄を履いても越えられない背中がそこにあった。

・・・魔法が解けた気分ね。

雑踏の中で先を行く優里の姿を呆然と眺めていた。

「着心地、悪いですか・・・?」

栞さんが恐る恐るといった様子で尋ねる。

「いえいえ!全然大丈夫です。和服を着たの久しぶりだから良い思い出になりそう」

栞さんの懸念を打ち消すと彼女はホッと一息吐いた。

「良かったです。でも・・・もっと色々回れたら良かったんですが・・・」

せっかく来たのにと栞さんが残念そうに言葉をこぼす。

「そんな・・・気にしないでください。むしろタダで着物貸してもらって申し訳ないっていうか・・・」

18時を回るとほとんどの寺院は拝観の受付が終了となる。私たちは唯一近場で訪問可能な八坂神社に向けて歩を進めていた。

「サキさん・・・良い人ですね」

「そんなことないと思うけど・・・」

優里にも似たようなことを言われたのを思い出す。

そういえばアプリを通じてのやり取りはほとんどなくなった。多少は気を許してくれた、ということだろうか。

「お、着いた着いた」

煌びやかな提灯とライトアップされた寺院を背に優里が無邪気に手を振っている。

人の波を縫うようにして焼物の香りが鼻腔に届く。敷地内で営業している屋台からだろう。

「祇園祭が終わって・・・七夕まつりへの準備期間ですね」

栞さんが補足説明をしてくれる。確かに時たま法被を着たスタッフとすれ違う。往来する観光客もこれから始まる催しに期待を膨らませているようだった。

「せっかくだし何か食べて行こうよ」

「いいわね。歩きながら決めましょ」

夕食にはちょうどいい時間だ。京司から預かっている滞在費を使わせてもらうとしよう。

・・・お好み焼き、たこ焼き、フライドポテト色々あるのね。

ふと、地元で開催されていたお祭りを思い出す。中学生の時、京司が大量に食材を買い込んで消化に苦心したのだ。あの時もカグヤとどちらが多く食べられるか張り合って辛くも勝利した。

・・・今思うとホントくだらないわね。

「サキ、どうしたの?ニヤニヤして」

「え・・・嘘?笑ってた?」

虚をつかれ思わず口篭ってしまう。

「・・・一生の不覚ね」

「大丈夫?とりあえず私はお好み焼き買ってくるよ。二人は?」

「私はたこ焼きするわ」

油で揚げないタイプだった。ちょっと食べてみたい。

「私は・・・りんご飴」

栞さんは節目がちに自身の希望と主張する。

そして、可愛らしいチョイスだ。己が女子力の低さを恥じる。

「じゃあそれぞれ調達して・・・あそこで食べよっか」

優里は敷地内に仮設の休憩スペースを指し示す。

数分後、各々が買い物を済ませ仮設テントに設置されたテーブル席に集まる。

「アンタねぇ・・・」

白い泡が溢れそうになっている紙コップとその持ち主のにやけ面に溜息が出る。

「一杯だけ!」

「昨日みたいになったら置いてくから」

「ありがたきしあわせ」

・・・まぁ信じよう。でも酔い潰れたら本当に置いてく。

「あ、ついでにジュース買ってきたよ」

「・・・ありがと」

「ありがとう・・・優里さん」

差し出されたペットボトルを受け取ると優里はニコニコと微笑し着座する。

「うん・・・衣装は問題なさそうかな。特に動きづらいとかはないよ」

腕を広げ肩を回す素振りをして十全に動けることをアピールして見せる。

「良かった・・・」

栞さんはホッと息を吐いた。

「後は明日、星川さんと厨二先輩に試着して貰えば大丈夫かな」

「そうですね。間に合って良かった・・・」

「今回もお疲れ様〜」

優里は労いの気持ちと共にカップを掲げる。栞さんは安堵の表情を浮かべそれに応えた。

「衣装はいつも栞さんが作ってるの?」

公演の度にこの作業量をこなすとなると一人では大変そうだ。

「そうですね・・・主演さんのは大体」

「他のはレンタルとか外注って感じかなー」

なるほど、今回は要となる登場人物が多くそれに応じて衣装の点数も多くなったという訳か。

「今回は色々難産だったよね。脚本も何回か修正したしそれに合わせてこっちも色々変えなきゃいけなくて」

脚本は雲井さんがメインの担当で京司がその補助だったか。

「優里さんはその・・・苦労してましたよね・・・」

「うん・・・あの二人みたいに器用には切り替えられなかったな」

神妙な面持ちでカップに入ったビールを見つめる。納得のいく芝居に仕上げるまで紆余曲折あったようだ。

「花蓮さんと風浦さんは経験豊富・・・ですからね」

「厨二先輩は凄いよ。ホント」

「呼称からリスペクトを感じないわ」

優里はアハハと笑って誤魔化しビールを啜る。

「尊敬してるのは本当だよ。お芝居のことーー基礎から教えてくれたから」

優里は何処か遠くを見るように夜空を仰いだ。彼女にとって風浦さんは芝居の師匠にあたるのか。

「風浦さんはーー優里の何個か上よね。スフィアでの活動を機に知り合ったの?」

「うん。私としーちゃんの二個上だから22歳だね。私がお芝居を始めたのは高校からで卒業後に浩ちゃんからスフィアに誘われて、そこで・・・って感じかな」

そういう経緯があったのか。

雲井さんは優里の芝居に感銘を受けて劇団の立ち上げを決意した。そして、彼女や他の団員の指導役として風浦さんをスカウトしたということか。風浦さんは当時から名の通った役者だったようだがーー中々思い切ったことをしたものだ。

「浩ちゃんとしてはダメ元だったみたいだけど。『れればどこでもいい』って快諾してくれたみたい」

「ちょっとカッコいいわね・・・」

それでいて了承の癖が強い。

「まー手取り足取りっていうより見て盗めって感じだったけどね」

優里は苦笑しながらも当時を懐かしんでいるようだった。なんだかんだで風浦さんには恩義を感じているのだろう。

「星川さんは?」

「スフィアでの1回目の公演が終わった頃だったかな。練習の見学に来てくれてその日に入団って感じ」

「なるほどね。スフィアのお芝居の内容が良かったのね」

私の推測に優里は腕を組む。

「うーん。そうなのかなぁ」

どうやらしっくりきていないようだ。

「でも・・・花蓮さんが来てくれてできる演目の幅が広がったんです」

「花蓮さんは引き出しが多いんだよね。昔からやってるってのもあるんだろうけど」

賞賛しながらも優里の横顔には明確な対抗意識が宿っていた。普段は飄々としているだけに少々意外だ。

「星川さんは小さい頃からお芝居やってるの?」

「あーうん。子役やってたみたい」

優里はスマフォを操作し星川さんの出演歴を見せてくれる。私でも知っている映画やドラマの作品名がいくつか列記されていた。ただ、よく見るとある時期ーー彼女が中学・高校生の頃かーーが空白期間となっている。空白期間の後は演劇作品への参加が中心だ。子役から舞台役者へ転向したということか。

