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第1章 _未来の君へ

姫乃カグヤの事件簿2

第1章

未来の君へ

2-1-1

「これでよし」

仕上げ作業が終わった。立ち上がり、一歩身を引き己が作品の完成度をチェックする。

当初の予定が大分後ろ倒しになってしまった。

「良い感じ・・・かな」

目と顔を動かし様々な角度からチェックを入れる。作業中に散々確認したのだから大した発見はないと頭では分かっているのに。

一見、何の変哲もない本棚だが拘りはある。使用する板には塗装と加工を施し、鈍い光沢のある赤茶けた外観に仕上げた。アンティーク調、と称してもバチは当たるまい。また、棚板には等間隔で溝を彫った。この溝へ薄板を挿入することでブックエンドや小物置きとして活用できる。薄板は一先ず8枚用意したが・・・これで足りないようならまた作れば良い。

一通りチェックを終えると僕の心は一つの仕事が終わった後の充足感に満たされていた。

・・・あの子が喜んでくれると良いんだが。

8月中旬、夏真っ盛りだが倉庫の中はひんやり冷たかった。

「お、出来た?良い感じ?」

倉庫の入り口から能天気な声がする。兄貴だ。

セットしていないボサボサ頭に大きな丸メガネ、我が兄ながら今ひとつ冴えない風体だ。

「出来たよ」

「僕の図面のおかげだな」

ボサボサ頭は本棚へ近寄り、ぬけぬけとそう言ってのける。誰のせいで計画が遅延したと思ってるんだ。

「バカ言うなよ。少なすぎる寸法指定箇所、曖昧な色の指示、その他細々とした不備・・・何回手直ししたと思ってんだ」

「う、すまん。随分負担をかけたな・・・夕貴ゆうき

兄貴ーー暁彦は肩を落とす。少し言い過ぎたか。

「まあ、僕の凝り性も計画遅延の一因だけどさ」

「だ、だよな!」

「ったく調子の良いやつ」

昔から変わらない兄の姿に思わずため息が漏れる。

ただ、僕は兄貴のこういう所を尊敬している。両親亡き後、家業である家具屋を継ぎ、今日まで経営を続けてきたのは兄貴とその妻である春香さんだ。

僕の実家である姫乃家具屋は幾度も経営危機に見舞われ、その度に兄貴は対応に奔走していた。元々モチベーションが高く、家業を継ぐ意志のあった兄貴だが苦労の連続であったことは想像に難くない。

しかし、そんな中でも兄貴は弱音を吐かなかったし、僕の妻や娘にも姫乃本家の長男として温和な態度で接してくれていた。

自分が大変な時に常時と同様の心配りをする。中々できることではない。

「叔父さん、お父さん。ただいま」

倉庫内に通りの良い、透明感のある声が響く。振り向くと倉庫の入り口には2人の少女が佇んでいた。

「カグヤ、小夜さよ。おかえり」

右手を上げ応える。僕の娘の小夜と兄貴の娘ーーカグヤだった。2人で遊びに行ってちょうど帰ってきたところのようだ。小夜はカグヤの腕を取りベッタリとくっついている。従姉妹同士仲が良いようで何よりだ。

カグヤーー名前を聞いたときは家具屋の娘だからってそれはないだろ、と思ったが実際に目で見るとかぐや姫のように小さく可愛らしい女の子だった。いや、この世で一番可愛いのは小夜だが・・・同着一位にしたくなってしまう。

今年中学生になったカグヤは心なしか去年より大人びていた。表情には落ち着きが見られ、切り揃えられた髪と涼しげな白のワンピースが上品な印象を底上げしている。

「おかえり・・・っておい!夕貴!隠せ隠せ!」

兄貴も娘たちに応じるが、途端に慌て出した。

「あ」

一拍遅れて僕も事の重大さに気づいた。

・・・サプライズだったのに。

「えっと・・・後ろにあるのって・・・」

「本棚かな?」

気づかれてしまったようだ。カグヤと小夜はこちらに歩みを進める。

「ああ、そうだ。兄貴・・・お父さんと一緒に作ったんだ」

観念して種明かしをすることにした。

「ちょっと遅いけど進学祝い」

本棚に近づくにつれ、僕の言葉を聞くにつれて、カグヤの顔はみるみる明るくなっていく。

「え!?凄い!」

そして本棚に顔を近づけ、食い入るように観察する。

「凄い・・・こんな色味と風合い、塗装で出せるんだ。研磨作業、相当苦労したんじゃ・・・」

目の付け所が渋い。流石、兄貴のーー家具屋の娘だ。

「会社の同僚に個人で設備持ってる奴がいてな。貸してもらったんだ。それに、そんなに大したもんじゃない」

謙遜もあったが事実だった。市場にはこの程度のクオリティのモノは掃いて捨てる程あるだろう。

だけどーー

「そんなことないよ。ありがとう。叔父さん、大事にするね」

想いは込めた。そして、姪はそれをしっかりと受け取ってくれている。

「えーっと。お父さんも頑張ったんだよ?図面書いたし」

兄貴がおずおずと自分の功を主張する。そんな父親をカグヤはじっと見つめた。

「・・・本当?大雑把過ぎて叔父さんを困らせたんじゃない?」

「いやぁ・・・そんなことは・・・あるかも」

鋭い指摘に兄貴は怯む。カグヤは小さく溜息を吐いた。

「そ、そうだ。せっかくだから名前をつけよう」

名誉挽回とばかりに兄貴はそんな提案をする。家具メーカーの中には自社製品に固有の名称をつけるところもある。素人仕事でそれに倣うのも恐縮だが、愛着を持ってもらえるならそれも良いか。

「うん。でも、どんな名前が良いかな」

カグヤは悩ましげな表情で腕を組み、考え込む。

「可愛い名前が良いよね!お姉ちゃん!」

小夜も同じようなポーズを取り考え込む。小夜はカグヤを『お姉ちゃん』と呼ぶ。

「本田さん・・・棚田さん・・・違うなぁ」

「流石にそれはないだろう」

カグヤのネーミングセンスは結構謎だ。

「叔父さんは思い付いた?」

「そう言われると・・・弱いな」

本棚を英語にすると”bookshelf”か。シェルフ?ちょっと安直すぎるな。

「・・・ソフィア」

暫く考え込んでいると兄貴がそんな単語を口にした。

“Sophia”ーーラテン語で知恵や叡智を意味する言葉だったか。本棚につける名前としては中々洒落が効いていた。

「可愛いね!」

小夜は無邪気に笑って兄貴に賛成する。

「ソフィア・・・ソフィアちゃんか」

カグヤも目を輝かせていた。どうやらお気に召したようだ。なぜかちゃん付けしているが、ツッコむのは野暮というものだろう。

「決まりだな」

「うん。我ながら良いセンスだ」

「最後に良いとこ持ってったな・・・せっかく名前付けたんだし後で刻印彫るか」

「おお!頼む」

どんな字体にするかと話しているとカグヤは僕たちに向き直った。

「叔父さん、お父さん。本当にありがとう。一生大事にするから」

そして、満面の笑顔で感謝を示す。

この子の未来に幸多からんことをーー僕は柄にもなくそう願った。


2-1-2

「丁寧にありがとうね。主人と相談してみるわ」

初老の夫人は柔かな笑みを浮かべ店員である俺を労ってくれる。

「はい。是非、宜しくお願いします。今、パンフレットをお持ちしますね」

家具の相談を受けていた俺はお客様へ言葉を返す。砕け過ぎず、それでいて畏まり過ぎない口調と表情を意識する。

今は7月の中旬、俺がこの姫乃家具屋でバイトを始めてから3ヶ月が経とうとしていた。

店長の指導もあって業務にはかなり慣れてきた。最初は家具の運搬や梱包をこなすので精一杯だったが、今では商品説明やお客様に合わせた提案も一通り行えるようになった。

商談スペース脇の書類箱を開き、メーカーのパンフレットを数枚取り出す。

「お待たせしました。先ほどご覧頂いたのはこちらと・・・こちらですね」

お客様の元に戻り、候補の商品に印を付ける。

「あら、ありがとう」

夫人は口元に手を当て上品な微笑を返すと、パンフレットに目を移した。

「このテーブル名前が付いているのね。なんて読むのかしら」

「ええと・・・」

俺は倣うように紙面を覗き込む。パンフレットには確かに名前らしき英字が書いてあった。

“COMMON ROOTS”ーー読みは”コモンルーツ”なのだろうがお客様が知りたいのはそこじゃない。名前に込められた想いがあるはずだ。

「”COMMON ROOTS”」

逡巡している俺の耳に凛とした声が届く。声の主はこの店の店長である姫乃かぐやだった。

店の青いエプロンと動きやすいようポニーテールにまとめた長い黒髪、彼女にとって業務に臨む際の正装だ。

「厳密にはブランドの名前になります。使われている板材は元々は自然にあった樹木ーーそれらは”みな等しく木の根というルーツをもつもの”です。お使いいただいている中で木目や風合いから樹木の歴史ルーツを感じられると思います」

「なるほどねぇ。ちゃんと意味があるのね」

店長の流れるような説明に夫人は感心しているようだ。

「流石、店長さんね」

「恐れ入ります。ご検討の程、宜しくお願いします」

丁寧な言葉と共に恭しく一礼し、笑みを返す。それは少女らしい無垢で自然な笑顔だった。

「すまん。助かった」

夫人を見送った後、俺はフォローに対する礼を言う。

「気にしないでください、武宮さん。今のはかなりの変化球でしたから」

店長ーーカグヤはさして気にした様子もなくそう言った。

「終業時間まで後1時間です。最後まで気を抜かずに行きましょう」

「了解。店長」

短く言葉を交わし俺たちはそれぞれの持ち場に戻った。



「これでよし、と」

店のクローズ作業が概ね完了する。簡単な掃除と備品の点検、展示品の家具にはカバーを取り付けた。後は戸締りと消灯か。

時刻は19時を回っていた。7月に入って日が長くなってきてはいるが、この時間になると流石に暗い。

夜の静けさと涼しさが疲れた身体に染みるようだ。

・・・って疲れてる場合じゃないな。もっと頑張ろう。

俺は基本的に週2回、土曜日と日曜日にバイトとして姫乃家具屋で働いている。それ以外の平日は店長一人で業務を回しているのだ。俺が入る日くらい楽をしてもらいたい。

「ナツキくん。ちょっといい?」

戸締りをしようと自動ドアの方へ足を向けた時、声をかけられる。

今日の反省点の振り返りだろうか。それにしては口調は気安いものだった。

「どうした?」

俺は雇い主であり幼馴染でもある少女に応じる。カグヤはポケットから1枚の紙を取り出すと、神妙な面持ちで口を開いた。

「問題です」

「え?」

「体や内臓の筋肉に動きを伝達するため神経の総称は?」

「えーと・・・運動神経?」

呆気に取られながらも、つい答えてしまった。

カグヤは手元の紙と俺の顔を見比べ、なるほどと頷く。

「次の問題です」

そして再び紙の上の文字を読み上げる。

「官位相当制は何に応じて官職が与えられる?」

「・・・すまん。分からない。というか急になんだ?」

次の問題に移行する前に俺は疑問を投げかける。

「あ、ごめん。これ解きたくって」

カグヤは手に持っていた紙をこちらに差し出す。A4サイズの用紙には文章と図形が印刷されていた。古いものなのか少し茶焼けている。

挿絵(By みてみん)

