第102話 ガーナ王の回想① 壊滅する海
カミーユの部屋を出た国王は小さく咳払いをして、斜め後ろを歩くギル・マーレンに向かってささやいた。
「あれで良かったか?」
「はい。いい判断と思います」ギル・マーレンは即答する。
「学校の中だけでは分からないことも多い。偶然の成り行きとはいえ学校以外の事が経験できたのは僥倖だった。カミーユ自身も違う世界を知ったことで、視野が広がったようだ」
「はい。おっしゃる通りです」
「カミーユと面と向かって話すのは久しぶりだったが、随分と言うようになった」王は愉快そうに笑って目を細める。
「だが、結果オーライだからと何をしてもいいわけじゃない。特に上に立つ者は自らが襟を正す姿勢を周りに示さなければならない。今回の処置は、自分が王子であるということ、秩序を乱すようなことはしてはいけないということ、それをカミーユにも強く自覚してもらうことが狙いだ。これを機会に部下へ指導できる器に成長して欲しい」
「陛下の思いはきっと王子に伝わるはずです」
「だといいのだが」
王はコホンッと咳払いをして、ため息を吐いた。
「陛下。1つお聞きしてもよろしいですか?」
「なんだ?」
「アクアマリンという国の存在についてですが、長く外交に携わってきていますが、そのような名の国は聞いたことがありません」ギル・マーレンが上目遣いで尋ねてきた。
「......」
国王の脳裏に昔の記憶が蘇る。
 
18歳の時だ。
丁度、今のカミーユと同じ年齢だな。
あの頃は王子と言う立場であることをいいことに怖いものなしだった。周囲を見下し、傲慢な態度が目についていたかもしれない。
そんな私が初めて味わった挫折と屈辱。そんな中で絶望的な状況を前にしても、あきらめず前を向いて歩く勇気を持つことの大切さを教えてもらった。
どうしようもなく苦しい状況に追い込まれ、心が折れそうになった時でも強くいられるのは、あの時の経験と君の言葉があったからかもしれない。
懐かしい。元気で過ごしているだろうか?
 
-ガーナ王の回想-
大学では成績優秀、某国の国王の令嬢との結婚も決まり、全てが順風満帆で、世界は俺の為に回っているといっても誰も否定できないような無双と言ってもいい状態だった。
ある時、父である国王からデグレトの港の拡張工事をする計画を持ちかけられた。父もようやくこの俺の才能を認め、その才能を活用すべきと認識するようになったと欣喜雀躍した。責任者として意気揚々とデグレトに渡り、港湾部の主要メンバーを集めてすぐに計画案を作った。
計画は完璧だった。完璧だと思った。しかし父からは全否定に等しいダメ出しを受けた。
父の言葉に唖然とした。ショックだった。
(そんな馬鹿な。計画案は完璧な筈だ。甘いって言われても。そんな訳ない)
悔しさに拳を握りしめる。父を恨んだがどうしようもない。
一気に失意のどん底を味あわされた。
計画案のリメイクのために、再度船でデグレトに渡ったが、何から手を付けていいか分からず、意味なく呆然と海辺を歩いていた。
見慣れた海だが、今日の海は悲しみに満ちているような気がした。どんよりと厚い雲に覆われた空も僕の心を象徴しているような気がした。
(いっそ、このままこの身を海に沈めてしまえば楽になるのかな)
「ねえ」
声をかけられたような気がして振り返ると、若い女性が一人こちらを向いて立っていた。
誰もいないと思っていたところで声をかけられたので、かなりびっくりした。心臓が早鐘の様に激しく動いている。
(誰もいなかったはずなんだけど...。びっくりした。人がいたのか)
女性はというと、一見して見惚れてしまう程の美人だ。
うぉっ!と思わず声が出そうになった。
背は自分より少し低いくらい、顔は小さく、見た目は華奢だ。後ろにきれいに結われた髪と大きくてキリッとした瞳からは、見るからに強い意志を宿していそうな印象を受けた。格好はラフだがどこか上品な雰囲気を漂わせている。
ぼんやり女性を観察していると、女性はさらに声をかけてきた。
「ねえ、君。やばい人?」
「はっ?」
(なんなんだ? 初対面の人に向かって”やばい人って”失礼極まりないな。仮にそう思ったとしても、普通は遠慮して口には出さないものだろ。そっちこそ、礼儀知らずの野蛮人か!)
(美人だけど面倒な人は勘弁だな。相手にしたくないけど二人だけの状況で無視、というわけにもいかないし、困ったな)
ガーナはムッとしながら、じっとこちらを見て様子を窺っている彼女に向かい合う。
「やばい? 俺が? 普通だと思うけど」
「ふーん。自分で自分のやばさに気付いてない⁉ それってマジもんのやばさだ」
さすがにちょっとカチンとくる。
(何なんだ)
「あのさー。さっきから何なの? やばいやばいって。俺のどこがやばいのさ」
彼女が俺の顔目がけて真っすぐ指を指す。形の整った綺麗な指だ。
「目。光を失った目が狂気に走ろうとしてる」
「なっ。馬鹿なっ」
何というデタラメな言いがかりだ。
(光を失った目ってところは当たってるかもしれないけど...)