「毎回役の理解が凄く深いしモノにするのも早いんだよね。私と違って誰とでも合わせられるし・・・発声も綺麗だしアドリブとかも上手いし・・・!」

星川さんの美点をあげつらいながら声には微かなジェラシーが滲み出ていた。自分にない長所を持っている同世代の役者にライバル意識を持っているのだろう。

優里はビールを一気に呷った。

「・・・もっと上手くなりたい」

若き主演女優は拗ねた子供のような表情で項垂れた。



「今日は有難うございました」

「いえ・・・私も楽しかったです」

一通り八坂神社の周辺を見て回り、栞さんの家に戻ってきた。借りていた着物の返却と裁縫道具の片付けを手伝うためだ。

「まさかおみくじで引き直しするなんてね・・・」

「ふふ・・・優里さんらしいです」

栞さんと顔を見合わせ笑い合う。

『はい、大吉。これで相殺!』

せっかくだからと引いたおみくじで凶を引いた優里だったが、速攻で追加の百円を投入し大吉を引き当てた。ドヤ顔で胸を張っていたが作法としてはNGである。

「凶は私が貰っておくわ」

「それは・・・どうなんでしょう」

「まぁ・・・許してもらいましょ」

「そうですね」

栞さんは微笑を返してくれる。お互いに先程までの高揚感が残っているようだった。

「そろそろお暇しますね。迷惑でなければ親御さんに一言挨拶させてください」

その後、酔い覚ましに外で待っている優里と合流するとしよう。

「あ・・・そうですね」

そう言って栞さんは一度俯き、顔を上げた。

「謝らなければいけないことが・・・あるんです」

どこか意を決したという表情と声音だった。

「正直・・・京司くんから話を聞いた時は心配だったんです。どんな人が来るんだろうって・・・嫌な人だったらどうしようって・・・」

辿々しくも誤魔化さず心中を吐露する。

「けど・・・今日一日一緒に過ごしてみてそんな人じゃないって・・・・分かりました。同時に変な先入観を持っていた自分が・・・情けなくて」

メンバーの友人とはいえ見ず知らずの他人ーーそれも演劇の素人ーーと協力して仕事を完遂しなければならない。栞さんの立場からすれば警戒するのも無理からぬことだ。

「そんな・・・謝らないでください。それだけスフィアでの活動が大事ってこと・・・ですよね」

「・・・はい」

栞さんはこちらを見据え力強く頷いた。

「好きなんですね。優里の芝居が」

部外者の私への警戒はある種の防衛本能からだろう。優里の芝居に支障が出る可能性を無意識に恐れたのだ。

「優里さんは・・・私の恩人なんです」

「恩人・・・」

夕方覚えた違和感が再び去来する。友人を形容する言葉としては重いものだった。

「私・・・高校生の頃、クラスのやんちゃなグループから嫌がらせを受けてたんです」

栞さんの表情が曇る。思い出すだけで苦痛を伴うーーそんな様子だった。

「こんな性格だから、標的にし易かったのかもしれません」

「そんなの・・・」

反射的に怒りが込み上げてくる。学生であれば喧嘩の一つや二つすることもあるだろうが、一方的に嫌がらせをするというのは卑怯で卑劣な行為だ。

「正直、学校に行くのが嫌でした。辛くて仮病を使ったりもしてました」

「そう、だったんですね・・・」

「けど・・・」

瞳に力強さを湛え栞さんは言葉を紡ぐ。

「どうにか立ち直ることができたんです」

その転機はーー

「『ハムレット』・・・復讐を扱った悲劇のお芝居でした」

シェイクスピアの四代悲劇の一つだ。主人公のハムレットと宰相の息子レアティーズが互いの仇敵を討つために奔走する。

「優里さんが演じたのはレアティーズでした。不当な理由で父を殺され、姉も狂気に追いやられるーーそんな理不尽に対する怒りを誤魔化しなく演じていました」

今朝の優里の芝居を思い出す。

彼女の芝居への向き合い方は今も昔も変わっていない。

役を通して自身の感情をどこまでも愚直に、正直にーーそんな芝居だからこそ共感し心が動かされるのだ。

「私・・・その時初めて自分が不当な扱いを受けたことに気づいたんです」

理不尽に対して立ち向かうーー怒るということを優里の芝居から見出したのだろう。それがどれほどの救いだったのか、私には推し量ることすらできなかった。

「と言っても・・・ただ学校に通って優里さんのーー演劇部のお手伝いをしていただけなんですけど」

栞さんは照れくさそうに笑った。それが彼女の戦い方だったのだろう。

「・・・立派な選択だと思います」

『ハムレット』含めシェイクスピアの作品には今でも様々な解釈がなされている。単純な勧善懲悪を描いた作品とは言えない側面もあるだろう。

しかし、そんな些細なことはどうでもいい。

誰かの表現が誰かを救い、誰かの中で生き続けている。

「・・・ありがとう。サキさん」

それはとても尊いことではないだろうか。


2-2-11

「それじゃ・・・二人ともよろしく頼むよ。俺にできることがあれば連絡してくれ」

雲井さんは楽屋の戸を開け、そう言葉を残した。気持ちが折れる一歩手前でどうにか自身に喝を入れている、そんな様子だ。

「ああ、任せろ」

京司はあくまで尊大にそう応えた。

「さて・・・どうしたものか」

ドアが閉まると京司は虚空を見上げた。彼自身、明確な策がある訳ではないのだろう。

時刻は10時を回ったところだ。明日の公演に間に合わせるためには今日中に優里を見つけ出すしかない。

京都府中ーー最悪の場合、他の都道府県に移動している可能性もある。素人の私たちだけで捜索するというのは無理があった。

「警察には雲井さんから相談してもらったのよね?」

「ああ、しかし望みは薄いだろうな。捜索願を出したとして『特異行方不明者』ーー事件性が認められた場合だなーーと認定されなければ警察はすぐには動いてくれない」

他に頼るべきところといえばーー

「親御さんはーーどうなの?」

私の言葉を受け京司は渋い顔をする。

「残念だがあてにならないだろうな。優里は・・・18歳まで児童養護施設にいたんだ」

「そんな・・・」

明かされた新事実に私は狼狽することしかできなかった。優里の人柄からそんな過去があるなんて想像もしていなかった。

「詳しい事情は俺も知らんが・・・親の助力が得られないことだけは確かだな」

「・・・そうね」

・・・感傷に浸ってばかりはいられない。

そうすると手がかりはこの便箋だけか。

「誰がこの便箋ーー手紙を仕込ませたのか。昨日の最終調整の時の各人の位置どりは・・・こんな感じよね」

手持ちのメモ帳に貸スタジオの見取り図と各人の位置関係を簡単に書き起こす。

出入り口付近に荷物を固め、そこから少し奥のところで私と栞さんが見学、さらに奥のステージ上では演者陣が稽古に励んでいた。10畳より少し広いかという程度のスタジオには視界を阻むようなものはない。お互いがお互いを視界に収めている、そんな状況だ。

「物理的に荷物への距離が近いのは雨上さんとサキだが・・・」

「そうだけど・・・近いだけで犯人っていうのは安直ね」

「そうだな。それに演者陣もずっとステージにいたという訳ではない。自分の出番がない時は適宜外に出て休憩を取っていたからな」

犯行可能性という意味なら劇団関係者全員に存在する。そうなると次に考えるべきは動機だ。

「ふむ・・・あの様子からして浩二にも動機があるとは思えない。仁さんと星川さんは・・・」

「そうね・・・」

私は再び過去を回想する。


2-2-12

やあ、元気?

昨日は疲れたね。

卒業式ーーちゃんと出れて良かったよ。

一人だけ死んだ顔で出席してたと思うと笑いがーーあぁごめんったら!怒らないでよ。

良い高校生活だったんじゃないかな?

部活も充実してたし大学も決まったしーー友達も出来たじゃん。

え?別に要らないって?

そんなことないよ。

例え傷つきながらでも君自身が作った関係性はいつか君を助けてくれる。

信じられないって?

まぁそうだろうね。

演劇部の活動はこれで終わりだけどーーこの前勧誘受けてさ。

劇団スフィアだってーーあれ?なんか機嫌悪くない?