クイズと・・・クロスワードパズルか。

「えーっと。雑誌の懸賞か何か?」

未だに状況が掴めず再び問いを発する。カグヤは小さな顔を左右に振った。

「お父さんの遺品を整理してたら出てきたんだ」

「そうだったのか・・・」

カグヤの両親ーー暁彦さんと春香さんーーは彼女の中学卒業間際に事故で他界した。以来、カグヤは両親の後を継ぐために、そして自身の夢のために奔走してきたのだ。

カグヤはこれまで自宅の家具の配置や両親の私物に手を付けてこなかった。それは多忙のためということもあるが、それだけ両親の死を受け入れがたいものだと感じていたからだろう。

「ナツキくん・・・そんな顔しないで」

幼馴染の少女は心配そうな表情で俺の顔を覗き込む。

「そうだな。悪い」

遺品の整理、カグヤは前に進もうとしている。友達の俺が暗い顔してどうする。

「ねぇ、それ解くの手伝って」

気軽に、遊びに誘うようにカグヤは俺に笑いかけた。

暁彦さんはクイズやパズルが好きだった。解くのも好きだが、出題するのも好きなのだ。子供の頃、自作の問題に頭を悩ませる俺たちを見てニヤニヤしていたのを思い出す。

「それは構わないけど・・・良いの?」

これはある意味で暁彦さんの遺作だ。俺が謎解きに参加して良いものだろうかと躊躇してしまう。

「うん。きっとお父さんも友達と解いて欲しいって思ってるから」

カグヤはコクリと頷くと、ただしと指を立てた。

「ネットは見ちゃダメ」

俺は頷き返す。今のご時世インターネットを使えば大抵のことは分かるが、パソコン1台で全て回答というのも少々味気ない。

「友達に聞くのと・・・本で調べるのは良いよ」

カグヤは2本、3本と指を立てルールを追加していく。

「オッケー、分かった」

簡単過ぎず理不尽過ぎない。おおよそ妥当な縛りだろう。

用紙のコピーをもらいその日は解散した。


2-1-3

「ナツキ、こっちこっち」

トレイを持ったままウロウロしている所に声がかかる。先に席を取ってくれていたようだ。

「ありがとう。田辺」

「ういー」

相槌を打ち友人ーー田辺は席に置いた自分の荷物を隣の席にどかす。テーブル席に荷物を置いておき席を確保していたのだろう。

2限目の授業が終わった直後で大学の食堂は多くの人で賑わっていた。生徒の多くが疲労と安堵を顔に滲ませているようだった。恐らく、学期末試験のためだろう。

「ナツキ、問4って解けた?あれ授業に出てなくね?」

田辺も例に漏れず疲れた顔をしていた。一夜漬けが祟ったのだろう。自慢のオールバックが今日は少し乱れていた。

「あー講義の中で余談みたいなノリで話してたような」

「それ系ね。マジやめろよなー」

「ドンマイ」

田辺は項垂れる。

「先輩のノートに頼りきってるからそうなんだよ」

隣の席の椅子が引かれる。

俺と田辺の共通の友人である川田だった。派手な色の柄シャツに金髪というイカつい装いだが実は意外と優等生なのだ。

「お疲れ」

「うっす」

川田は普段と変わらない軽快なテンションで俺に応じる。

かけるは?」

「ちょっと遅れるってよ」

川田の問いに田辺は隣の椅子をポンポン叩きながら答える。

「何にせよ。これでやっと夏休みか」

「だな。皆んなで旅行でも行く?」

「いいかも」

前期の試験は先ほど受けた講義のもので最後だった。

大学は高校と違い終業式がないため、実質今から夏休みと言える。大学の夏休みは1ヶ月強と結構長い。いずれ訪れる退屈を見越して予定を入れておくのも良いだろう。

「海外行っちゃう?」

「パスポート持ってんの?」

「いや、ない」

「じゃあ書類書いて申請するところからだな」

「それはダルいかも」

キラキラしていた田辺の目が急速に濁っていく。

「んじゃ国内旅行にするとして・・・盆の時期は避けたいな。皆んな実家帰るだろうし。車で2,3時間の範囲内で行ったことない県行ってみるとかか?」

「あーそれ良いかもな。普段行かない県に何あるか調べるのとか面白そう」

川田が現実的かつ建設的な意見を出してくれる。

「問題はメンバーだな」

田辺がそんなことを口にする。珍しく真剣な表情だ。

「メンバー?」

俺と川田と田辺、それからここにはいない真白翔の4人で決まりではないのだろうか?

「女の子がいないと盛り上がらないっしょ」

「ああ・・・なるほど」

田辺は異性へのアプローチに積極的なタイプだ。お調子者な性格が災いしてあまり結果は芳しくないが、とにかく打席に立つというスタンスらしい。

個人的には男だけでも十分楽しいと思うのだが。

「あてはあんの?」

田辺の意見を採用するとして男4人に対して女子1人という訳にはいくまい。急に旅行に誘っても応じてくれるような関係を築いた女友達が複数人いなければ成り立たない話だ。

「そこはまぁ・・・翔くんにおまかせってことで」

「他力本願かよ・・・」

全く調子の良い奴だ。もっとも、そんな無理難題にも彼なら笑顔で応じてくれそうではある。

「まぁ・・・急にってなるとトラブルが起きて旅行全体が破綻するかもしれないし女子はまたの機会にしよう」

散らかりかけた議論を川田がまとめてくれる。俺があまり乗り気じゃないことを言葉の端から感じたのかもしれない。

「そうすっかー」

田辺も引き際と感じたらしく川田に同調する。

「女テニとか呼べたらなー」

それでもなお未練はあるようだ。

「噂をすれば」

川田が顔を上げ学食の通路を見遣る。視線の先には数人の女子生徒のグループがいた。知り合い同士で集まって昼食を摂ろうと席に着いたところだ。

「レベル高いよなー。特に部長とか何かもうオーラ出てる」

田辺の言う通りグループ内の女子は遠目にも身だしなみが整っていることが分かる。大学に行って試験を受ける、予定がただそれだけだったとしても常に他人に見られているという意識がそうさせるのかもしれない。

上座の席に着いているのが田辺の言う部長だろう。整えられたベージュブラウンのロングヘアに爽やかな艶毛のある目元、落ち着いたーーそして何処となく隙のないーー所作に自ずと目が引かれた。遠目にも容姿や振る舞いが洗練されている。オーラというには大袈裟だが言わんとしていることは分かった。

そんな部長の隣に座る女の子には見覚えがあった。緩くカールのかかったミディアムボブと朗らかな笑顔、日野香純だ。ちょっとした縁があり俺と香純ーーそれからカグヤは友人となり、今も付き合いが続いている。

他の部員と話していた彼女はこちらに気づいたようで笑顔でヒラヒラと手を振った。俺も小さく手を挙げそれに応じる。

「あの子、ナツキの知り合い?」

「ああ、友達だけど」

「マジか!?女テニと繋がりあんのかよ」

「繋がりって・・・」

「ワンチャン出てきた!」

田辺が目を輝かせ食いついてくる。女子と旅行に行きたいと言っている男の前で今の対応は迂闊だったかもしれない。

「翔だ」

川田が静かに呟く。再び女子グループの方に顔を向けると、均整の取れたシルエットに自然と視線が吸い寄せられる。真白翔だ。中性的で整った顔にいつもの余裕の笑みを浮かべ何やら立ち話をしていた。

「おい、まさか・・・」

田辺が驚愕の表情を浮かべている。

真白は件の部長と親しげに言葉を交わしていた。部長の表情も心なしか柔らかい。

田辺ほどではないが俺も少し驚きがあった。真白は交友関係が広い社交家ではあるが相手はサークルの部長、恐らく3年生だ。接点はなさそうに思えるが、食事会やイベントなどで交流があったのだろうか。

「翔くんマジパネェ・・・」

「確かにスゲェな」

川田もこれには同意する。田辺はどんな関係なのかとあれこれ考察を立てていた。

「ごめんごめん。お待たせ」

やがて会話を切り上げた真白が合流する。田辺は食い気味に部長との関係を質す。

「・・・古い知り合いって感じかな。仲は良いけどそういうんじゃないよ」

真白は気分を害した様子もなく、それとなく恋仲であることを否定する。

少し表情が強張っているーーそんな風に感じるのは多分気のせいだろう。



旅行に関して真白は意欲的だった。

昼食を摂った後、隣接しているカフェに場所を移し会議を開く。

川田と真白を中心に日時や移動手段、行き先候補などが順調に決まっていった。

女子の参加については真白曰く『ちょっと考えてみるね。期待せずに待ってて』とのことだ。田辺の要望と俺や川田の懸念を考慮した上で適当な判断を下すつもりだろう。真白のことは信頼しているので任せることにした。

