第110話 猛火
「馬鹿な。火の回りが早過ぎる」
イースは立ち上がると、二階に通じる階段を確認する。そこはまだ火が回っていない。
マキも立ち上がり、階段に向かおうとして、足に違和感を覚えた。じんじんとした痛みに思い切り顔を歪める。
(痛い)
どうやらイースを止めるため体を抱えた時に左足首をひねったらしい。左足首に激痛が走っている。
イースはマキの様子から、足の異常があったことを知って肩を貸してくれた。
「マキ。大丈夫か。しっかり掴まって」
イースの励ましをもらいながら、二人で階段に向かう。
(こんな時に足をくじくなんて)
マキは情けなくて泣きたい気分になったが、泣いている場合ではない。炎の中から脱出しなければならない。
階段はまだ炎に包まれていなかったが、全ての煙が階段から二階に向かうところに溜まっている。
足の痛みがなければ、一気に走り抜けることもできるが、この状態では歩いている内に煙を吸い込んで酸欠で倒れてしまう。
肩を貸してくれているイースに話しかける。
「イース。私のことはほっといてあなただけでも逃げて。私のためにあなたまで犠牲になるなんて、そんなのはダメ。私は満足に動けない。あなた一人ならこの状況を切り抜けられる。行って、イース」
「何を言っているんだ。僕はあなたのお陰で命を救われた。あのままドラコを追っていたら間違いなく爆発に巻き込まれて即死だった。そんな命の恩人を置いて自分だけ助かろうなんて、できる訳ない。諦めてはダメだ。絶対僕がマキを救い出してみせる」
イースは必死の形相で、マキを説得するとそのままマキを背負った。
ついに階段にも炎が回ってきた。もう時間がない。このまま一気に駆け上がるつもりで1段目に足を掛けたところで階段の上半分が炎に包まれた。
「嘘だろ...」
終わった。万事休す。
脱出の手段を失ったところで、二人は唯一火が回っていない階段下の壁に寄り添って座る。煙が二人の頭の上を通って階段を上がっていく。目の前は炎の海だ。
イースが呟く。
「マキ。ごめん...」
唇を噛み、悔しそうな表情のイースを見つめる。
「ううん。いい。ありがとう。優しいね君は」
自分を責めているであろうイースに精一杯の慰めの言葉をかける。
(あなたが悪いんじゃないから)
(リーファ。ごめん。ドジちゃった)
上の方でガタンと音がした。
「イース、マキー」
私達を呼びかける声がする。ハイドライドが異変を知って駆けつけてくれた。
二階のドアが開いたことで、滞留していた煙が一気に流れていく。
「ハイドライド。ダメだ。逃げろ。煙が充満するぞ。手遅れになる前に早く建物の外に逃げろ」
「お前らは? お前らはどうなんだよ。早く逃げろよ」
「無理だ。出口がない上に、階段は火の海。脱出不可能。罠だったんだ。研究所を爆破させてドラコを殺し、ドラコを追っていた我々も始末することで薬の履歴が抹消される。一石二鳥。爆破に使われた爆弾はソロモンから持ち込まれたものだろう。今回の件はグロティアが絡んでいるとも考えられる」
イースは伝えたいことを一気にしゃべって一息入れると渾身の声をハイドライドに向けた。
「カミーユのことはお前に託す。頼んだぞ、ハイドライド」
「そんな...イース...」
「ここも後5分ももたないな」
イースはマキの体を自分の方に引き寄せると、静かにそう呟いて目を瞑った。
(ルナ。ごめん。人間の前で魔法を使うことは禁止って耳にタコができるくらい言われてるけど、隣の若い命をここで終わらせる訳にはいかないの。魔法、使わせてもらうね)
マキは小さい頃、母に言われた人魚界の掟を思い出す。