『オズの魔法使い』をコメディタッチにアレンジした脚本でさ・・・笑えるシーンも多くて結構面白そうなんだ。

う・・・予想通りではあったけど不評だね。

じゃあ見ててよ。

こういうのは得意なんだ。


2-2-13

Q『役作りで苦労したポイントはどこですか?』

A『いつも苦労してばかりです。ただ今回は・・・明治の時代背景とそこに生きる女性ーーその価値観を理解することに時間を要しました』

Q『ズバリ見所を教えてください』

A『先生と買い物に行くシーンですね。ちょっとした工夫がありまして・・・是非劇場で』

Q『本番に向けた意気込みを一言』

A『ーー』

「サキ、そろそろ行こう」

自室のある二階から優里が降りてくる。私は動画の再生を中断しPCを閉じた。

今日は貸スタジオでの稽古の日だ。リハーサル含め調整の機会は残り3回ーー最後の追い込みと言ったところか。

「動画の編集?」

「うん。ちょっとした手直しをね」

「偉い!」

背中をバシッと叩かれる・・・痛い。

「・・・誰かさんのやつは編集箇所が多くて苦労したわ」

「風浦さん?」

「アンタのことよ・・・」

くだらないやり取りをしながら優里の家を出る。

先程まで京司の意見を参考にしながらインタビュー動画の微調整していた。多弁な優里はカットを多用し要点をまとめる、独特な言い回しの風浦さんは字幕で補足を入れる、といった具合だ。

・・・それに比べると・・・やっぱり慣れてるのね。

出発の前に見直していた動画の内容を思い返す。

星川さんのインタビューに関しては編集するポイントがほとんどなかった。声のトーン、発言内容、間の取り方、表情ーー後続の編集作業を考えてかーーどれも『こちらが欲しいもの』を返してくれる。事もなげに対応できるのは子役の経験からだろうか。

ただ、一点だけ引っかかる箇所があった。

「今日も晴れたなー」

「そうね。少しは加減してほしいわ」

晴天の元で優里は気持ち良さそうに伸びをする。

「日焼け止め貸そっか?」

「自分のがあるからいいわ」

「サキさん・・・いけずやなぁ」

優里はいつも通りニコニコと笑っていた。

京都に来て今日で3日目になるのか。密度の濃い時間を過ごしたせいか実際より長く感じる。

思えば誰かとゆっくり休暇を過ごすという機会は久しぶりだ。

・・・こんなことしてていいのかしら。

罪悪感に似た感情が顔を出すのは恐らく無意識からだ。

劇団スフィアで過ごす日々は刺激的で楽しい。しかし、こうしている間にも周囲の医大生は勉学に励んでいるだろう。無論、怠惰な生徒もいるにはいるが下を見ても仕方がない。

・・・いやいや、色々お門違いね。

私も優里の真似をして背筋を伸ばし、深呼吸をした。新鮮な空気が肺を満たしたが、太陽が嫌に眩しかった。



貸スタジオでの稽古は先日同様、昼過ぎから開始された。

昨日製作した衣装の試着はつつがなく終了し雨上さんは安心していた。以降は通し稽古とその中で気になった箇所の調整となり私達は見学に回る。

劇団スフィアによる『こころ』は1時間半の演目となる。アマチュア作品の中では長い方だが退屈を覚えることはなかった。理由を素人なりに考えてみるに静役の星川さんがバランサーを担っているのだ。全体的に暗いトーンで進行するストーリーの随所で内向的な少女のーーまた、どこか浮世離れしていて聡明な奥さんの愛らしさを表現している。

「・・・優里」

「・・・ごめん、花蓮さん」

一方で、優里の芝居からはこうした機微を感じることはできなかった。端的に言ってしまえばずっと同じーー暗いトーンで芝居が進むのだ。

この明暗の違いは星川さんと優里の共演のシーンでより浮き彫りになる。

「『私』はまだ学生でしかない。大人の気遣いに対して気の利いた反応ができなくとも間違いではないと思うが」

「それと『ただ暗い』は違うでしょ。稽古の初日から何回も言ってる」

場を取りなそうとする京司に星川さんは即座に反論する。四度目のリテイクということもあってかスタジオ内の空気は緊張していた。

「ふむ」

京司は顎に手を当て考える素振りを見せた。

「雨上さんとサキはどう思う?」

「え・・・私達ですか?」

唐突に意見を求められ栞さんは困惑しているようだった。

「2人がこの中で最も観客の感覚に近いだろうからな」

確かにそうだ。今議論しているポイントが観客の目線で気になる箇所なのか意見が欲しい、ということか。

「そうね・・・」

この局面でどう立ち回るのが最適なのだろう。

昨日、自認していた通りこうした感情の切り替えは優里にとっては苦手な分野なのだろう。

公演まで残り3日しかない。克服できるか分からない短所を是正することに時間を費やすというのは効率的とは言い難かった。

・・・最適、効率的か。

そうじゃない、気がする。

「・・・優里の演技を見直した方が良いと思う」

「二人の温度差が・・・やっぱり気になります」

私と栞さんの発言が重なる。思考の過程は異なるのだろうが結論は同じだった。

「ふむ・・・」

京司は口元に手を当て今日の方針について黙考する。団長の雲井さんが仕事で不在の今、現場の指揮は彼に委ねられている。

「一旦、他のシーンの振り返りに移り、その後にこのシーンをやり直す。夕方になれば浩二も来るからな」

脚本を担当した雲井さんであれば適切なアドバイスができるかもしれない。

「間に合う保証はある?私はそんなに残れないけど」

星川さんは腕時計に目を遣り端的に尋ねる。他の劇団での予定もあるのだろう。

京司は視線を移す。

「うん・・・花蓮さん。悪いけどちょっと待っててーー絶対『良い』って言わせるから」



ビニール袋に入ったお弁当や惣菜の重さを感じながら階段を昇る。稽古は延長を受け、私と栞さんで夕食の調達に出かけちょうど返ってきたところだった。

貸スタジオは四条駅付近の雑居ビルーーその2階にあった。立地こそ良いものの建物の古さや設備の少なさから今一つ人気はないようである。もっとも、少人数で構成されている劇団スフィアにとってはさしたる問題ではなかった。

「優里・・・苦戦してるのかしら」

京司が示した段取り通り稽古は進行し、一通りシーン毎の修正点の確認と是正はできた。

問題はやはり優里と星川さんの掛け合いの部分だ。

「優里さんなら・・・大丈夫・・・」

隣を歩く栞さんが私の独白に反応する。

「信頼してるんですね」

「そう・・・ですね」

節目がちに頷き言葉を続けた。

「それに失敗しても・・・良いんだと思います」

「失敗しても良い・・・」

どういう意味だろうか?

しかし、彼女の言葉に何らかの気づきを得たような感覚を覚える。それと同時に自分の中でのモヤモヤが言語化されつつある、気がした。

「着きましたね・・・」

ドアを開けると『私』の台詞が耳を打つ。

「ーー今奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は今の通りで生きていられるでしょうか」

貸スタジオのステージで優里と星川さんは共演シーンをリテイクしていた。優里の芝居は都度都度ニュアンスを変えているようだ。不器用な少年、利口な少年、厭世感に苛まれつつある少年ーー様々な顔が見えた。