「こんなところかな」

「メモ取っておいたから後でグループに貼っとく」

「ありがとう。ナツキくん」

真白はニコリと俺に笑いかけカップに口をつける。一々絵になる男だ。

「ああ、そうだ。真白、川田」

俺はバッグからクリアファイルを取り出し用紙を1枚抜き取った。

「なんだこれ?」

先週のバイトでカグヤから受け取ったクロスワードパズルだ。知り合いのオリジナル問題をインターネットを使わず解いている、と簡単な説明をする。

「ふーん。こんなんよく作るな」

川田は感心した様子で問題を査読している。

「あれ?俺は?」

名前が呼ばれていない田辺が自分で自分を指差す。

「いや、田辺は戦力外」

「ひでぇ!」

「冗談だって」

軽口を交わしながら4人で紙面をジッと見つめる。

「これは・・・田沼意次かな」

「こっちはイタリア戦争・・・か」

「うん。合ってると思う」

やはり、と言うべきか基礎学力と教養のある真白と川田が中心となり問題を解いていく。俺と田辺は若干見当違いの意見を出しつつも2人を支援する。

「後は・・・本とかで調べてみないと分からないな」

「ごめんね。あまり力になれなかったみたいだ」

30分くらい経ったか。この辺りで打ち止めのようだ。

「いや、何個か埋めれたし助かった。ありがとう。真白、川田」

「ナツキ、怒るぞ」

「すまんすまん。田辺もどうもな」

「よろしい。そんじゃボーリングでも行きまっか」

田辺は素早く表情を切り替え、全員のカップを片付け荷物をまとめる。

俺は苦笑しながらその提案に応じる。

長い夏休みが始まった。


2-1-4

「ハッピーバースデー トゥー ユー ハッピーバースデー トゥー ユー」

歌声がリビングに木霊する。

「ハッピーバースデー ディア お母さんー」

誕生日の歌、しかし声には祝福の感情よりも恐怖心が表に出ていた。

「ハッピーバースデー トゥー ユー」

ロウソクの火を前に父さんは歌唱を終える。可哀想なくらい顔が引き攣っていた。

「はい。どうも」

今日の主役である母さんは無感動にロウソクに息を吹きかける。灯火は消えリビングが暗闇に満たされた。

『今日、なんかあったっけ?』

冷蔵庫に保管しておいたケーキーー俺がバイト代で買ったものだーーを見て父さんが放った第一声はそんなものだった。パートナーの誕生日を忘れる、結婚して20年も経てばつい気が抜けてしまうこともある。その段階では、同じ男性として俺も父さんを擁護するつもりでいた。

しかし、この事件はそう簡単なものではなかったのだ。

『”l’intemporelランタンポレル”は?予約してくれるって言ったじゃん』

『あ!?あーごめん・・・忘れてた』

『は?』

“l’intemporel”というのは城新ーー俺の住む柏町からほど近い市街地だーーに最近オープンしたフレンチのレストランだった。”l’intemporel”はフランス語で『永遠不変』という意味らしい。

本場で修行を積んだシェフによる逸品が振る舞われる所謂高級店であり記念日でもないと大衆には敷居が高い。

そんな”l’intemporel”へ誕生日に連れていく。父さんは母さんにそんな約束をしていたのだ。

「ホント・・・ごめん」

電気を点け、再び着席した父さんが頭を下げる。普段から母さんの尻に敷かれ気味の父さんだったが、その背中が今日は一段と小さく見えた。

場の空気は重い。これでは誕生日会というよりお通夜だ。

「反省してる?」

母さんが自分の誕生日にリクエストをするのは俺が知る限り初めてのことだった。倹約家であり効率を重視する母さんは記念日や贅沢品というものに執着しない。

そのポリシーを翻したのは勤める会社が外食事業を手がけており、母さんが商品・サービス開発部門に所属しているからだろう。商圏内の同業者の動向調査、自身の興味関心、あるいはその両方か。母さんなりに強い思いがあってのことだったのだ。

「・・・はい」

父さんもそれが分かっているのだろう。母さんの責めを甘んじて受けることにしたようだ。

母さんはそんな父さんの姿を数秒観察し、一度頷き笑って見せた。

「・・・じゃあ許す。今度はちゃんと連れてってよ」

料理取るから皿貸して、と父さんの食器に手を伸ばす。

「ごめん」

「いいよ。私も念確しなかったし」

なお恐縮する父さんに対して母さんはいつもの調子に戻っていた。この切り替えの早さも母さんらしい。

わだかまりが解消されたタイミングで俺は話を切り出す。

「えっと、一応プレゼントあるんだけど」

「あ、そうなの」

母さんは目を丸くする。ケーキで終わりだと思っていたのだろう。

俺は椅子の背もたれに隠していた袋を母さんに手渡す。

袋の中には小箱、そしてその中にはセラミック製の容器が入っている。

「これは・・・ハンドクリームね。中々気が利いてんじゃん」

「へぇ・・・有名なブランドのやつか。ナツキ、良いセンスじゃないか」

両親とも俺のチョイスを褒めてくれる。

「あーいや、友達と一緒に選んだんだ」

友達というのは真白のことだ。何を贈るか悩んでいた俺を城新のデパートまで連れて行ってくれ、候補を見繕ってくれたのだ。よって、俺のセンスが良いと言われても素直に頷けない。

「まぁ買ったのはアンタでしょ」

過程より結果が大事、そう言って俺の皿に料理を盛り付ける。

「ありがとね」

母さんはいつも通り素っ気なく、でも確かに息子である俺の気持ちを受け取ってくれた。



「あ、てかさ」

誕生日会も終わりに近づいた頃、母さんはふと俺に問いを投げた。

「アンタ、カグヤちゃんの誕生日とかちゃんと覚えてんの?」

「えーっと」

予想外の質問に面を食らう。あれ?いつだったっけ?

「確か・・・9月か10月」

曖昧な回答に母さんは深く溜息を吐く。開き直るようだが、他人の誕生日を覚えるのは苦手なのだ。恥ずかしながら両親の誕生日も中学に進むまで碌に記憶できていなかった。

「まぁ誕生日祝われて嬉しがるタイプかはさておき覚えといた方が良いよ」

確かにその通りかもしれない。自身の記念日に無頓着な母さんも今日の俺のプレゼントを何だかんだで喜んでくれたのだから。

といっても今更本人に聞くのも腰が引けてしまう。そんな俺のヘタれた心を読み取ったのか母さんはアドバイスをしてくれる。

「裏技教えてあげる。多分、卒アルに載ってるから確認してみな」

「あ、ありがとうございます」

そんな手があったか。思いがけず実用的な助言を受け、つい敬語になってしまう。

後片付けと皿洗いを済ませ、自室へ戻り早速収納棚を物色する。

卒業アルバムなら他の友達の誕生日も確認できるな。問題は小中学校が違う香純や真白達か・・・さりげなく聞いてみるしかないか。彼らとは比較的付き合いが短いからそう失礼な話でもないだろう。

「あったあった。懐かしいな」

棚の奥底から重厚なカバーを纏った卒業アルバムを取り出す。

小学校と中学校のものをパラパラと捲ると昔の記憶が呼び起こされる。課外授業や体育大会、修学旅行・・・ぼんやりとは覚えていたがこうして写真で見ると具体的な友達とのエピソードなんかが浮かんでくる。

「なんか俺生意気そうだなぁ」

運動着姿でグラウンドを走る自分の写真を見て苦笑が漏れる。この写真を同級生全員が所持していると考えるとちょっと恥ずかしい。

・・・いかんいかん。在りし日を懐かしむのは後にして本来の目的を果たすとしよう。

中学の卒業アルバムには・・・載っていないようだ。一方、小学校の卒業アルバムには全生徒の誕生日が記載されていた。個人情報保護のため、あるいはアルバムの制作業者や学校側の指定などによって記載する情報に違いが出るのかもしれない。

カグヤの誕生日は・・・10月15日か。

「誕生日プレゼント・・・何が良いかな」

とりあえず真白に相談・・・ってアイツにばっか頼ってられないな。少しは自分で考えるか。


2-1-5

「お買い上げ有難うございます」

お客様へ一礼し、リーダーで商品コードを読み受注処理を開始する。

先日、姫乃家具屋を訪れた夫人は自身の言葉通り夫と稟議を揉んだ上でテーブルの購入に踏み切った。

「主人が優柔不断で・・・ごめんなさいね」

「いえ、納得頂いた上で購入してもらうのが一番ですから」

店員としてのポーズもあったが本音でもあった。

姫乃家具屋では単価の高い家具が主力商品だ。一般的に単価が高くなるにつれ購買行動は慎重になる。鉛筆と自動車を比較して考えると分かり易いだろう。高額商品を購入する際、顧客はまず真っ先に『失敗すること』を恐れる。その場合、重要なのは『買い手と売り手の関係を可能な限りフェアに近づける』ことだ。要望を聞き情報を開示し、適切な提案をする。その上で顧客自身に比較検討してもらう。そのプロセスを踏ませることで『押し売りされて不要な買い物をした』という失敗の感覚は遠のき自身の購買行動に自信が持てる。高級家具を購買できる層というのは限られる。売れれば良いという考えでは先細りしてしまう。顧客一人一人との信頼関係構築は重要なミッションなのだ。

・・・まぁ、全部店長からの受け売りなんだけど。

「商品は1週間以内の発送となります。お時間頂くこと、ご了承ください」

「はい。よろしくお願いしますね」

「当店の会員カードは・・・今日お持ちですか?」

先日の会話の中で昔この店で買い物をしたという旨の発言をしていたのを思い出す。

「あらやだ・・・失くしてしまったかも」

「青いプラスチック製のカードなんですが・・・ありませんか?」

夫人は自身の財布やカード入れの中を探す。見つからないようだ。

「こちらから記録を辿れますから大丈夫ですよ。再発行に少々お時間を頂くことになりますが」

「大丈夫よ。ごめんなさいねぇ」

とんでもないですと軽く受け流し夫人の氏名をタブレットに入力する。会員リスト上で候補が絞り込まれたので夫人の確認を取りカードの再発行手続きを進める。

・・・またか。

会員カードの再発行は俺が認識している限り5回目だ。もっとも、これは頻繁に買い替えが発生しない高級家具という商品の特性上仕方のないことでもある。目の前の夫人にしても最終購買時期は2017年、かれこれ7年も前だ。