「何焦ってるの? さては図星?」
「何があったか知らないけどさ。自棄はダメだよ」
女性は俺の目を見て諭すように言う。
「自棄なんて起こさねーよ。勝手な事言うな」
(何、勝手に決めつけてんだよ。そして、何苛ついているんだよ俺)
「なら良かった」
俺の剣呑とした雰囲気を交わすように、彼女はふわっと微笑んだ。人を引き込ませる笑顔だ。
「で、ここで何してるの?」
続けて彼女が聞いてくる。
「何でもねーよ。海が見たくなったからここへ来た」
自分でもつっけんどんな返事だなと思ったが、本当のことを話すほど打ち解けてないし、話すのも煩わしかった。
「失恋かい?」
彼女がそう言ってこちらの表情を窺ってくる。何だか楽しそうだ。
「違げーよ。この俺が失恋って有り得ないし」
むきになって返してしまった。
「おっと。聞き捨てならないセリフね。有り得ないってどういうこと?」彼女は口を尖らせて迫ってくる。
「いちいちうるさいな」
彼女は声に険しさを込める。
「あなた何様?」
(恋だの愛だの。庶民のする話といったらそんな話ばかりだ。これだから庶民とは関わりたくないんだよな。おれの悩みはそんな低次元のものとは違うんだ)
「気に障ったなら謝るよ。ごめん。もういいだろ。あっちに行ってくれ」
「何? その態度、超ムカつく!」
彼女は肩をいからせて怒っている。
(なんなんだ、もう。庶民は庶民同士つるんでくれ。俺はこの国の王子なんだぞ。そんな気安く話しかけられる立場の人間じゃないんだ。いっそそう言ってやろうか)
そう思っていると、いきなり彼女が俺の左手を握ってきた。
「あっ!」
「ちょっと黙ってて」
何やら考え込むような表情で彼女は何かに集中している。
5秒くらいそのまま手を握られていたが、彼女がパッと手を離すと、「ふーん」と言ったきり黙ってしまった。
いつの間にか、俺に対する悪感情が治まっている。
彼女が海を見ながら穏やかに語りだした。
「海ってさ、陸から見るといつも同じに見えるけど、毎日毎日変化があって一つとして同じ状態ってないんだよね」
「潮の流れ、温度、水圧、成分、地殻変動、大気の状態。常に変化し続ける海の中で、海に暮らす生物はそれらの変化を察知し、変化を受け入れ生きている。地上の人間が、天候や気温、風の状態を見ながら生きているのと同じようにね」
海について語っている彼女に少し興味を持った。
「君は誰? ここで何をしているんだい」
なんとなくだが、ただの庶民とは違う感じがする。
「散歩」
「散歩?」
「そう散歩。海の調査を兼ねてね。知ってる? 海水の温度が上がってるの。僅かだけれど」
「海水の温度?」
「そう。海の温度。上がってるのよ」
彼女は何か含みのある言い方をする。
「上がっちゃダメなのか?」
「ダメよ。今回の場合はね」
「なんで?」
「海水の温度が上がってプランクトンが増殖しだしている」
「...」
「このままだと、赤潮が発生する恐れがあるの」
「アカシオ?」
「知らないの? そお。もしかして島の人間じゃない?」
「ああ。ガナッシュから来た」
「なるほど。じゃあ、仕方ないか」
彼女は納得する素振りをする。
(アカシオ? アカシオって何だ?)
俺はこの一風変わった彼女に興味を抱いた。
「君は? 海に詳しいようだけど、この辺りの漁師の娘?」
「うーん。まあ、そんなところかな」
少しお茶を濁すように彼女は答えた。
「で、アカシオって何?」
「赤潮は、海水のプランクトンが異常発生する現象。プランクトンは海水中の微生物の総称。プランクトン自体に害はないし、魚はプランクトンを食べて生活してるから、プランクトンが多少増えることは問題ないんだけど、問題は増え方。異常に増殖したプランクトンは魚や貝類を圧迫して、呼吸困難にしてしまうの。プランクトンが異常増殖した海域の魚や貝は全滅してしまう。その現象を赤潮って言うの」
「海の魚が...全滅?」
初めて聞く話だった。俄かには信じられない。
「赤潮が発生した海に住む魚は全滅。そして赤潮が発生した海域にはしばらく魚が寄り付かなくなるわ」
「そんなことになったら、漁師たちは」
「魚が捕れなくなる。お手上げね」
「やばいじゃないか。赤潮」
「このままだとね。だからわざわざ見に来たの。未然に防ぐためには人間にも協力してもらわないといけないと思って」
「人間にも協力してもらう?」
「ああ、この島の人達という意味」
「さっき、漁師の娘って聞いたら、そんな感じって答えてたけど、違うのか?」
「ああ、そこ、突っ込んでくる⁉ さっきは咄嗟に適当に返事しちゃったけど、私はこの島の人間じゃなくて、別のところから海洋の研究のためここに来てるの」
「へえ。どこ? ガナッシュ? トーキョウ? それともソロモンとか?」
「アクアマリン」
「アクアマリン? 聞いたことないな」
「南に行くと小さな島がいっぱいあるでしょ。その内の1つ」
「私の出身なんてこの際どうでもいいわ」
「問題は赤潮よ」
彼女は砂浜に落ちている石を拾い上げると、ポーンと海に向かって投げた。石は放物線を描いて海に落ちる。海面からポチャンと小さな音がした。
「未然に防ぐってどうするんだい?」話を赤潮に戻す。
「プランクトンは海水の栄養分が多い状態で異常増殖するの。工場や家庭からの排水にプランクトンが好む栄養成分が多く含まれている。これらを抑えることができれば相当な効果が期待できるわ」
「ということは? 赤潮の発生を防ぐために工場や家庭を1件1件回って排水を流さないでくださいってお願いするっていうこと?」
「それじゃ、いくら時間があっても足りないし、事情を説明したところで私の言う事を聞いてくれる人なんていないと思う」
(そうだろうな。彼女の言う通りだ)
「だから、島の行政に頼み込んで、法令化してもらう」
そう言って彼女は真っすぐに俺の目を見つめてくる。まるで俺が王子だと知っているかのように。
ガーナ国王の回想です。
回想は来週も続きます。