ただーー

「・・・今日は止めにしましょう」

「そんな・・・まだ!」

稽古の打ち止めを宣言する星川さんに優里は食らいつく。

「声ーー枯れてる」

「ーーッ」

それを静止しプラスチックの容器ーー喉ケアのためのスプレーだろうかーーを放る。

確かに優里の声は少し声が枯れ気味だった。これ以上の無理は禁物だろう。

「一度休憩だ。それで・・・今日はーー今更だけど役の研究をしよう」

仕事を終えて駆けつけた雲井さんが団長として今後の方針を示す。

「間に合わなさそうだったら従来通りのやり方で本番に臨もう。星川さん、仁、優里ーーそれでいいかな?」

「分かりました」

星川さんは毅然と風浦さんは無言のまま首肯を返す。

「・・・はい」

優里は不承不承といった様子だったーー無理もない。

「それじゃあ飯にしよう。ちょうど調達班が帰ってきたみたいだし」

雲井さんは声音を明るいものへ切り替えるとドアの付近で立ち尽くす私たちを手招きした。

「腹が減った!」

京司のお気楽な大声がシリアスな空気を完全にぶち壊す。

「ええと・・・」

私は各人のオーダーを思い起こし品目を手渡しする。

雲井さんは普通のお弁当、京司はカツカレー、星川さんはパワーサラダーー何となく各人の性格が出ている気がする。

「・・・助かる」

風浦さんは一玉の林檎ーーを受け取って徐に宙に投げ、キャッチする。キレのある一連の所作に感心しかけたが、この動きに何か意味があるのだろうか。

「まだ、青いな」

そして、果実を齧り感想を一言ーースタジオから去っていく。

「ふむ・・・さすが仁さんだ」

「え?どういうこと!?」

京司は感服したとばかりに腕組みしている。

「サキよ・・・じきに理解わかる」

わざとらしく嘆息するや否や諭すように語りかけてくるーー殴りたい。

・・・一先ず私の持分は配り終えた。後はーー

「これ、優里さんの分です・・・」

「ありがと・・・」

優里はトボトボと歩くと崩れるように腰を下ろした。

自分の芝居の出来栄えに落胆していることは明らかだった。何か声をかけた方が良いだろうか。

気落ちしている彼女の隣に無言のまま膝を折ったのはーー星川さんだ。

「サキさん、栞さん。買い出しお疲れ様」

雲井さんは人の良い微笑と共に私たちへ夕食を摂るよう促す。

「まぁ気になるだろうけど・・・多分、大丈夫だよ」

そう呟く彼の視線の先には優里と星川さんがいた。

「『良い』って言わせるんじゃなかった?」

「・・・ごめん」

両者は肩を並べているものの視線は合わせず、独り言の延長のような感覚で言葉を交わしている。

「この演目のテーマは決して明るいものじゃない。けど、演者がテーマに囚われるのはナンセンス」

「囚われてない。『私』の生い立ちと先生への興味を踏まえて表現したつもり」

「まだ、表層を撫でているだけに感じた。仮に私との釣り合いが取れても今度は後半の演技のディティールと整合しない」

「それはそう・・・何か、しっくりこない」

夕食を摂りながら淡々と議論が進行していく。なんだかレベルの高い話になってきた。

「優里の場合、設定や時代背景よりも役の感情を意識した方が取り組み易いんじゃないか?」

雲井さんが分かり易い言葉で論点を整理してくれる。同時にこちらにアイコンタクトを飛ばす。議論に加わってくれ、ということだろう。

私も自分なりに考えてみるとしよう。

大まかな筋はこうだ。

明治末期を生きる書生である『私』は先生と出会い、彼の家に出入りするようになる。先生は教養に富み、独自の持論や思想を度々『私』の前に開陳するが、世に出て何かを成そうとは考えていないようだった。代わりにすることといえば毎月、友人の墓参りに行くというのみで、日々奥さんと静かな生活を送っている。先生の行動や考えに疑問が募る中、『私』は先生からーー奥さんと共にーー家の留守番を頼まれる。

「この辺りを書いてくれたのは京司だよな。どんなシーンをイメージしてた?」

『私』は先生の過去を知りたがっていた。しかし、奥さんに問いを投げるも望む答えは返ってこない。奥さんもまた先生の平時の態度には疑問を抱えていた。

「先生の過去に関わるからシリアスなシーンには違いないが・・・」

『私』は何故先生のことを知りたがるのだろうか?それは多分ーー憧れからだ。俗世との関わりを断つ孤高な存在への興味と関心からだ。

「結局は井戸端会議だな!噂話というのは古今東西楽しいものだろ?」

「期待と興奮・・・それをお芝居に上手く活かせれば」

でも本当にそれだけだろうか?

『私』は先生のことが好きだったのだ。しかし、日々の交流の中では彼の芯の部分に迫ることができなかった。欲しいもの、知りたい事は確かにあるのにーー掴めない。

私ーー笹木沙妃ーーにとって先生とは誰だろうか?

『不安だったね。もう、大丈夫だよ』

あぁ、そうかーー

「私ーー焦ってたんだ」

ピタリと心の裡でピースが嵌まる感覚を覚える。

「ふむ・・・焦りか」

「・・・なるほどね」

私の独白に京司と雲井さんが興味を示す。

「焦って空回りするという状況はともすれば滑稽にも映る。役に矛盾なくシーンのテイストを明るくできるかも」

「・・・あ、いや・・・半分独り言というか自分の事というか・・・」

それとなくした発言が拾われ真剣に議論されているーー中々にくすぐったい。

「優里ーーどうなの?」

星川さんは優里を見据え挑発するように問いかける。

「うん・・・大丈夫」

視線と言葉を真っ向から受け、優里は応える。

「その感情なら知ってるから」

瞳は星川さんを捉えていた。



「じゃあ、先に出てるわ」

「うん。すぐに行くから待ってて」

掃除と後片付けの当番となっている優里を外で待つことにする。時刻は既に22時を回っていた。

「・・・どうにかまとまって良かったわ」

夕食後の優里の芝居は見違えるほどに変わった。私がーー誰もが覚える劣等感や焦燥感が『私』を通して伝わってくる。そこまで芝居の質を高められたのはーー優里自身が星川さんに対してそうした感情を抱えていたからだろう。

「ありがとね、サキ」

優里は私に笑って見せた。己が未熟から生まれた感情に向き合う彼女が少しだけ大人びて映った。私も未熟な自分を好きになれる日が来るだろうか。

「どういたしまして」

靴を履き替えスタジオを出ると温い夜気が頬を撫でた。

本日の稽古はこれで解散である。ほとんど見学していただけだが長い1日だった。

今日はグループで一つのものを作り上げることの難しさを実感した。主義主張や実力、目指すものは人それぞれーーそんな中で結論を出さなければならない。

・・・雲井さんは落ち着いてたわね。

思い返すと彼は状況を俯瞰して捉え、さりげなく議論を誘導していた。社会人ともなるとこの程度の衝突には慣れるものなのだろうか。

思索に耽りながら階段を降りると鼓膜が人の声を捉えた。

「えぇ・・・急にすみません。来週は参加しますので」

星川さんだった。スマフォを耳にあて何やら謝罪の言葉を口にしている。

「あ・・・」

「えっと・・・」

通話を切った彼女とちょうど目が合う。向こうもバツが悪そうだった。

「笹木さん、今日はお疲れ様。面倒をかけてごめんなさいね」

困惑したのも一瞬、星川さんは笑顔を作った。

「いえ・・・少しでもお役に立てたなら良かったです」

「そう言ってくれると助かるわ」

ニコリと笑う彼女の顔が今朝の動画の中のそれと重なる。

「他の劇団の活動休んだんですか?」

「ええ、それがどうしたの?」

「その・・・少し意外だなと思って」

星川さんにとって劇団スフィアは表現活動の場の一つに過ぎない。そう思っていたのだが。

「笹木さん」

鋭く怜悧な声色ーー笑顔の仮面が剥がれる。

「私と優里の芝居どっちが良かった?」

問いかけの意味は分からない。しかし、彼女の真に迫る語気と表情が私の疑問を押し留めた。

星川さんの技術の高さは素人の私にも理解できる。自身の役への理解はもちろんのこと演目全体を俯瞰し商品として完成させることへの意識も高い。こうした能力は興行の世界では重宝されるのだろう。

でもーー

「好きなのはーー優里の芝居です」

それが私の偽らざる意見だった。優里と初めて会ったその日から私は彼女の芝居に魅せられていた。彼女が笑えば私も嬉しい、彼女が泣けば私も悲しいーー彼女に共鳴するように私の心が動くのだ。多分、これは理屈じゃない。