「こんばんはー」

手を動かしながら思案していると聞き慣れた陽気な声音が店内に響く。

友人、日野香純だった。アイボリーのタンクトップに淡いピンクのワイドパンツーー涼しげでゆったりとしたコーディネートだ。

「いらっしゃいませ」

俺は視線を彼女に向け来店を歓迎する。香純はそんな俺にいつもの明るい笑顔で応えた。

「こんばんは。香純さん」

俺がお客様へ対応中であると見て、カグヤがフォローに入ってくれる。作業をしながら俺は横目で友人2人のやりとりを観察する。

カグヤの姿を認めた香純はより一層表情を輝かせていた。

「カグヤちゃん!うん、今日も可愛い・・・」

香純は腕を組み何事かを納得したようにうんうんと頷くとカグヤの顔に手を伸ばす。友人の意図を察したカグヤはその手を払った。

「頭撫でないでください」

「がーん」

「・・・口で言わないでください」

愕然とする香純を前にカグヤは呆れた様子で額に手を当てた。

「そ、そんな・・・せっかくカグヤちゃんファンクラブの会員になったのに・・・」

「お店の会員カードに変な意味づけをしないでください」

「会員限定のサービスとかさ・・・」

「お買い上げ頂いた家具の配送料が無料になります。それと修理サービスの仲介手数料が割引されます。他にも細々とした特典はありますが・・・香純さんが期待するようなサービスはありません」

謎の粘りを見せる香純にカグヤはにべも無く対応する。店主の言葉を受ける度に香純の背中がショボショボと縮こまっていく。

友人相手に釣れない態度ではあるが他のお客様の目もある。店の主人としては真っ当な対応と言える。

「ごめんね、カグヤちゃん。お仕事の邪魔しちゃったよね・・・」

香純もそれを理解し反省の意を示す。しかし、その表情には明らかに翳りが見られた。

「あ、えっと・・・」

落ち込んだ様子の香純、カグヤの顔に戸惑いの色が浮かぶ。友人としての態度、店主としての態度、双方の間で揺れているのだろう。

暫しの黙考の後、彼女はつま先立ちになり友人に何かを耳打ちした。

「・・・うん!」

言葉を受けると香純はパッと明るい笑顔を取り戻し、店を後にした。去り際にこちらを一瞥しウィンクする。

「今の店長さんのお友達?」

夫人に柔らかな声色で尋ねられる。口調と表情からクレームではないことが分かった。

「えぇ、そうです。こちら会員カードになります」

「そうなの、仲が良さそうだったわね。ちょっと安心したわ」

カードを受け取りながら夫人は自らの心情を語ってくれる。

「お仕事に一生懸命だけど頑張り過ぎていないか少し心配だったの。ご両親のこともあるし」

夫人はカグヤの両親の代から姫乃家具屋のお客様だ。両親が亡くなったことも知っていたのだろう。

「でも杞憂だったみたいね。貴方とさっきの子を見て分かったわ」

初老の夫人は小さな店主に穏やかな眼差しを向けていた。その姿に在りし日の先代店主を重ねるように。そして、そんな眼差しを俺に対しても向けてくれる。夫人の心遣いに思わず胸が熱くなってしまう。

「有難うございます。今後とも宜しくお願いします」

「えぇよろしくね。家具のことでまた何かあったら相談させてね」

それじゃあねと夫人は店を後にした。

営業時間終了後にスマートフォンを確認するとメッセージが表示されていた。

かすみ『ナツキお疲れ様!』

かすみ『仕事終わったら3人でご飯行こ』

かすみ『一旦、家に帰って車で来るよー』



クローズ作業に取り掛かりながら俺は店の外を眺めた。

19時の田舎の商店街は車の通りも少なく閑散としている。寂しくもあり同時に密やかな安心感があった。

当たり前のことではあるが、大学が夏休み期間に突入しても姫乃家具屋の日常は変わらない。こういう時、大学生と社会人の違いを再認識する。

「武宮さん。今日は有難うございました。ほぼ1日任せてしまいましたね」

店長から労いの言葉をかけられる。

「別に大丈夫だ。そっちはどうだったんだ?」

「時間こそ長引いてしまいましたが、大きな問題はありませんでした」

「そっか、お疲れ」

今日は火曜日、本来俺のシフトは入っていないのだが店長が出張対応のため店番を務めることになった。カグヤが店に戻ってきた頃には時計は17時を回っていた。

「はい。お疲れ様です」

1日の終わり、俺たちは微笑を交わす。

突如、自動ドアが開く。反射的に店の入り口に顔を向ける。

そこには一人の男性客の姿があった。年齢は40代前半くらいだろうか。張りと深みのある黒の背広を纏い、高級そうな革靴が蛍光灯の光を吸収し光沢を放っていた。目には温和な光が宿っていたが、表情はどこか張り詰めている。

男性客の顔にはどこか見覚えがあったが、即座に名前が出てこない。他人の空似だろうか。

・・・何にせよ。店員としてやることは変わらないか。

男性は営業時間が終了していることを知らず入店してしまったのだろう。余程緊急の用件でない限りお帰り頂くしかない。

その旨を伝えようと口を開く前に傍の少女がポツリと声を漏らす。

「・・・叔父さん」

悄然とした表情を浮かべるカグヤに男性はぎこちなく笑いかける。

「終業直後にごめんな。城新まで出張になってな・・・それで・・・様子を見にきたんだ」

来店の経緯を告げるその口調もやはり歯切れが悪かった。

「有難う・・・ございます」

一方のカグヤもどこかバツが悪そうだった。男性を嫌悪している、というよりどんな顔をして接したら良いか分からないーーそんな印象を受けた。

夜の静けさが場を支配し、ほどなくして俺たちもその一部となった。


2-1-6

なんでこんな事に。

筆舌を尽くす孤独感と無力感に苛まれる。しかし、思い悩むだけでは事態は何も進まない。そんな事は分かっている。分かっていても簡単に割り切れない。

益体のない思考運動、もう何度繰り返しただろうか。

兄貴がーー暁彦が死んだ。妻の春香さんと歩道を通行していた時、事故に遭って。

言葉にすればたったそれだけ。

地方の新聞やニュースで簡単に取り上げられただけで多くの人間はその死を忘れるだろう。

それでも遺された人間は、家族はこの出来事を一生忘れない。

・・・ああ、兄貴。

遺された人間の心とはこんなにも寂寥と後悔に満ちるもんなんだな。

あの能天気で楽観に満ちた声を聞くことは、もうない。

お調子者の兄貴を冷静に諌める妻、そんな夫婦のやり取りを見ることは、もうない。

家業を継いだ兄貴に、家を守り続けてきた兄貴に、尊敬の気持ちを伝える機会は、もうない。

兄貴は死んだ。死んだのだ。

喪服の胸ポケットで携帯電話が振動する。

会社か?葬儀屋か?それとも・・・

考える前に通話ボタンをプッシュする。

弁護士からだ。事故加害者との慰謝料等の協議、それからあの子の後見人となる手続きについて相談に乗ってもらっている。

失意のどん底に落ちている僕が立ち直るのを待ってくれる程、世界は、社会は優しくはない。

喪主として通夜や葬式の手配、遺骨やお墓について春香さんの実家との協議、他にも挙げればキリがない。その一つ一つに携わる毎に故人との思い出が浮かび上がってくる。心身共にキツい役目だった。

今日、葬儀はどうにかやり切った。

葬儀場から吐き出される喪服姿の大人たちを見送りながら僕はため息を吐いてしまう。

気が重い。

細々とした手続きや調整、作業に押しつぶされそうになっている、だけではない。いや、それだけならーー僕個人の消耗と感情だけの問題であったのならどんなに良かったか。

「夕貴君。今日はご苦労様」

「あぁ、どうも」

白髪の男性に声をかけられる。

親族の一人なのだろうが、見覚えがない。大学を出てから早々に他県の会社に就職したこともあって親戚付き合いというものはすっかり疎かになっていた。

「まだ若いのに・・・残念でならないよ」

男性は言葉を選びながら悔やみの気持ちを向けてくれる。

「家具屋さんは・・・どうするんだい?」

そして、無意識に蓋をしていた問題に触れてくる。

「ええと・・・その・・・」

僕の口からしどろもどろの、言葉未満の音が漏れる。

男性に悪意はないのだろう。むしろ、兄貴の事業周りの繋がりを知らない僕に対する善意からの、大人としての真っ当な助言だ。

「確か暁彦くんはコンサルさんを雇っていたな。優秀な人らしいから事業を畳む場合も相談にーー」

しかし、これ以上は聞きたくなかった。

「失礼します」

僕は男性から踵を返し逃げるようにしてーーいや、逃げた。



淡い光を放つ祭壇と充満する香の匂い、葬儀場のホールだ。等間隔に並べられ、列を成す椅子の最前には一人の少女が座っていた。

喪服の仕立てが間に合うはずもなく彼女は制服姿で葬儀に臨んだ。

喪服姿の大人に囲まれ、葬儀をこなす彼女の瞳は何をも映してはいなかった。

少女の心はここにはなかった。

「カグヤ」

少女の名を呼ぶ。それだけが彼女をこの世界に繋ぎ止めるよすがであるかの様に思われたから。

「・・・叔父さん」

カグヤは僕の姿を認めると弱々しく呟いた。子供らしく微笑む少女、少し大人びてきた少女、両親との生活に心からの幸福を感じていた少女、そんなもの最初から存在しなかったのではないか。僕はそんな錯覚に襲われた。

「帰ろう」

錯覚を押し殺しカグヤの隣の椅子に腰を下ろす。

彼女の白く小さな手を取る。冷たく、そしてーー震えていた。

「叔父さん。お店は・・・どうなるの?」

消え入りそうな声で問いを紡ぐ。

「それは・・・」

用意してきた言葉を即座に口にすることができなかった。

自分を慕ってくれていた姪に、夢を持った少女にかける言葉としてはあまりにも残酷なものだったから。

喉の奥が震える。

思い浮かぶのは純粋で無垢な少女の笑顔だ。

この子の未来に幸多からんことをーーそう祈ったのは僕だ。今でもその思いは変わらない。

だけど・・・いや、だからこそーー

「残念だが・・・廃業するしかないよ」

言わなければならない。

カグヤが両親の後を継ぎたがっていたことは分かっている。家具や加工の専門知識を両親から学び、少しずつ成長していることも分かっている。

でも、それだけではどうしようもないのが現実だ。

机上で知識を修得することと実際に店舗を経営し実務に取り組むのは全くの別物だ。

兄貴の代だけでも姫乃家具屋はこれまで幾度となく経営危機に陥ってきた。その危機から脱せたのは先代からの十分な引き継ぎ期間があり、その間に実務経験を積むことができたからだ。