私達、王族は強力な魔法を使うことができます。私達が魔法を使えるのは、その魔法で多くの人魚、海洋生物、あるいは人間を救うためです。自分達の私利私欲を満たすために魔法を使うことは厳禁です。これを破った者は魔法力と記憶を消され、王族から追放という厳しい処分を受けることになります。常に心に留めておくように。
(これは私利私欲を満たすことになるのかな。王族追放か。仕方ないよね)
マキは意識を集中する。マキの目がほのかに赤く光った。
「水泡球」
球状の水が現れ、二人をすっぽり包んだ。
球状内の炎は消え、温度が急激に下がっていく。
マキはさらに寄りかかっている壁に手をかざし意識を向ける。
「原子核崩壊」
研究所の壁がパラパラと砂状に崩壊して、人が通れるくらいの穴が開いた。
「よし」
マキはその穴を通って外に出る。
「ハイドライドさーん」
声の限りの大きな声でハイドライドを呼ぶ。
10秒もしない内にハイドライドが姿を見せた。
あれっという顔をしていたが、「イースが中にいる。外に運ぶのを手伝って」と叫ぶと、マキが通った穴からイースを運び出した。
イースを火の届かないところまで運んで行き、仰向けに寝かす。
ハイドライドがすぐさま心臓に手を当てて様子を確認する。
「どお?」
「大丈夫だ。生きている」
「やった」
全身を観察しても火傷したところはないようだ。
後は意識さえ戻れば。
ハイドライドが頬を叩きながら呼びかける。
外に連れ出しても尚、額や首の辺りから汗が噴き出している。
閉じられた目の筋肉がかすかに動いた。
次の瞬間には口から唸り声が漏れて、顔面が苦し気に歪むと吐息の音が聞こえ、次いで声が聞こえた。
「くっ、熱い...」
意識を取り戻したイースを見て、ハイドライドと二人で手を叩き合って喜んだ。
「よかったぁ」
イースは目を開けると左右に目を動かした。
「ここは?」
しばらく虚ろな表情でぼーっとしていたが、突然ガバッと跳ね起きる。
「火は? 爆発が起こって火事になって、火に包まれて⁉」
一気に叫んだと思うと、不思議そうに自分の両手を見つめ、手を顔に当てた。
「無事だ。生きている。助かっている。何故⁉ どうやって逃げた?」
不思議そうに、二人にというか自分に向けて問いを発した。顔は真っ黒な煙を吐き出しながら轟々と燃え盛る研究所に向けられている。
「あれか。穴が開いている」
壁に空いた穴を見つけると、ようやく納得の表情を浮かべる。
その様子を見てマキが説明を加えた。
「もうダメかと諦めた瞬間、近くの壁が爆発して、そこから抜けることができたの。ハイドライドにも手伝ってもらって」
「ああ、マキに呼ばれて駆けつけてみると壁に大きな穴が開いていて、そこからお前を連れ出したんだ」
イースは普段のイースらしくなく、口をポカンと開けている。説明を受けたところで、自分自身が生きていることを未だに不思議に感じているのだろう。
「そうか。あの状況ではもうダメかと思ったけど、偶然と言うか、そんなことってあるんだな」
イースは額の前で両手を組んで瞑目した。生きていることを神に感謝しているのかもしれない。
「マキ、ハイドライドありがとう。もう平気だ」
「とりあえず城に戻ろう」
イースは立ち上がりかけたが、足がもつれてよろけた。
「イース。大丈夫か?」
ハイドライドが慌てて体を支える。
「大丈夫だが、悪い、ちょっと肩を借りる」
イースはハイドライドの肩に寄りかかりながらなんとか歩き出す。
「馬車まで歩けるか?」ハイドライドがイースを気遣う。
イースは曖昧でありつつも気持ちのこもった返事をした。
「ああ」
3人は炎と煙に包まれた研究所に背を向けゆっくりと歩き出した。
マキは歩く度に左足首に生じる痛みに顔をしかめながらあれこれ考えていた。
(イースが言っていた罠っていうのは、当たっているかもしれない。これだけの火事なら、すぐ来ていいはずの防火隊が全く姿を現さない。どう考えてもそれっておかしい)