「そう」

星川さんは拳を握り俯く。

「ありがとう。正直に答えてくれて」

私に向けて謝意を示し、視線を切る。

「今日の最後のテイクーーあそこだけは良かった」

横顔に表出するのは悔しさ、それとーー

「じゃあ、また明日」

そう言って彼女は再び笑顔の仮面を纏い、踵を返す。整然と歩を進める彼女の後ろ姿はどこか清高なものだった。

私は何故かその姿から目が離せなかった。優里が星川さんに抱く感情、それと同種のものを彼女も抱えているのかもしれない。

「面倒をかけるな。笹木さん」

「ひゃあ!?」

不意に背後から話しかけられ素っ頓狂な声が出てしまう。

「すまん・・・そんなに驚くとは」

振り向くと風浦さんの姿があった。幽鬼のように佇む彼の存在感は夜の闇の中で一際映えた。

「忘れ物をしてしまってな・・・盗み聞きの形になってしまった」

なるほど、そういうことだったのか。私たち2人で階段を塞いでしまっていたようだ。

「・・・星川は旭日に執着している。彼女はああいう芝居をやりたくてもできなかったからな」

星川さんが溶け込んだ雑踏に目を向け風浦さんは独り言のように呟く。

私の中で様々な情報が交錯する。子役から空白期間を経て舞台役者へ転向、同世代の役者への執心、別れ際に見せた表情ーーカメラ越しに覚えた違和感の答えを見た気がした。

Q『本番に向けた意気込みを一言』

A『楽しめればいいな、と思っています』

『楽しむ』ーーそれは何に対しての言葉だったのだろう。芝居そのものか、それとも同世代のライバルとの切磋だろうか。笑顔の仮面を外した彼女は欲しいものを目の前にした子供のようだった。彼女もまた理想と現実の間でもがく等身大の少女なのかもしれない。

「一方で旭日は星川に比べ経験や技量で劣る。互いに学ぶべきところはあるだろう」

風浦さんの声には静かな、それでいて確かな期待の念が滲んでいた。

「喋りすぎたか。ではな」

「はい・・・お疲れ様です」

別れの言葉と共に風浦さんは階段に足をかける。階段の中腹で彼は一度だけ夜空を見上げた。

「あれ?風浦さんだ。どうしたの?」

「・・・忘れ物だ」

「やっぱり・・・このスマフォ、風浦さんのでしょ」

孤高の舞台俳優は月を見つめ微笑を返した。


2-2-14

「やっぱり、あの二人に動機があるとは思えない」

星川さんは優里と友好的な関係を築いているとは言い難い。しかし、それは純粋な対抗意識からのものだ。彼女がライバルを失脚させて満足するとは思えない。

風浦さんも言葉は少ないながら優里の成長を楽しみにしているようだった。数年前から目をかけていた後輩へ精神的な負荷をかけることに合理性があるとは思えない。

「俺の目から見てもそうだな・・・っと」

京司は私の見解に同意を示しつつスマフォをスクロールしていた。

「これを見てくれ」

何度か画面をタップし画像ファイルを開く。

「色紙・・・寄せ書き?」

中央のシンボルを取り囲むように数々のメッセージと氏名が列記されていた。

「ああ、少し前に世話になっている劇団の世代交代があってな。俺たちからも気持ちとして記念品とメッセージを書いた色紙を贈ったんだ」

京司の意図を察する。私は画面に表示された色紙とテーブルの上の便箋を比較した。

「筆跡は・・・誰とも似てないわね」

「そうだな」

徐々に手詰まり感が出てきた。

京司は腕を組み考え込んでいる。彼の中で様々な可能性を検証しているのだろうが即座に答えは出なかった。

私も思考を巡らせ現状で分かっていることを整理する。

①今朝ーー8時頃ーー私が起きた時には優里は家にいなかった。

②優里の部屋には『さよなら』と書かれた1枚の便箋があるのみだった。

③便箋は複数枚からなる手紙の一部のようだ。

④劇団スフィアのメンバーは誰もが優里に手紙を渡すあるいは荷物に忍ばせる機会があった。

⑤便箋の筆跡と優里含む劇団スフィアのメンバーのそれは類似しない。

ここからは推論になるが、今の優里の精神状態は平時のものではない。周囲に相談せず演劇のリハーサルを欠席、未だ連絡がつかない。そうなった原因は手紙の内容が彼女にとってショッキングなものだったからだ。ここまでは良い。

問題は手紙がいつ・誰によって渡されたか、だ。

「・・・ダメだ」

考えれば考えるほど思考の坩堝るつぼにはまる。

昨日、優里と私は行動を共にしていた。しかし、手紙を優里に渡す機会が全くなかったかといえば否だ。

また、そんなことをする動機がある人物に見当も付かなければ物的証拠も出てこない。優里に手紙を渡した人物がまるで絞れなかった。

『いつ?』も『誰?』も明確な根拠のある答えに辿りつかなかった。

・・・優里。

悔しさから思わず歯噛みする。

目の前に立ちはだかる謎の前に私はなす術がなかった。

『・・・サキって優しいよね』

ふと、浮かんできたのは優里と過ごした日々だった。

『いつかこんなところでやれたらいいな』

『・・・もっと上手くなりたい』

楽天家でちょっとだらしなくてーーでもお芝居にはどこまでも直向きで。

『ありがとね、サキ』

私はそんな彼女のーー友達の力になりたい。

「多分・・・問題設定が間違ってる」

まだ、考えていないことがあるはずだ。

私たちが考えるべきは『手紙の主は誰か?』ということではなく『優里がどこにいるか?』だ。

「そうだな。しかし、場所を特定するというのは簡単なことじゃない。だから俺たちは特定できる公算が高い手紙の主に焦点を当ててきたはずだ」

京司の言うことはもっともだ。これはある意味、階段を一段飛ばしで答えに辿り着こうとする荒技である。

「だからーーこれは賭けよ」

けど、ただのギャンブルをするつもりは毛頭ない。

私にはとある仮説があった。その精度を上げることができれば優里の居場所には当たりがつけられる。

「優里の家に行きましょう」

手がかりはそこにある。

それとーーあの人に連絡を取りたい。少し気になることがあったから。


2-2-15

久しぶり。

大学生活はどう?結構充実してるんじゃない?

え・・・なんでそう思うかって?