そういった経験やノウハウ、暗黙知を授けてくれる存在はーーもういない。

夢を諦めるしかないのだ。

「僕たちの家で一緒に暮らそう。高校にも何とか通える距離だし、小夜もーー」

「叔父さんまで・・・そんなこと言うの」

カグヤは僕の手を振り払った。表情には静かな、それでいて確かな拒絶の色が滲んでいる。

もはや、誰も信じられない。僕を睨みつけるカグヤの目がそう語っていた。

「・・・叔父さんまでって・・・カグヤ!何か言われたのか!?」

反射的に怒りが込み上げてくる。

親族の中には家業の存続を絶望視するものもいる。僕の目がない間に心無い言葉を浴びせられたのか。

ああでも、それはーー

「もう・・・どっか行って・・・」

僕も、同じだった。


2-1-7

香純と合流した後、俺たちは町の中心部にある庶民派レストランに移動した。ビュッフェ形式で和洋折衷の料理が楽しめる。しかし、すぐに食事を摂る気にはなれなかった。

「・・・そっか」

カグヤの話に香純は小さく相槌を打った。店内に響く談笑の声や食器同士の擦れる音と重なる。

両親の死はカグヤの人生に大きな影響を与えた。以来、彼女は家業を継ぐべく奔走し、紆余曲折を経て今日まで経営を続けて来たのだ。誰にでもできることではない。両親のような家具屋になるーーそんな確固たる強い思いが、夢があったからこそ成し得たことだ。

「カグヤちゃんは悪くないよ!」

そんな彼女の姿を近くで見てきた香純はカグヤを擁護する。しかし、言葉の後半で語気が弱まる。

「でも叔父さんが悪いかって言うと・・・」

「そう・・・だな」

難しい問題だった。

子供の夢を応援し支えるのが親のーー大人の役割、そう言ってしまうのは簡単だ。

しかし、子供の無謀な挑戦に待ったをかけ別の道もあると教え諭すことも大事な役目ではないだろうか。叔父さんーー夕貴さんは葛藤を抱えながらもそれを実践しようとしたのではないかと思う。

「ありがとう。香純さん、ナツキくん」

カグヤは俯きながらも俺たちに謝意を示す。

「話してみて・・・気持ちが整理できた。私・・・叔父さんに謝りたい」

声には普段の彼女らしからぬ弱さと迷いが伺えた。あの時の夕貴さんの気持ち、口にしてしまった言葉、そして自分がどうするべきか、どうしたいのか。彼女の胸の内で様々な感情が交錯しているのだろう。

それでもカグヤはーー友人は前に進もうとしている。自らの傷に向き合おうとしている。

「うん。分かった」

ならば俺たちはその選択を受け入れ、見守るだけだ。そして、どんな時でも味方であると伝える。どんな結末を辿ろうと友達として側にいる。それだけだ。

「頑張れ。カグヤ」

「うん。ありがとう」

俺たちのささやかなエールに少女は笑って見せた。



「それでね。冷蔵庫に置いておいたの食べちゃったんだよ?問い詰めたら『一個くらい良いじゃん』だって、あり得なくない?」

食事を進めながら香純は家の中で起きたトラブルについて愚痴をこぼす。どうやら買い置きしておいたデザートを弟の直行に食べられてしまったらしい。冷蔵庫を共用している家庭ではよくある事だ。

「香純さん、その・・・人気店のプリンって何個買ったんですか?」

「へ?5セットだけど」

セット?単位おかしくない?

「うん。1セットに5つ入っててそれぞれ牛乳とか卵、砂糖なんかが違ってるんだ」

つまり5×5で25個のプリンを一人で食おうとしてたのか・・・

「食べ比べするの楽しみにしてたのに・・・ナオめ・・・許さん」

香純はエビフライを丸齧りしながら執念の炎をその目に燃やす。

いや、まぁ・・・なんて言うか、うん。

「それは直行さんは悪くないような・・・」

カグヤも俺と同じ結論に至る。普通、そんだけ買い込めば家族でシェアするために買ったものと思うだろ。

「マジ!?」

共感を得られると思っていたのか香純は露骨なまでに仰け反る。

「香純さん・・・」

オーバーなリアクションにカグヤは呆れている。しかし、同時に顔を綻ばせてもいた。

『この話は一旦お終い』ーー三人の中で成された暗黙の了解にいち早く適応したのは香純だった。彼女の明るい人柄とちょっと間の抜けたトークによって重く暗い雰囲気は払拭されていた。

「いや・・・私は何と言われようと争う構えだよ。徹底的に、徹底的にやらせてもらいますよ」

香純はここにはいない直行に向けて決意表明をする。世界を敵に回そうと戦い抜くとでも言わんばかりの大仰過ぎる覚悟が垣間見えた。あの・・・香純さん?ネタだよね?

「あ、カグヤちゃん」

香純は何かに気づいた様子で自身の頰を指差す。

「ケチャップついてるよ」

「え・・・ここ、ですか?」

唐突な指摘にカグヤは困惑しながらも紙ナプキンを頰に当てる。

「あーそこじゃない。逆逆・・・じっとしてて」

「あ・・・ちょっと」

香純はカグヤの顔を押さえ、頰に付いたケチャップをハンカチで念入りに拭う。大事な宝物に優しく手入れを施すような繊細なタッチだった。

「お茶目なカグヤちゃん・・・可愛い」

先ほどの幼稚な態度からは一転、手のかかる妹の面倒を見る姉のような慈愛に満ちた眼差しを向ける。

カグヤの顔はみるみる紅潮していく。

「こ、子供扱いしないでください・・・ナツキくんもこっち見ないで・・・」

カグヤは横目でこちらへ訴えかける。確かに今の状況は当人にしてみれば結構恥ずかしい。

しかし、先刻姫乃家具屋で見せたような拒絶はない。

「よし、取れたー」

香純はカグヤに笑いかけゆっくりと頭を撫でる。羞恥心がキャパオーバーを迎えていたカグヤに抵抗の術はなくされるがままだった。

「あ、揚げ物できたみたい。取ってこよっと」

店内放送に反応した香純は軽快に席を立つ。

「香純さん・・・覚えていてください・・・」

テーブルから去っていく香純対し満身創痍のカグヤは呪詛の言葉を紡ぐ。つい先ほどまで抱いていたであろう感謝の念はすっかり消えているようだ。

拘束が解かれたカグヤは倒れるようにテーブルに突っ伏した。



「そういえば」

目の前で羞恥に身を焦がす幼馴染に声をかける。

「パズルどこまで埋めた?」

自前のトートバッグからクリアファイルを取り出す。今日のバイトで進捗状況を共有する予定だったのを忘れていた。

カグヤはのそりと顔を上げる。先ほどのダメージが残っているようだ。

「あ・・・ごめん。私、全然埋められなかった。ナツキくんは・・・結構埋めてるね」

カグヤの進捗はなしか。まだ謎解き開始から数日しか経っていないし今日は出張もあった。無理からぬことだろう。

「大学の友達に手伝ってもらったのもあるけどな。逆に言うともう本で調べないと埋められないかも」

「なになに?何の話?」

料理を取りに離席していた香純が戻ってくる。手にした皿の上で大量の揚げ物が山を成していた。

彼女はパズルが印刷された用紙を怪訝な顔で覗き見る。

「香純さんには教えません」

「そんなぁ」

先ほどの件を根に持っているカグヤはそっぽを向く。

「まあまあ」

俺は仲裁に入り、香純へ事の経緯を説明する。

「なるほどね。それなら明日城新まで行ってみようよ」

唐揚げを口に放り込みながら香純はそんな提案をする。

「城新ですか?」

「うん。市の図書館が最近改装されて広くなったみたい」

オシャレなカフェもあるんだよーと香純は目を輝かせる。

確かに図書館であれば問題の答えが見つけられそうだ。増築されたということはそれに応じて蔵書の数も増えているのだろう。それと明日は水曜日、ちょうど姫乃家具屋の定休日だ。

「そうですね。行ってみましょうか」

カグヤは同意の後、はたと疑問を口にする。

「あれ?でも二人とも講義があるんじゃ・・・」

「俺はもう夏休みに入った」

「私もー」

得心するかと思いきやカグヤはキョトンとした顔をしている。

「期末テストとかあるんじゃないの?ナツキくん・・・バイト出てて大丈夫だった?」

そういうことか。それなら心配無用だ。

「一応普段から勉強してるからな。多分、大丈夫だろ」

他にやることもないしな。大学生というのは存外暇だ。

「え!?ナツキ勉強できるんだ!?意外」

「失礼な」

「ナツキくん・・・中学の時は赤点ギリギリだったのに・・・」

俺とは違いカグヤは勉強がよくできた。確かに中学の時は補修を回避するためによく彼女を頼っていたが・・・

「む、昔の話だろ」

イジリから抜け出すべく俺は席を立つ。

既に腹は満たされていたのでコップだけを持ちドリンクサーバーへ向かう。

明日の予定は決まった。暁彦さんの遺したパズルが解ければ良いのだが。


2-1-8

平日の朝にも関わらず城新の駅前は人通りが多かった。市街地である城新は俺の住む柏町から3駅のところにある。

駅前には商業ビルが立ち並び、見知った飲食店や娯楽施設のロゴが自然と視界に入ってくる。窓ガラスに反射する陽の光が眩しかった。

時刻は午前10時、通勤ラッシュのタイミングは過ぎていた。それでも駅では色々な人とすれ違う。買い物に出てきた主婦や俺と同じく夏休みに入った大学生グループ、他県から出張してきた会社員ーー装いと雰囲気からの想像でしかないが。