(あーあ。舞踏会は明後日だっていうのに、この足じゃあ、ちょっと無理かな。困ったわね。折角の舞踏会だったけど、見学ということになるのかな)
(結局何の成果もなく引き上げって言うか負傷者2人だから、成果ゼロどころかマイナスだ。こんなことになるなんて、カミーユとリーファに何ていい訳すればいいかな)
考えれば考える程、憂鬱になってくる。
前を歩く二人の足取りも重い。
3人はようやくの思いで馬車にたどり着くと、鉛の様に疲れ切った体を馬車の椅子の背に預けた。揺れは行きと同じくらい酷かったが、揺れの酷さを感じないほどぐったりしている。歩いている時は馬車の中でいろいろ考えようと思っていたが、いざ乗ってみると強烈な睡魔に襲われ何も考えることが出来なかった。
火事で廃墟と化した研究所の傍らに人影があった。
燃えるものは全て燃え尽くした感じだが、まだ部分的に火がくすぶっている。
「で、見つかった遺体は1体だったと」
グロティアが苛立たし気な声で、クエンカに聞く。
「はい。黒焦げで身元が判明できる状態ではないのですが、おそらくドラコの遺体だと」
グロティアの冷めた目がクエンカと一緒にいる女性に向けられる。
「研究所に潜入したネズミはどうした?」
女性はイース達が見かけた研究所の二階にいた事務員だった。俯きながらバツが悪そうに答える。
「はい。一階に行った時点でドアに鍵をかけたので脱出は不可能と思うのですが」最後の方は聞き取りできるかどうかくらいの小さい声になっていた。
シュラが研究所の壁に空いた穴を指して言った。
「ここから外に出たんでしょ」サバサバした口調はいつもと変わらない。
グロティアは怒り心頭だ。
「予算をケチって手抜き工事をしたばっかりにネズミに逃げられてしまった。折角の計画が台無しではないか。この責任をどうとる?」
グロティアは、大きな声でクエンカと事務員の女性をネチネチ責め立てる。研究所の建築工事とクエンカは全く無関係なのだが、反論などしようものなら、火に油を注ぐことになるので、クエンカは理不尽だと思いながらも唯々諾々と頭上から降り注ぐ文句を受け止めている。
グロティアの怒りなどどこ吹く風で、シュラは穴のぽっかり空いた壁を凝視している。
地面に落ちている壁の欠片を拾って、親指と人差し指でつまんでみると壁の欠片は指の力だけで簡単に崩れた。
「......」
(厚さ5cmの壁がどうしたらこんなにもろくなるのかしら? 温度に関係してる? 壁が温度上昇でもろくなるなんてある?)
(火事で閉じ込められた。出口は火の海で進むことができない。進退窮まった。さあ、どうする? 火事で壁が自然に崩壊した? 脱出のため壁を崩壊させて逃げた?)
(自然に崩壊? そんな訳ないわね。そう都合よく人が通れるくらいの範囲で壁が壊れる訳ないわ。壁は人の意志で破壊された...外部からの力ではなくて内部から)
(予期せぬ密室。火事。5cmの壁。壁自体に異常は見られない。崩壊しているのはココだけ)
(考えれば考える程、訳が分からないわ)
(不可能だけど、1つだけ可能な方法がある)
(魔法⁉)
(魔法を使えば、って言うか魔法以外では説明がつかない)
(魔法を使える者がいる⁉)
(確かめてみる必要があるわね)
シュラは自身の考えをまとめると、城のある方角を目を細めて睨みつけた。
夕陽を浴びた城は、きれいなオレンジの姿を照らし出していた。
言葉と物語には何かを動かす「力」があると思ってます。
言葉や物語が心の奥底に存在する欲求や渇望と共鳴した時、感動が芽生えます。
そして心に芽生えた感動を共有したいと思った時、その言葉や物語に「力」を感じるのではないでしょうか?
書き手のレベルとしてはまだまだですが、いずれそんな小説を世に出してみたいと感じています。