いや、まぁこうして話をすることも減ってきたからさ。

寂しくないと言えば嘘になるよ。

けど・・・これで良いんだと思う。

あぁ、ごめんごめん。辛気臭くなっちゃったね。

本題に入ろうか。

台本は読んだよ。

この演目のテーマは多分ーー君の考える通りだ。

『私』とKの一人二役はちょっと荷が重いだろうね。

特に、君がKを演じることはできないよ。

じゃあ、こうしようかーー


2-2-16

「サキ、お疲れ様」

暖色光の間接照明が灯るリビングに落ち着きを払った声がこだまする。上の階での自主練習が終わったのだろうーー時刻は23時を回っていた。

「あ、うん。お疲れ」

私はというとタブレットと向き合い先生からの課題に取り組んでいた。

「目、悪くするよ」

「もう悪くなる余地はないわね」

「あ、メガネしてる!」

優里は目を輝かせると鼻歌交じりに私の後ろへ回った。

「練習はもういいの?」

「うん、完璧〜」

「良かったわ・・・優里?人の髪で遊ばないでくれる?」

労いの言葉を口にするのも束の間、背後で私の髪を弄ぶ優里へ苦言する。

「せっかく髪下ろしてるし、メガネかけてるし・・・イメチェンイメチェン」

そういう話はしてないんだけど。

「ポニーテールなんてどうでしょう?」

「却下!」

「じゃあ三つ編みにするね」

「・・・もう勝手にして」

髪を弄られる違和感をよそに私は作業を進める。

まるで聞く耳を持ちやしない。

「妹がいたらこんな感じかなーなんて」

「こんな騒々しい姉はごめんね」

依然、軽口を叩く優里に悪態をつく。直ぐに反論されるかと思いきや沈黙が返るだけだった。

「・・・騒々しい、か・・・」

背後にいる彼女の表情は伺えない。

「・・・ごめん。言い過ぎたかも」

「・・・あ、ああごめん。集中してた」

優里は思い出したように陽気に笑った。私は密かに胸を撫で下ろす。

つい、言い過ぎてしまう。私の悪い癖だ。

「ねぇ、サキ」

私の心中を察したのか彼女の語り口はーーそれこそ妹を慰める姉のようにーー穏やかなものだった。

「サキには私ってどう映ってる?」

「えーっと」

問いかけは意外なものだった。

「難しく考えなくて大丈夫だよ。思いつきで良いから」

諭すような優里の声音ーーどこか心地よかった。

「マイペースで」

「うん」

「酒癖が悪くて」

「うん」

「脳天気だけど」

「うん」

「明るくて」

「うん」

「お芝居にはストイックで」

「うん」

「・・・なんて言うか・・・その・・・」

「うん」

「あーなしなし!何!?何なの!?この雰囲気!」

思い出したように上昇する体温が私に正気を取り戻させた。

ーーう、なんか恥ずかしいこと言っちゃった・・・

込み上げる羞恥心に頭を抱えた。

「アッハッハ!ごめんごめん」

優里の謝罪混じりの爆笑がリビングを満たす。

「・・・でも、ありがとね」

「ア、アンタも何か言いなさいよ。フェアじゃない・・・」

仕返しーーと同時に私は平時の心持ちを取り戻したかった。

「私にとってのサキは・・・」

「勉強熱心で」

「まぁそうね」

「真面目で」

「もっと褒めていいわよ」

「可愛いくて」

「・・・う」

「とっても優しい子」

「・・・な」

「君に会えて、良かった」

「な、ななな何言ってんの!?」

下がりかけた体温が再び上昇し臨界点を迎える。

「サキ〜照れるなよ〜」

ケラケラと笑う優里に背後からハグされる。

「照れてない!もう寝る!」

拘束を振り解きソファに突っ伏す。

「毎度のことだけど一緒に寝ようよ。ソファ、痛いでしょ」

「結構!あーソファ快適だわー」

掛け布団に包まりながら優里の言葉を反芻する。

青臭い台詞ーーだけど、だからこそ、その言葉は本物だと分かった。彼女は自分の感情に嘘はつかないから。

「・・・本番、頑張りなさいよ。見てるから」

「うん。ありがと」

私もそんな彼女に伝えたーー本当の気持ちを。


2-2-17

京都市を離れると何故だか寂寞が胸に満ちた。青空に浮かぶ積乱雲が影を作り私を覆う。

「・・・優里」

京都府福知山市の公営団地ーー昔、優里が住んでいた場所ーーの近所にある公園に彼女はいた。

「サキ・・・」

ブランコに腰をかける優里は力なく笑った。両手で折りたたみ式の携帯電話を祈るように握っている。

「怒ってる、よね?」

怯えたように私の顔色を伺う彼女からはいつもの快活さは見つけられなかった。

「怒ってないわ」

穏やかに語りかけるも彼女は俯くだけだった。

「隣、いい?」

「うん・・・」

了承を得てからもう片方のブランコに座る。錆びついた金属部がキィと軋んだ。

私は京司と共に優里の家に戻りいくつかの手がかりを見つけた。それらによって私の突飛な仮説は真実味を帯びていく。この公営団地の住所は優里のいた養護施設の所長に直談判し教えてもらった。

これまでの経緯を思い起こしながら、呆然と何の意味も成さない空の模様を眺める。

「聞きたいこと・・・あるよね?」

声音には覇気がなかった。

「話したくないなら・・・別にいいわ」

私は再び空を眺めた。優里は携帯電話を持ったまま俯いている。

どれほどそうしていただろうか。温い夏の風と共に重い沈黙が流れた。

「私ね」

俯いたまま優里が口火を切る。どこか独白めいていた語り口だった。

「お兄ちゃんがいるんだ」

携帯電話を握る指に力がこもる。

「血は繋がってないんだけど・・・兄貴分って感じかな。いつも冗談ばっかり言ってさ。お節介焼きで強引で・・・私は振り回されてばっかりだったよ」

薄い微笑と共に優里は過去を懐かしんだ。

「高校生になって急に演劇部に入って・・・成り行きで私も入ることになって・・・一緒にお芝居して・・・」

それは間違いなく優里にとって人生の転機だったのだろう。彼女の役者としてのルーツには彼が密接に関わっていた。

「でも、おかしいよね」

悲痛な声音が私の芯の部分に触れる。とてもーー苦しかった。

「そんな人、実在しないのに」

優里は壊れたように笑った。

彼女の自室の書類箱には病院が発行した診断書が保管されていた。解離性同一障害ーー解離症の中では特に重篤なものだ。多重人格、といえばポピュラーに聞こえるが症例が少なく明確な治療法が確立しているとは言い難い。

「お兄さんーーなんて名前なの?」

結衣ゆいーー結ぶに衣で結衣」

「そう、良い名前ね」

優里は今、非常に不安定な状態にある。

お兄さんーー結衣はもういない。片方の人格が消失する『統合』と呼ばれる現象が起きているからだ。

「私ーー婚外子なんだよね」

喉を震わせ優里は自身の過去を語った。

「父親は東京で会社やってる男でさ。お母さんは・・・騙されちゃったみたい。結局、見放されて・・・頼れる人もいなくて・・・ここに流れ着いた」

折りたたみ式の携帯電話を握る指に力が篭る。

「お母さんは普段は凄く明るくて優しかった。でも、私の顔を見ると思い出すんだって・・・それで・・・」

優里の過去に暗いものがあるということは予想をできていた。しかし、それは想像以上に壮絶なものであり今も彼女の未来に暗い影を落としているようだ。

「この携帯電話、お母さんとの連絡手段だったんだ。ある日、全然帰ってこなくて・・・コールするんだけど出てくれなくてさ」

その日、優里の母親は姿を消したのだろう。決して許されることではないが彼女の心も限界が近かったのかもしれない。

そしてーー

「その時、電話をくれたのが結衣だった」

結衣が生まれた。

「結衣は私と違って明るいやつだった。いつも意味もなく笑ってて、頼んでもないのに面白い話をしてくれた」

解離性同一障害の典型的な症状だった。幼少期の心的外傷がきっかけとなり『解離』が発生、交代人格が生まれる。交代人格は自身の防衛本能に深く根ざしているため、補完的な性格を形成することが多い。

「私が今日までやってこれたのは結衣のおかげなんだ」

それは謙遜でも世辞でもなく紛れもない事実なのだろう。優里と結衣はお互いに欠落した感情を補い合うことで芝居に取り組んできたのだ。喜びと楽しさは結衣が、怒りと哀しみは優里がそれぞれ交代で演じていた。