・・・あそこからバスに乗るんだっけ。

東口を出て広場を抜けるとターミナルが見えてくる。タクシーや待ち合わせの車が行き交っていた。

「ナツキ、おはよ」

ふと背中から声をかけられる。オフショルダータイプの水色のブラウスとデニムパンツを着こなしていた。カウレザーのクラッチバッグが上品かつ軽快な印象を強めている。

香純はいつもの朗らかな笑顔を俺に向けてくれた。陽光を受けた彼女の表情は今日は一段と輝いて見える。

彼女とは通学時に顔を合わせることはあるが今日のように朝から市街地へ遊びに出かけるというのは初めてのことだった。

今の俺たちは他人からはどう見えているのだろうか・・・なんて考えるのは流石に浮かれ過ぎか。

「おう・・・おはよう」

そんな感慨を気取られないよう努めていつも通りのトーンで挨拶を返す。

「どうしたのボケっとして?」

どこかぎこちなさが残ってしまったらしい。香純は変なのと屈託なく笑う。

フレグランスが甘くフワリと香り、鼻腔を擽ぐる。厚底のサンダルを履いているせいかいつもよりも距離が近い気がする。

「と、とりあえずバスターミナルまで行こう」

ペースを取り戻すべく俺は視線をターミナルに戻し、歩を進める。

「こっちじゃない?」

香純は俺の足とは逆方向を指し示す。バス用のターミナルと乗用車用のそれは区別されているようだ。

イニシアチブの奪取にあえなく失敗した俺はUターンをする。なんか情けない。

「カグヤちゃんも同じバスかな?」

「多分、一応もう一本余裕はあるけど」

今日は市立図書館で現地集合ということにした。もっとも、3人とも経路が同じであり、電車とバスの本数はそう多くないので結局は同じ時間のものに乗ることになりそうだ。

「昨日コピーもらったパズルだけど」

「ああ、どうだった?」

昨日の今日だったが穴埋めをトライしてくれたようだ。待合ベンチに腰掛けた香純はスマフォを操作し画面に解きかけのパズルを表示させる。

「ちょっと分からなかったからナオにヘルプ頼んだんだ。いくつか埋まったよー」

「おー流石だな」

香純の弟である直行は高校2年生だが、全国模試で上位に食い込むほどの秀才だ。個人の趣味で色々な分野の本を読み漁っていることもあり、こういった問題への対応力が高いのだろう。

残りのカギは4個か。これから3人がかりで渉猟すれば全部埋められるはずだ。

「香純さん、ナツキくん。おはよう」

凛とした声が耳朶に響く。

顔を向けると純白のワンピースを纏った幼馴染の姿があった。長い黒髪を赤いリボンでまとめサイドに垂らしている。

服装と髪型が違うせいか業務に臨む時とはまた違った印象を受けた。こちらの方がより年相応という感じがする。そして、晴天の元で佇む雪のように白い少女の姿には超然とした美しさと儚さが同居していた。

「カグヤちゃん!おはよー」

合流したカグヤに香純は熱い視線を送る。いつもと違う装いが琴線に触れたのだろう。

身の危険を察知したカグヤは一歩身を引き香純へ警告する。

「香純さん・・・衆人環視の中で抱きついたりしないでくださいね」

「や、やだな。カグヤちゃん・・・そんなことしないって」

だからこっち来てと香純はベンチへ手招きする。

そんな言葉を鵜呑みにするはずもなくカグヤは香純との間に俺を挟むように位置取り、距離を取った。

「ナツキくん。盾になって」

「堂々と人を盾扱いするな」

「そうだ、カグヤちゃん。私、お菓子持ってきたんだ。一緒に食べようよー」

香純はバッグをゴソゴソと漁りながらベンチの隣席をポンポンと叩く。

「そんな見え見えの罠・・・」

「その手には・・・もう乗りません」

「あ、一度は引っ掛かってたんだ」

今の俺たちは他人からはどう見えているだろうか。

やはり気の置けない友人と表するのが最も適当なようだ。



城新市立図書館は駅からバスで10分のところにある。

調べ物をする程の勉強熱心ではない俺の性情と自宅から電車とバスを乗り継がなければならないというアクセスの悪さから、今日まで利用したことはなかったのだが、実際に訪れてみるとそんな固定観念にも揺らぎが生じる。

「随分とまぁ・・・」

全面ガラス張りになっている図書館から外の景色を眺め言葉を探す。

4階まであるフロアは吹き抜けになっており立ち並ぶ本棚の圧迫感が中和されている。それどころか大きな博物館に来たかのような高揚感さえ感じていた。

また、各フロアの至る所にソファや椅子が設置されており、本棚から取った本がすぐに読めるようになっている。1階ではカフェと書店が営業しており、図書館で借りた本を読んだり関連書籍等を購入することもできるようだ。

平日にも関わらず利用者は多い。皆が皆、自分のお気に入りの席で本の世界に没頭しているようだ。

「オシャレだな」

月並みな表現だが、自然とそんな感想が漏れた。俺の中での『どこか役所然としていてつまらない場所』という図書館のイメージが書き換わりつつあった。

・・・今度時間がある時に来てみるか。

元々読書は嫌いではない。いや、まぁ特段好きでもないが雰囲気の良い場所で本を読むというのはオツなものだ。うん、こういうことを考えている時点で読書家としては三流な気がしてきた。

受付横に設置された図書検索用の端末を操作し目当ての本を探し出す。目当ての本と言ってもクイズの問題文を検索ワードに入力し、俺でも読める易しそうなタイトルをタップしただけである。

俺たち3人は残りの問題をそれぞれ分担し関連しそうな書籍を片っ端から当たるという手法を取ることにした。意味合いから単語や人名を当てるというタイプの問題であるためやや非効率的なアプローチになってしまう。

俺は本の詳細情報を印刷し、その保管場所へと向かう。

「あれは・・・」

本棚を通り過ぎようとすると、視界に見覚えのある人影が映り込む。ピンと爪先立ちになり本棚の最上段に手を伸ばす幼馴染の姿があった。

「これか?」

細い指先が示す一冊の本を棚から取る。

「あ、ナツキくん・・・ありがと」

礼を言いながらカグヤは俺から顔を逸らす。そして、俺の介入によってできた本棚の隙間に目をやる。

「ナツキくんの助けがなくても・・・取れました」

そして悔しそうに拳を握り俯いてしまう。

「いやいや、そこ張り合うとこじゃないから」

カグヤは身長が平均より低いことを気にしている。最上段の本に手が届かなかったことに謎の敗北感を覚えているようだ。

「図書館とか本屋の本棚って背が高いものが多いだろ?そこまで気にすることもないと思うけど」

「情けは・・・無用です」

うーん、変なスイッチが入ってしまったようだ。いつもクールで大抵のことには動じない彼女だが、身長の話題に関しては地雷なのだ。

「俺は2階に行って歴史関係の本取ってくる。予定通り1階のテーブル席に集合で」

「・・・分かった」

こういう時はそっとしておくのが一番だ。

俺は手に取った本をカグヤに手渡す。タイトルは・・・『道路の日本史』



「最後の答えは・・・大越国!」

本と睨めっこしていた香純はガバッと顔を上げ紙面に答えを書き込んでいく。

「他のカギとの不一致は・・・なさそうですね」

念のためにカグヤが答えを検める。間違いはないようだ。

挿絵(By みてみん)

「後は番号が付いている枠の文字を繋ぎ合わせる感じか」

番号順に文字を並べることで意味の通じる言葉になる、懸賞の答え合わせなどでよく見られる手法だ。

「でもこれってアルファベットと数字、ローマ数字の3種類があるよね?」

香純がもっともな指摘をする。

アルファベットはH,S,T,Rーー数字は1から9まで、ローマ数字はⅠからⅪまで振られている。

「うーん。とりあえず順番に並べてみるか」

「そうだね」

HからRをアルファベット順に並べると・・・ルウへン

1から9を順番通り並べると・・・アサツリエスルフホカ

ⅠからⅨを順番通り並べると・・・スイトウキダエフイテン

「まったく意味が通じないねー」

「そうですね・・・」

カグヤも頭を悩ませているようだ。

「念のため聞くけど問題ってこれだけ?」

素直に順番通りに並べてダメとなると何らかの法則性があると考えるべきだろう。そして、その法則性ーーあるいはそのヒントが視覚外にあった場合は手も足も出ない。

「そうだと思う。お父さんはこういうの作る時は決まって紙1枚に収めてたから」

「なるほど」

絶対とは言えないものの参考にできる証言だ。

「組み合わせで何か言葉を作るとか?例えば・・・カグヤ・・・」

「『グ』と『ヤ』がないな。何より法則性がないとなんとも・・・」

カタカナの組み合わせで言葉を作る、というところまでは良いと思う。問題はどれを使ってどう並べるかだ。

「そーいうナツキは何か思いついたの?」

香純の推測を否定すると反問を受けてしまう。

「そう言われると・・・うーん・・・数字とローマ数字を対応させるとか?明日アス・・・サイ・・・ツト・・・?」

「ちょっとしんどくない?」

「だな・・・」

咄嗟に浮かんだことを差し引いてもお粗末な仮説だった。

それに今更ながら『1-1』と『1-2』ってなんだ?

