第38話 カミーユの事情
カミーユは、乗船前そして乗船後もずっと多忙だった。
主な仕事は、荷物の運搬、船内の清掃、帆を張るまたは畳む、船員の服の洗濯、見張りと多岐に及んだ。次から次へと仕事を言い渡される。学校で航海術を学んだが、そんなものは全く役に立たない環境だ。
肉体を酷使して疲労が蓄積されていく。膝に手をついて大きく深呼吸する。既に体力的にも精神的にも限界に達していた。
そんな集中力、思考力を欠いてふらふらだったところで、人にぶつかった。狭い通路で人にぶつかったのは3度目だった。2度目にぶつかった相手は上長だったので、その時は思い切り罵声を浴びせられた。この通路の狭さを感覚でつかむには時間がかかりそうだと思っていた矢先の出来事だった。
またやってしまったかと自分の不注意さに嫌気が差す。
咄嗟に「ごめんなさい」と謝った先を見ると、何とぶつかった相手はリーファだった。
心の準備が全くできていなかったのと、今の自分の恰好、そして不甲斐なさを見られたくなかったことで、ぶつかった拍子に倒れたのは分かったが、そのままにして立ち去ってしまった。あの時は自分のことで頭がいっぱいで、周りを気にする余裕がなかったが、その行為こそが恥ずかしいものだった。
朝食の片づけが終わり、船底から補充の野菜を運んでいると、目の前からリーファが歩いてきた。通路が狭くてぶつかりそうになる。気付かない振りしてすれ違おうとしたが、そうはいかなかった。朝ぶつかった相手が自分だと覚えていたのだ。
激しい剣幕で声をかけられ、顔が見えないようにかぶっていた帽子を取られた。
それで分かった。
最初にぶつかった時、実は自分がカミーユだと気づかれていたということを。
リーファの言うことは正論だった。リーファは本気で怒っている。その怒りは想像以上だった。頬をぶたれたのは生まれて初めての経験だ。周囲の人は王子という立場である自分に一定の距離を置きながら遠回しに期待の目を向ける。ずっとずっと小さい頃から感じていた。だからこそ、そういう周囲から感じる期待に自分を合わせることをモットーとしてきたし、王子として扱われる特別な雰囲気が自然だと思ってきた。しかし、彼女は違った。自分が王子であることを知らないということもあるが、本気で自分の感情をぶつけてきた。頬をぶたれたが、怒りは全く感じなかった。逆に彼女の悲しそうな目が僕の心を痛めた。その時初めて自分の愚さを悟った。彼女の発する言葉の全てが自分の心に突き刺さる。僕の卑屈さが大事な何かを崩していくなんて考えたこともなかった。反論など思いもよらなかった。謝ることで許してもらえるなら、何度でも謝ろうと思った。
そして、彼女は言った「また会えてよかった、もう会えないかもしれないと思った」と、それを聞いた時、僕の中で何かこみ上げるものがあった。
彼女の真情が、ダイレクトに僕の心に響いてくる。
うれしかった。
王子としてではなく、一人の人間として、自分が必要とされていることを感じた。こんな風にストレートに言われたのは初めてだった。こんなにも真っすぐに生きているリーファを悲しませてはいけない、失望させてはいけない。まだ会って間もないけれど、彼女との絆は大切にしたい、そう強く感じた。
と同時に「もう会えないかもしれない」の言葉がどうにも引っかかった。どういう意味だろう。実のところ、リーファとマキ、二人についてはまだ知らないことがたくさんある。
意味がよく分らず聞き返すと、そんな彼女の目から涙が溢れだしてきた。
頬に伝わる涙を拭う彼女を見て、どう対応するのが正解か分からず困惑したものの、そっと肩に手を添えてみた。女性の肩に手を添えるのは、社交の場ではよくあることだが、プライベートで実践するのは初めてだ。手を置く瞬間はとても緊張した。肩に手を置く、ただそれだけのことだったが、1秒が数時間にも感じられた。手を置いた後も拒絶されたらどうしようと、そればかりが気になったが、拒絶されることなくそのまま受け入れてもらえたので、正直ホッとした。
すると心臓がドクンドクンとむやみに早く動いて、僕をちょっとしたパニックに陥らせた。
無性に周りが気になった。こんなところを他の船員に見られたら、ただでは済まない。通路の奥にまで目を凝らすが、幸い誰もいなかった。そこでようやく安堵した。
彼女の肩に手を置くと、手から彼女の温もりが伝わってくる。時が止まったように感じる。
ずっとこうしていたい気持ちとずぐにでもこの場を離れたい気持ちが揺れ動く。こんな自分を情けないと思うが、自分の情けなさを受け入れるしかなかった。
(世の中の男性はどうやって女性をリードしているのだろう)
どうすることもできなかったが、さすがにいつもと違う様子のリーファに「大丈夫?」と聞くと、小さくコクンと頷いた。
気の利いた言葉の1つも出ない自分に溜息しか出ない。
さすがに、いつまでもこうしている訳にもいかないので、リーファに後できちんと説明すると言って、その場を収めることにした。
肩から手を離すと、突然彼女が落ち着きをなくした。
どうやら、頬を叩いたことを気にしているようだ。僕としては全然平気なのだが、その場の勢いとは言え、冷静に考えるとその行為はやりすぎだと思うのも無理もないだろう。ドンマイって言ってあげたかったが、それだけだと軽い感じがしたので、言葉を選んで「君は君のままでいいんだ」っていう気持ちを伝える。
僕の伝えたい言葉が彼女に伝わったかどうか。
彼女は不思議そうな顔をしていたが、とりあえず納得してくれたようだった。
安心感と照れ隠しで、「スクリューパンチだったら...」なんてつい口が滑って言わなくてもいい余計な一言を言ってしまって、リーファの機嫌を損ねてしまった。あれは浅はかだったと思う。
怒った横顔を見ながら思う。
(本当に元気でよかった)
それを伝えると、リーファも「私も。私だって感謝してる。あなたが来てくれたことに。あなたがここにいることに。あなたに出会えたことに...」と言って、そんな形で僕に感謝を伝えてくれた。
それを聞いただけで、意を決して船に乗り込んだことが間違いではなかったと安堵した。と同時に感情を前面に出してくる彼女とのコミュニケーションにも少しだけ自信が持てた。
これから幾多の苦難が目の前に現れるだろう、でもリーファと一緒なら、ハイドライド達仲間がいれば乗り越えられる、そんな風に感じる自分がいた。
カミーユも口にこそ出さなかったが、心の中で、二人の出会いに感謝した。
別れ際、彼女は振り返って言った。
「カミーユさん、その服それはそれで案外似合ってますよ」と。
お世辞なのだろうか、本気なのだろうか、どちらともとれる微妙な感じの口調で一瞬考えてしまったが、どちらでもいい。そこを考えて結論を出すことに意味はない気がする。いい方に解釈することに決めると、野菜の入った箱を手に持って、食堂へと向かった。
いつも「永遠の人魚姫」をお読みくださり、ありがとうございます。
小説を書くと言うのは、根気のいる作業だな、とつくづく感じます。
今日も、コーヒー片手に机にかじりついてパソコンと向かい合ってます。
少し打ち込んでは止まって、また少し打ち込んでは止まって...くぅぅ。
次回、39話 太陽と海 をお届けします。