そして今回の演目ではーー

「『私』は優里が、Kは結衣が演じていたのね」

私の推測に彼女は力なく頷いた。一人二役かと思われた今回の配役はその実、二人二役だったのだ。

「この演目のテーマは『別れ』だから」

Kは自死という形で先生に別れを告げた。一方で『私』は先生に別れを告げられる立場にある。『別れ』というテーマを軸に置くと正に対照的な役柄だ。

「私には別れを告げられる気持ちは分かっても、その逆は分からなかった」

「優里・・・」

自身の感情に向き合い芝居に昇華させる。私は優里をそう評したが、簡単なことではなかったのだ。彼女は演じるために自身の傷に向き合い乗り越えてきた。

それができたのはきっと結衣がいたからだ。

「でも・・・もう結衣はいないんだよね」

残された手紙は結衣からのものだ。筆跡は稽古部屋に散乱していたメモ付きの台本から確認できた。

「ダメなんだ・・・私・・・結衣がいないと・・・」

弱々しく、何かに縋るように優里は頭を垂れた。

凄惨な幼少期から今に至るまで心の支えであった結衣の消失ーー優里の喪失感は計り知れないものだ。

ーー同じだ、あの時と

『サキーー』

私の脳裏に幼馴染の姿がフラッシュバックする。悲壮と絶望に満ちたグチャグチャな泣き顔ーー大事な人と自身の夢を同時に喪おうとしていた。

『私・・・もうーー』

その先は聞きたくなかったーー言わせたくなった。

だってーー

「ねぇ、優里」

私は彼女の前に膝をついた。

「私、あなたのお芝居ーー好きよ」

俯く友人に私の正直な気持ちを伝える。

「今のアンタがあるのは結衣のおかげーーそれは間違いないと思う。でも、本当にそれだけ?」

携帯電話を握る優里の手を取る。お互いの熱が身体を伝うのが分かった。

「思い出して」

南座で目標を語ったのは?星川さんに対抗意識を燃やしたのは?『私』の役に真摯に取り組んでいたのは?

優里は顔を上げる。今にも泣き出しそうで崩れ落ちてしまいそうな表情ーーそれでも私と向き合ってくれた。

「あなたよ、優里」

優里の人生という舞台で私はただの観客にすぎない。彼女を支えたわけでも、教え導いたわけでも、切磋琢磨したわけでもない。

だけどーーだからこそ伝えたかった。

「私はそんな優里がーー優里のお芝居が好き」

「サキーー」

優里の心は過去と現在の間で揺れているようだった。結衣と過ごした暗い過去、その先で得た現在の仲間と夢、結衣との別れーー彼女は再び岐路に立たされている。

結衣の残した『さよなら』をどう解釈するかは私には決められない。

ただ、私は信じたかった。優里が別れを乗り越え再起できることを。そして、結衣もまた同じ想いを持っていたことを。

どこまでも続く群青の元を一迅の風が吹いた。雲の切間から覗く陽の光が私たちを照らす。

「・・・随分、重めのファンだね」

優里はうわずった声でーーそれでもーー冗談めかして笑った。

舞台は整った。役者も揃った。でも、台本はないみたい。

ーーアンタはどうなりたい?どうしたい?

舞台に立つ貴女は何者にもなれるーーどんな願いも叶えられる。

「当たり前でしょ?アンターー主演なんだから」

期待に応えてよね、私は優里にーー未来の主演女優に微笑を返した。

「ちゃんと見ててね」

その言葉は私とーー彼女の中の彼に贈られた。


2-2-18

拝啓 旭日優里様

秋暑の候いかがお過ごしでしょうか?