「カグヤは・・・何か思いついた?」

こういう場面でもっとも鋭さを発揮するのはカグヤだ。出題者の娘でもある彼女なら何か手がかりが掴めるものと思ったが。

「さっきから色々考えてるんだけど・・・ダメみたい」

カグヤは小さくかぶりを振った。口調こそ冷静だったが目には悔しさが滲んでいる。彼女の負けず嫌いな一面が顔を覗かせていた。

「一先ず・・・今日はここまでかな。ご飯食べに行こうよー」

「あ、もう12時過ぎ・・・そうしましょうか」

香純の提案にカグヤも応じる。

「ま、当初の予定は達成できたし良かったんじゃない?」

これ以上考えたところで妙案は浮かびそうもない。

俺たちは本の森から抜け出すことにした。


2-1-9

「今日は楽しかったねー」

「なんだか終日私の用事に付き合わせてしまったような・・・すみません」

「そんなことないって!」

カグヤの家で夕食をご馳走になった俺たちはコーヒーを啜りながら今日一日を振り返る。

図書館での用事を済ませた俺たちは城新の街を散策することにした。昼食は香純の行き付けのイタリアンレストランで摂り、午後は色々な店や娯楽施設を周った。

行き先について最も多くの要望を出したのは意外にもカグヤだった。城新を歩き慣れている香純がリクエストに沿うような店舗をリストアップ、主体性のない俺は2人に付き従う形となった。

服飾店やコーヒーショップ、本屋それから映画館・・・カグヤは年頃の女の子らしくーーいや、あるいはそれ以上にーー街で出会うもの一つ一つに目を輝かせ散策を楽しんでいた。

中学を卒業してから彼女は寝る間を惜しみ家業を継ぐための努力を重ねてきた。こうして羽を伸ばす機会はそうなかったのだろう。あるいはーー

「ナツキくんは・・・退屈じゃなかった?」

「まぁ・・・服屋はちょっと暇だったけど、それ以外は。映画とか久しぶりに見たら面白かったし」

不安そうに俺の顔を覗き込む幼馴染へ率直に返答する。それを受けたカグヤは胸を撫で下ろし笑った。

「そっか・・・」

あるいは近しい友達との交遊を楽しんでいたーーなんて考えるのは俺の思い上がりだろうか。

コーヒーとお茶菓子をお供に暫く談笑する。映画の感想、今日買ったモノの品評、次はどこに出掛けるかなど他愛もない会話が続く。

「ああ、そうだ。移動する家具とかあれば手伝うよ」

先日のやり取りを思い出し俺はカグヤにそんな提案をした。彼女は両親の遺品整理を始めたと言っていた。それに伴って処分する物品もあれば家具や家電の位置に変化が生じもするだろう。

「ありがと・・・でも、悪いよ」

「遠慮するな。夕飯のカレーと食後のコーヒー分くらいしか働くつもりないから」

「私も手伝うよー」

カグヤは暫しの思案の後、じゃあお言葉に甘えてと俺たちに向けて指示を出す。

手をつけるのは暁彦さんと春香さんの部屋が中心だ。処分するものと自身で使うもの、形見として残しておくものの選別は完了しているらしく、それらを然るべき場所へと運ぶのが俺たちの仕事となった。暁彦さんの部屋は俺が担当、春香さんの部屋はカグヤと香純が担当、必要に応じてカグヤが指示を出すという建て付けだ。

「この箱は処分品?」

段ボールと共に積まれていた箱について確認を取る。中にはフラスコのようなガラス製の器と金メッキで装飾された器具が詰め込まれていた。

「えーと。それはキッチンでお願い」

「了解。それにしても・・・何これ?」

「これは・・・サイフォンだね。コーヒー淹れるのに使うみたい」

なるほど。確かにオシャレなカフェにはこんな器械があるような・・・気がする。行ったことはないけどテレビで見た・・・気がする!

暁彦さんはこれを使ってコーヒーを淹れていたのか。

「随分と本格的だな」

「それが・・・買うだけ買って満足しちゃったみたい」

「なんだそりゃ」

思わず力が抜けてしまう。改めて観察すると、器具には本来付くであろう汚れや摩耗が一つも見られなかった。

思いつきで高い買い物をして春香さんに詰められる暁彦さんの姿が目に浮かぶようである。

「お父さんの分まで使わなきゃと思って」

カグヤはお調子者の父に向けてやれやれと肩をすくめる。大人ぶった幼馴染のーー娘の姿が少し微笑ましかった。

サイフォンの入った箱をキッチンに運び、その後も指示通り部屋のものを搬出していく。

「あとはこれだけか」

かつて暁彦さんが暮らしていた六畳間には座卓とノートパソコンを残すのみとなった。故人の生活の痕跡はすっかり消えてしまった。

胸の内に寂寞とした感慨が去来する。子供の頃、俺はこの家でよく遊んでもらったから。

暁彦さんが作ったクイズやパズルーーいくら考えても解けない時、カグヤはよくムキになっていたっけ。そして、夕飯も食べずに問題に向き合って春香さんを困らせていた。

・・・あれ?

天啓が降りた。あるいは魔が差したという表現が正しいだろうか。

クロスワードパズルのカギについて、俺はある共通点に思い至る。共通点といっても『だからなんだ』という程度の些細なものだ。

俺はポケットからパズルとクイズが印刷された用紙を取り出し、念の為の確認をする。

・・・やっぱり。

そうなると少し奇妙だ。何故暁彦さんはこんな出題をしたのか?

その答えは多分ーー

俺は暁彦さんの部屋に踏み込む。

「ーーッ」

突如、胸ポケットに入れたスマートフォンが振動する。思わず悪戯を咎められた子供のようにビクついてしまう。

着信を受けたようだ。母さんだろうか?夕飯を外で食べることは事前に伝えたはずだが。

「東雲さん・・・?」

電話の主は意外な人物だった。


2-1-10

東雲さんーー姫乃家具屋と契約しているフリーの経営コンサルタントだーーからの用件は『ある人物に俺の連絡先を教えても良いか?』というものだった。東雲さんはカグヤの身の上を知っており、ビジネスとプライベートの両面で彼女を気にかけてくれている。そんな東雲さんのことを俺は全面的に信頼していた。もっとも、彼女曰く『クライアントの精神衛生のケアも仕事の内』ということらしいが。

「わざわざ城新まで来てもらって・・・ごめんね」

俺の連絡先を知りたがっているある人物というのはカグヤの叔父さんーー姫乃夕貴さんだった。

実は俺は夕貴さんとは何度か会っていたーーらしい。子供の頃、カグヤの家に遊びに行った際に何回か挨拶を交わしたと教えてもらった。自分の記憶力の悪さを嘆くと同時に、姫乃家具屋で感じた既視感の正体に納得もしていた。

「いえ・・・ちょうど図書館に用事があったので」

「そうか。急に呼び出してごめん。仕事の都合上、このタイミングしかなくて・・・」

城新の駅近くにあるカフェの一席で夕貴さんは俺に低頭した。

自分の親と同じ年代、それも顔見知りの男性に頭を下げられ恐縮してしまう。

夕貴さんは先日と同様スーツを着ていた。出張先での仕事がある中でどうにか時間を作ったのだろう。

「いや、謝ってばかりじゃいけないな。今日はお礼がしたかったんだ」

夕貴さんは居住まいを正し、こちらを見据えた。

「姪をーーカグヤを助けて頂いて有難うございます。武宮くんがいなかったらカグヤはーー潰れていたかもしれない」

大体の経緯は東雲さんから聞いたのだろう。温厚そうな瞳に誠実さを携え夕貴さんは俺に感謝を示してくれる。

しかし、俺はその感謝を素直に受け取ることに抵抗を覚えた。

「俺は何も・・・」

俺はただのアルバイトであり友人だ。俺がやったことと言えば日々の業務をこなすことと、ただ自分の感情を彼女に伝えたというだけなのだ。

俺の否定に夕貴さんもまた否定を返す。

「先日、店を訪れた時の2人を見て思った。あの子は君を信頼している。良い友達を持ったんだなと安心したよ」

そう言って俺に温和な笑みを向けてくれる。

「・・・本来は僕があの子を助けてやらないといけなかったのにな」

一拍置いてその笑みは自嘲的なものに切り換わった。

夕貴さんの中で長年に渡って堆積した心のしこりなのだろう。

「僕はあの子を信じてやることができなかった。僕自身勤め人だからかな。自然と自分の考えられる範囲で物事を考えていたんだろう。つまらない価値観で彼女を縛ってしまった」

その言葉を俺は肯定も否定もできなかった。

俺はカグヤのーー友人の選択を誇りに思っている。俺は自分の夢を叶えることができなかった。だから彼女が夢を叶え、家業を継いだことが嬉しかったのだ。

一方で夕貴さんの考えも理解できる、つもりだ。

15歳の少女が明日から経営者にーーおよそ現実的な話ではなかった。最悪の場合、カグヤ自身の手で姫乃家具屋を廃業に追いやることになる。その時、彼女はきっと自分を責めるだろう。