ーーなんてね。

今日は手紙を書いてみたよ。いつもの携帯の録音じゃちょっと味気ないと思ってね。

えーと何から書いたものか・・・優柔不断でごめん。

先ずは君に感謝を伝えたい。

君と過ごす日々はとても楽しかった。

色んなことを話したよね。

映画とか小説の感想とか気になるクラスメイトの話とかお芝居の方針とか。

君とはいつも意見が対立していたよね。まぁある意味当たり前なんだけど。

本当に楽しかった。幸せだった。

不思議だよね。僕は君を補完するための存在に過ぎないのに。

ありがとう。優里。

もう一つはーーお別れだ。

昔に比べて君はとても明るく、強くなったと思う。

8割くらい僕のおかげなんだから感謝してね。

いや、これは冗談だけどさ。

君と、君の周りの友達のおかげだよ。

日に日に僕と君の境界がなくなってきている。

『統合』が近いみたいだ。

でも、悲しくはないよ。

僕は君の中で生き続けるから。

そして、信じてる。

君が僕とーー僕の感情と共に生き続けてくれることを。

ありがとう。優里。

さよなら。


2-2-19

「以上ーー発表を終わります」

事前に決めた通りの進行をこなせた事に安堵を覚える。

「はい。ご苦労様」

落ち着きを払った声がイヤホンを通して届く。

私はテレビ会議のアプリを通じて約1週間ぶりに先生と会話していた。先生からの課題への回答とフィードバックをもらうためだ。

「資料とプレゼンの振り返りの前にーー今回の課題の意図はなんだと思う?」

先生は悠然と私に問いを投げた。簡単に答えを与えないーーそれが先生の指導方針だ。

「そうですね・・・」

課題の内容は『任意の精神病について平易な言葉で説明する』だった。

私は暫し黙考しタブレットの画面越しに答えを返す。

「実際の患者さんを想定してできるだけ平易な言葉で説明できるか。そして実際に言葉にして伝えられるか、でしょうか」

現場で活躍するためには難しい医学書の内容を理解するだけでは足りない。症状や治療法を患者さんに説明し理解してもらうためのコミュニケーション能力は必要不可欠だ。

「そうだね。それもあるけどーーあれ?今どこにいるの?」

「え・・・」

「いや、自宅にしては随分と殺風景だと思ってね。会議室を借りたのかな?」

カメラオンで会話をしているため部屋の背景が映ったのだろう。

「・・・はい。コワーキングスペースを利用しています。実はーー」

これまでの経緯を先生に説明した。

「・・・ふふ。とんだ災難だったね」

先生は肩を震わせ笑いを堪えていた。恥ずかしい。

「君は優秀だけど偶にとんでもないポカをするね」

「耳が痛いです・・・」

この人の前で醜態を晒すというのはやはり堪えた。ただ、私は一昨日の出来事について先生の意見を聞きたかった。

「しかし・・・旭日さんか。大変な思いをしたみたいだね」

先生の顔には憐憫の情が表れていた。

「私がしたことは間違いだったんでしょうか・・・」

今考えると私の行動は相当のリスクを孕んでいた。『統合』が行われた直後の不安定な患者に対し素人が出るべきではなかったかもしれない。

「君はどう考えているの?」

やはり先生は私に問いを投げた。

私は暫しの黙考の後に口を開く。

「・・・間違いじゃなかったと思います」

昨日見た景色を思い起こす。煌びやかな舞台の上で自由に自身の感情を表現する役者ーー私はその姿を一生忘れることはないだろう。

「そうだね」

先生は微笑と共に未熟な私を肯定してくれた。

「君も知っての通り精神病の治療に正解はない。DID(解離性同一障害)のような重篤なものは特にね」

先生は穏やかな声音で私を諭した。

「『統合』は長らく治療のゴールと捉えられていたがこれも必ずしも正解ではない。『統合』の後のケアが行き届かず精神の不調を引き起こしたケースも存在する」

この時、私は先生の課題の意図に気づく。

「重要なのは患者のパーソナリティや他者との関係性、生活環境に応じた治療方法を提案することだ。知識はその為の手段でしかない」

そこに先生の医者としての矜持があるように思われた。

「旭日さんの境遇と君との関係性を踏まえると私は君の対応に瑕疵があったとは思わない。君は友人として彼女の快復に貢献した」

先生は再び微笑を浮かべ賛辞を贈ってくれた。

「君がどんな医者になるのか、ますます楽しみになったよ」

「・・・ありがとうございます」

先生の暖かさに胸が一杯になった。

私は少しずつだけど目標に、夢に近づいているーーそう実感できたから。



京都駅構内にあるコワーキングスペースを出ると生暖かい空気が肌を撫でた。

新幹線の出発時刻まで後1時間はある。お土産でも見ていこうか。

昨夜、警察から私の財布が見つかったと連絡があった。当初、京司と交わした『公演の準備を手伝う』という取引は完了している。私はこの街を出ることにした。

バッグの中でスマフォが振動する。

「・・・はい」

「あぁ、サキさん。今大丈夫だった?」

電話の主は雲井さんだった。

「優里からサキさんが実家に帰ったって聞いて・・・最後にお礼が言いたくて」

「そんな・・・お忙しいところすみません」

劇団スフィアのメンバーには今朝グループチャットで簡単な挨拶を送った。直接挨拶しなかったのは公演二日目を控えたメンバーの手を煩わせることに気が引けたためだ。

「今は午前の部と午後の部の中休みだから大丈夫だよ」

雲井さんは柔らかな口調で応えてくれる。本当に優しい人だ。

「サキさんのおかげで昨日今日とこうして公演できている。何よりーー優里が立ち直れた。本当にありがとう」

「私は優里の話し相手になっただけで大したことは何も・・・それに雲井さんが手伝ってくれなかったら優里とは会えていませんでした」

雲井さんは優里と同じ養護施設の出身だった。彼の口利きによって養護施設の所長から優里の前の住所を聞くことができたのだ。

「そう言ってもらえると少しは立つ瀬があるよ」

彼は母校の文化祭で優里の芝居を観てスフィアの立ち上げを決意した。ただ、雲井さんと優里は年齢が6つも違う。母校に愛着があり毎年顔を出していると考えるのが自然だが、こうも考えられる。優里と雲井さんには私たちの知らない何らか縁がある、と。

優里の家に向かう前に私はその疑問を彼に質した。

「優里と出会ったのは僕が施設を出る直前だった。他の子と交流する様子はなくていつも携帯電話に向かって話していた・・・ちょっと心配していたんだ」

あの時、時間の都合から聞くことのできなかった過去を語る。昔を懐かしむような、それでいてどこか哀しい響きだった。

「久しぶりに施設へ顔を出した時、所長から彼女が演劇部に入ったと聞いた。驚いたよ」

自分と似た境遇の優里にシンパシーを感じていたのだろう。塞ぎ込んでいた彼女が表現活動を始めたことに驚きはあったが嬉しくもあったはずだ。

「優里とーー結衣の芝居には感動させられた。親に捨てられた僕のような人間でも何かできるんじゃないかって希望になったんだ」

雲井さんは自身の思いの丈を打ち明ける。これをきっかけに劇団スフィアを発足したというわけか。

何かを表現するということは簡単なことではない。自分の恥部を曝け出すこともあれば悪意のある批評に晒されることもある。それでも優里と結衣は挑んだのだろう。最初はアイデンティティの確立のために。それがやがて、雲井さんや栞さん、風浦さん、星川さんーーそれに京司と人の輪が繋がっていった。

「ちょっと羨ましい・・・ですね」

「はは、そんな他人行儀にしないでよ。サキさんもスフィアのメンバーなんだから」

私の羨望を雲井さんは笑い飛ばした。

「ふふ・・・ありがとうございます」

そうだ。私も優里の表現に魅せられた一人だった。

「改めて今回は本当にありがとう。あ・・・優里が近くにいるけど代ろうか?」

「ありがとうございます・・・でも、大丈夫です」

「・・・そうか。それじゃ気をつけてね」

やや怪訝そうな声音の雲井さんへお礼を返してから通話を切った。

スマフォをバッグにしまい私は京都駅の北口に向かう。最後にこの街の景色を見たかった。

エスカレーターを下り駅構内から外へ出ると来訪時と変わらない晴天が広がっている。ターミナルにはバスとタクシーが引っ切りなしに行き来し、観光客が乗り降りしていた。その先にはビル群と共に京都タワーが聳え立っている。

優里とのお別れは今朝済ませた。今日で公演は2日目ーー今は午後の部に向けて準備を進めていることだろう。

名残惜しくはあったが悲しくはなかった。お別れの言葉は『さよなら』だけじゃないから。

『またね。優里』

どこまでも続く澄み切った空の下で私たちは再会を誓い合った。


2-2-20

「やっと着いた・・・」

改札を抜けると長閑な町並みが広がっていた。数時間前まで京都駅にいたこともあってかギャップを感じてしまう。

しかし、約4年ぶりの帰省に不思議と充足感が湧いてきた。こういった感想を持つのはきっと理屈ではないのだろう。

電車移動で凝り固まった肩を回しキャリーケースを引く。

今日はこのまま家に帰るとしよう。両親とも彼これ4ヶ月は会っていない。再会が待ち遠しかった。

「・・・げ」

郷愁に耽っているところに着信が入るーー京司からだった。

「もしもーー」

「よお!サキ!柏町には着いたか!?」

ハイテンションな大声が鼓膜に突き刺さる。たまらずスマフォの音量を三段階くらい下げた。

「ええ・・・今ちょうど着いたところよ」

「それは何よりだ!今度は何か落としていないか?大丈夫か?」

「ええ、大丈夫ですとも。おかげさまで」

さりげなく煽りを入れてくる幼馴染をそれとなくいなす。

「まぁ真面目な話ーー今回は助かったわ。ありがと」

不毛な言い合いにオチをつけそれとなく用件を質す。

「いや、なに礼には及ばんさ。今日も公演は順調に終わったのでその報告と単なる世間話だな」

「つつがなく終わったなら良かったわ」

彼なりに気を遣ってくれたというわけか。同時に暫く訪れていない故郷の様子が気になっているのかもしれない。

「こっちは・・・あまり変わってないわね。相変わらずのんびりした町よ」

私は歩みを再開しつつカメラをONにし周囲の景観を共有する。コンビニや飲食店がいくつかある程度で車の通りも少ない。東京や京都のような都市からすると田舎と言えた。

「何というか・・・田舎だな!」

「何よそれ・・・」

京司の陳腐な感想に思わず笑ってしまう。それから暫く取り留めのない話をした。学校帰りに駄菓子屋で買い食いしたこと、背伸びしてカフェに訪れたこと、珍しく雪が振ってはしゃいだことーーどれもくだらない思い出だが、それを共有できることが少しだけ嬉しかった。

「アンタ。こっちには帰ってこないの?」

「・・・ああ、今年は無理そうだ。こっちで少しやることがあってな」

家のーー会社がらみのことだろうか。彼には彼の事情があるようだ。

「まぁまた会えるさ。ナツキとーーカグヤに宜しくな」

「・・・は?何でアイツの名前が出てくる訳?」

脳裏に忌々しい顔が浮かぶ。

「何かおかしなことを言ったか?カグヤに会いに帰ってきたのだろう?」

「はぁ!?なに勘違いしてんの?家族に会いに帰ってきたに決まってんでしょ?」

「そうか・・・俺の勘違いか」

京司の声のトーンが一段下がった。声音には明確な落胆の色が出ている。

・・・いつもの余裕はどこ行ったのよ。

「あーもう。意地になって悪かったわ。会うことになってるからアンタのことも伝えておくわよ」

「ハッハッハ!相変わらず仲が良いことで何よりだ!」

私の返答を聞くや否や口調とテンションが平時のものに戻る。

「良くない!カグヤなんて・・・そう!ついで!ついでよ!」

言葉を発する度に熱が昇ってくるのを感じる。

「やれやれ、素直じゃない」

「うっさい・・・じゃあね、京司」

「ああ、またな」

友人に別れを告げ通話を切る。

素直じゃない、か。確かにそうかもしれない。

ーーねぇ、カグヤ。

スマフォをバッグにしまい暗くなった町を往く。肌を撫でる清涼な夜風が夏を感じさせた。

アンタ、少しは背伸びた?

お母さんみたいに大人っぽく綺麗になった?

コーヒーはブラックで飲めるようになった?

新しい友達はできた?

ナツキとは仲良くしてる?

家具屋さんのお仕事ーー頑張ってる?

『会うのが楽しみね』

胸の中で自然と湧き出た気持ち、だけど絶対本人には言ってやらない。

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