夕貴さんは家業より家族をーーカグヤを守ろうとしたのだ。

それを『つまらない価値観』だなんて思えるはずがなかった。

「あ、ごめんね。愚痴に付き合わせてしまった」

重苦しくなった空気を夕貴さんは慌てて打ち消す。

それからは俺の大学での生活、夕貴さんの学生時代の思い出、夕貴さんの娘ーー小夜ちゃんといって何回か遊んだことがあったーーの近況など取り止めのない会話に終始した。

「今日は本当にありがとう。良ければこれからもあの子の友達でいてやってください」

そう言ってテーブルに置かれた伝票を確認する。今日の面会はこれで終了ということか。

夕貴さんの考えとカグヤの選択ーーどちらが正しいのか俺には決めることはできない。

しかし、2人がーー家族がすれ違ったままで良いとは到底思えなかった。

「えっと・・・夕貴さん」

夕貴さんは伝票から顔を上げた。

「カグヤは言っていました。叔父さんに謝りたい、と」

一昨日のカグヤの言葉をそのまま口にする。

俺が伝えたいことーーそれはカグヤは夕貴さんを恨んではいないと言うこと。

それからーー

「そうか・・・本来、僕が謝らなければならないのにな」

「ーー」

自信なさげに視線を逸らす夕貴さんに向けて俺はある言葉を発する。その言葉を受けた夕貴さんはまるで魔法にかかったようにピタリと固まった。

「なんで・・・その言葉を?」

「信じてください。この言葉に込めた貴方の想いを」


2-1-11

座卓に置いたスマートフォンを見つめ私は小さく深呼吸をする。

・・・しっかりしろ。

叔父に電話する。ただそれだけのことで怖気付いてどうするのだ。

それに後ろめたさを感じるのは自業自得だ。

『もう・・・どっか行って・・・』

なんであんなことを言ってしまったのだろう。

叔父の言葉が私の将来を考えてのものだったということは少し考えれば分かった。

私の夢があまりに無謀で非現実的だったことはあの後、身を以て知った。

そして、両親の死に改めて向き合ったことで叔父もまた兄を喪った悲しみに耐えていたのだと思い至った。

あの日の私は自分の身に起きた悲劇に嘆くばかりで周りが見えていなかったのだ。

ちゃんと謝らないと。

意を決して電話帳を開き画面をタップする。

耳元でコール音が鳴る。繰り返し発せられる音に応じて私の鼓動も早くなっていくようだった。

やがて電子音は止む。

『はーい。もしもし?』

「・・・え?」

スピーカーから発せられたのは男性の声ーーではなかった。まだあどけなさが残る女の子のものだ。

「もしかして・・・小夜?」

『え・・・っとお姉ちゃん?』

従姉妹の姫乃小夜だった。彼女は昔から私のことを『お姉ちゃん』と呼ぶ。

どうやら叔父さんのスマフォではなく家の固定電話にかけてしまったようだ。

「・・・うん。久しぶりだね、小夜。元気だった?」

発した声が弾んでいることを自覚する。

『え!?本当にお姉ちゃんだ!』

約4年振りの会話に小夜も感激してくれる。連絡を絶っていた事実に胸が痛んだが、同時に従姉妹が今もなお好意を向けてくれることが嬉しかった。

『私は元気だよ!お姉ちゃんは元気?ちゃんとご飯食べてる?それから・・・えっと・・・』

小夜は矢継ぎ早に質問を飛ばす。

今まで抑えていた想いが堰を切って溢れ出しているかのようだった。私を慮ってあの日から感情に蓋をしていたのかもしれない。

「うん。元気だよ。ご飯もちゃんと食べてるから安心して。そうだ、今度泊まりに来てよ。ゆっくり話そ?」

『でも・・・お仕事忙しいんでしょ?』

小夜は恐る恐るといった調子で尋ねる。どうやら余計な気遣いをさせてしまったようだ。自分の至らなさを改めて自覚する。

「大丈夫だよ。今は手伝ってくれる人もいるから」

『分かった!』

従姉妹は屈託のない返事をしてくれる。

「小夜、お父さんに用事があるんだけど・・・代わってもらえる?」

『うん!』

お父さーんと遠くで声がしてから数秒後、話し手が代わる。

『もしもし?』

「叔父さん・・・急にーー」

すみません。そう続けようとしたところで遮られる。

『カグヤか?丁度かけようとしてたんだ。もしかして、もう届いた?』

「え?」

叔父さんの声は先日の来店時に比べると明るいものだった。シリアスな話し合いになると勝手に覚悟していたため肩透かしを食らったような心境だ。

そして届いたとは何を指してのことだろう。咄嗟に思考を回すが心当たりはなかった。

『時間指定にしたからそろそろだと思うんだけど・・・』

ピンポーン

突然インターホンがリビングに鳴り渡る。時刻は20時を回ったところだ。こんな時間に来客だろうか。

「えっと・・・誰か来たみたい。出てくるね」

『うん。僕からの荷物だと思う』

「荷物?何か送ってくれたの?」

『開けてみてからのお楽しみ』

そう言って叔父さんは電話越しに小さく笑った。

スマフォを持ったまま1階の玄関まで下りていく。扉越しに来訪者の素性を質すと叔父の言う通り運送業者だった。

「えー姫乃かぐやさんですね」

「は、はい」

「今荷物をお持ちします。少々お待ちください」

そう言って配達員はトラックまで戻っていく。数秒後、私の半身ほどのサイズの段ボールが目の前に置かれた。

「有難うございましたー」

半分訳が分からないながら受領印を捺しトラックを見送る。

差出人にはやはり『姫乃夕貴』の名前があった。段ボールは見た目に反して軽かったが、依然として中身の見当がつかない。

箱の中の正体を確かめるべくカッターナイフで開梱を行う。

「これって・・・」

段ボールと箱の内の梱包材を取り除くと中からは1脚の椅子が姿を現した。

ナラの木の温かみが感じられるアームチェアだった。装飾の一切ないシンプルなデザインながら決してチープさを感じさせない。洗練された引き算の美しさがそこにあった。

・・・いや、それよりもーー

私は背もたれに刻印された文字列に目を奪われる。

『”Helianthus (ヘリアンサス)”』

ソフィアちゃんとーー本棚と同じく名前を彫ったのだろう。

「そっか・・・」

この時、私は全てを悟った。

『本当は言うべきことは他にあるんだろうけどーー』

叔父は優しく私に語りかける。本棚をプレゼントしてくれたあの日と同じように。両親を喪い、悲嘆に暮れていた私に帰ろうと言ってくれたあの日と同じように。

『よくやったな、カグヤ。兄貴のーー僕たちの家業を守ってくれてありがとう』

ーー違う。

叔父の暖かさに胸が一杯になる。涙が溢れ、喉元が熱くなる。

私はワガママを通しただけだ。運良く事業が軌道に乗っただけだ。友人に助けてもらっただけだ。

だから私が言うべき言葉はーー

「叔父さんーー」

『違うよ。カグヤ』

どこかから、そんな声が聞こえた。とても優しくて暖かくてーー懐かしい声だった。

私は出かかった言葉を飲み込み、嗚咽混じりの声で伝える。

「ありがとう」


2-1-12

「ナツキくん」

クローズ作業を終え後は帰るだけというところで呼び止められる。

「お疲れ様。コーヒー飲んでいって」

店内の電気が再び点灯する。作業机にはマグカップが2つ置かれ湯気を立てていた。芳醇な豆の香りが自然と気分を落ち着かせた。

「おお、どうも」

暁彦さんが遺したサイフォンを使って淹れたものだ。器具の使い方にコツがいるようで今は練習中らしい。

カップの三分の一程度に注がれたコーヒーを口に含み、よく味わう。

「口当たりが良くて飲みやすいけど・・・」

「反面、特長?がないような」

カグヤはうーんと唸る。彼女自身、満足できる出来栄えではなかったようだ。

「ところでナツキくん」

本題、とばかりにカグヤは俺の顔をじっと見つめる。

「お父さんのパソコン、勝手に見たでしょ?」

「・・・すまん」

「ルール違反じゃないけど・・・人としてどうかと思うよ?」

「・・・ごめん」

正論でしかなかった。俺はカグヤからの非難を甘んじて受ける。

遺品の整理をした日、俺は暁彦さんのノートパソコン内のデータを閲覧していた。パスワードはパソコン本体に貼ってあった付箋に書いてあり、セキュリティは緩かった。

魔が差したーーと表現する他ない。ただ、それはとある仮説に基づいてのものだった。

暁彦さんのクロスワードパズルから読み取れた共通点ーーそれは高校の授業で習う言葉や単語がカギになっているということだ。

田沼意次は日本史、テルルは化学、他の問題も全て高校で習うものだ。

レストランで夕食を摂ったあの日、カグヤはクロスワードパズルを『埋められなかった』と言った。カグヤは中学を卒業した後、高校へ進まなかった。多忙で問題に取りかかれなかったのではない。知識がないからーー習っていないから埋めることができなかったのだ。

では、暁彦さんは何故そんな問題を作成したのか?自分の趣味のためであればわざわざ高校での学習範囲という縛りを設ける必要はない。

考えられる仮説ーー暁彦さんは高校生のカグヤに向けてあの問題を作った。

そして、クロスワードパズルは手書きではなく印刷されたものだ。ならば暁彦さんのパソコンには印刷前のデータと何らかの手がかりが保存されている、と踏んだのである。

「私もパソコン確認してみた。保存されていたのはクロスワードパズルの元データと・・・椅子の図面」

そう、暁彦さんーーと夕貴さんはカグヤへのサプライズを企てていた。彼女の16歳の誕生日にプレゼントを贈ろうとしていたのだ。予め椅子の製作を進め、誕生日の数日前にパズルを出題、当日に答え合わせとプレゼント贈呈というのが計画の全貌だったのだろう。

クロスワードパズルを解く最後のカギは彼女の誕生日だ。カグヤの誕生日は10月15日ーーそして、16歳を迎えるのは西暦2021年、元号に直すと令和3年だ。履歴書等で令和はRとも表記される。

R31015ーークロスワードパズルからこの番号を抜き取ることで浮かび上がる言葉はーー

「ヘリアンサスーー私の誕生花」

暁彦さんの死後、夕貴さんはなお椅子の製作を進めた。しかし、完成品を姪に贈ることができなかった。

それは多分、製作者である夕貴さん自身が名前に込めた想いを信じることができなかったからだ。

“Helianthus (ヘリアンサス)”ーー俺はこの言葉の意味が分からなかった。夕貴さんとの面会の前に図書館へ立ち寄ったのはそれを調べるためだ。

“Helianthus (ヘリアンサス)”とは花の名前だ。和名ではヤナギバヒマワリ、9月になると鮮やかな黄色い花を咲かせる。

花言葉はいくつかある。この場合相応しいのはーー

「『輝かしい未来』だって。ちょっとこそばゆいね」

「良い言葉じゃん」

そう、それともう1つはーー

カグヤはヘリアンサスに身体を預け照れくさそうに笑う。

『君のそばにいる』



「そーいや、サキっていつ来るの?」

ふと、もう一人の幼馴染の顔が浮かぶ。

「どうなんだろ。具体的にいつとは聞いてないし」

笹木沙妃、小中学校での同級生だ。高校進学を機にアメリカへ留学してしまったが、そろそろ帰ってくると聞いていた。

「8月入ったしそろそろ帰ってきてもいい頃だけどな」

彼女の近況についてはあまりよく知らない。カグヤ曰く進学の折に帰国し都内の大学に通っているとのことだ。

「・・・道中で財布落として帰ってこれなくなってたりして」

カグヤは悪戯を思いついた子供のような意地の悪い笑みを浮かべる。

「流石にそれは・・・ないとも言い切れないな」

俺の脳裏に先日見た卒業アルバムの写真と当時の情景が浮かぶ。

京都に修学旅行で訪れた際、サキは一人だけ電車を乗り間違え奈良まで行ってしまったことがあった。基本的に優等生なのだがどこか詰めが甘いところがあるのだ。

「あの時、サキ半ベソかいてたよね」

カグヤは昔を思い出しクスクスと笑う。

確かにそうだった。でもそれを言うなら・・・

「カグヤもあの時、心配のあまり泣きそうだったじゃん」

半泣きになりながら『一人でもサキを探しに行く』と飛び出して行く彼女をどうにか止めた覚えがある。

想定外の一撃だったのかカグヤの顔が引き攣る。

「・・・な!?あれは・・・」

口の中でゴニョゴニョと弁解するカグヤに苦笑してしまう。

「ま、何にせよ再会が楽しみだな」

「別に・・・楽しみじゃない」

俺の言葉にカグヤはそっぽを向いてしまう。

そして、すっかり暗くなった窓の外をどこか遠い目で見つめる。

『会うの、楽しみ』

横顔が何より雄弁だった、と言ったらやはり彼女は否定するだろうか。

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