第1話 嵐の海
0.プロローグ
僕は人魚を見たんだ。
嵐の中で、海中に沈む僕を抱えて、命の灯が消えかけていた僕を助けてくれた。
女の子の人魚。
そう、あればまぎれもなく人魚だった。
1.嵐の海
-8年前-
一隻の船が、荒波に揺られながら疾走していく。マストに張られた白い帆は折からの強風によって今にもはちきれんばかりに膨らんでいる。
雲は空一面に低く立ち込め、ビュービューという風の音がひっきりなしにこだまする。波の激しさに比例して船の揺れも次第に増してきている。
「くそっ、どうなってんだ」
「さっきまで雲1つない晴天だったのに」
若い船員が空と海を睨みながら、甲板上で苦々し気に大声を上げた。
「海の天気は変わりやすいっていうからな。特にこの海域はそうだ」
副船長のセイジが、声を張り上げ感情を露わに憤る若い船員に諭すように言った。航海を何十回もこなしているセイジはさすがに落ち着いている。
「そっち、もっと力を入れて引っ張れ」
強風が吹きこむ中、副船長の指示の元、数人の船員が慌ただしく帆を畳む作業をしている。
風の勢いが増す。
船内と甲板をつなぐドアが開くと、1人の壮年の男性が駆け寄ってきた。
「副船長、手伝いに来た」
「ああ、ギルか。助かる。丁度、もう一人手が欲しかったところだ」
「荒れるな」
ギル・マーレンが空を見据えてつぶやいた。
「ああ、厄介な風だ。やばいかもな」
セイジが応える。
「王子の容態は?」
セイジがギルに聞く。
「大丈夫だ。なんとか持っている。しかし、この高波では病状は好転するどころかさらに悪化するだろう。医者のフレディが側についているが、嵐の中ではなんともならない」ギルは現状での見解に憶測を交えて答えた。
「この航路が荒れることは分かっていたが、よりにもよって急患で先を急ぐこんな時に。今回ばかりは穏やかであって欲しかった。全く神は無慈悲だな」
セイジはぼやいて天を仰いだが、風はセイジの願いを無視し収まるどころか益々強まっている。
「ギル」
セイジは作業の手を止めてギル・マーレンに鋭い瞳を向けた。
「ああ、言いたいことは分かってる」
「俺は最初から、この海域を通るのは反対だった」
「ああ、お前をはじめ、船乗りは皆、反対だったな」
ギルは、「よっ」とロープをマストに縛り付けると、よろめきながらも話を続けた。
「魔の海域と呼ばれるこの海域は、海を知るものは絶対通らない。この海域に発生する嵐で、過去に何百という船が消息不明になっている。俺だってその話はよく知っている。普通なら、遠回りの迂回路を選択する。普通ならな」
「が、今回は病の王子を一刻も早く医者に見せる必要がある。迂回路は2日の時間を要する。いずれにしても一か八かの賭けだった。苦渋の選択だ。近道を選択した俺の判断が正しかったかどうかは分からない。こんな事態になり、みんなには苦労をかけて申し訳ないと思っている。だが、王子の為にもなんとか乗り切りたい。」
「ああ、分かっている。王子が死んでしまったら、元も子もない」
セイジは額の汗を拭いながら言った。
風に交じって雨も降りだしてきた。
「それは皆分かっている。ただな。俺が納得いかないのは、占い師ベンゲルの野郎さ。奴が王子が助かるにはこの海域を通るしかないって、したり顔でそういって反対意見を封じ込めた。普段からいけすかない奴だと思っていたが、俺達を露骨に馬鹿扱いしたあの態度に、心底腹が立ってる」
さっきまで冷静だったセイジが、この時とばかりに悔しさをぶちまけた。
ギル・マーレンら外交団の中の一部の者が、事あるごとに船員を見下していたことが、船員達にとって大きな不満になっている。
廊下で挨拶しても返さないだとか、出された食事にケチをつけるだとか、ギルは都度、自分達は特別じゃないと注意するのだが、特に占い師ベンゲルは一向に改める気配を見せなかった。そのため、外交団に向けられていた不満はいつしかベンゲル個人に向けられるようになっていた。その不満がここに来て爆発した形だ。
ギルは苛立つセイジを見て思う。
(みんな王子を心配する気持ちと嵐への不安で精神的に不安定になっている。この嵐の中で、皆の不安を少しでも取り除けるように、俺にできることを全力でやろう)
「そうだな。ベンゲルの態度が悪いのは、責任者である私の指導が行き届かないせいでもある。本当に申し訳ない」
ギルは、素直に詫びた。
そんなギルを見て、セイジも言葉を改める。
「ギル。当たり散らして悪かった。お前は本当によくやっている」
セイジが俯いて詫びる。
「不安のはみんな一緒だ。信じよう。王子は必ず助かる。嘆くより、力を合わせて嵐を乗り越えることに集中しよう」
ギルは、自省するセイジを肩を叩いて努めて明るく励ました。
帆を畳む作業が一段落すると、セイジに断りを入れギルは艦橋へ向かった。
ギル・マーレン。
ブエナビスタ王国一等書記官。32歳。国の政策や外交に関与する若き政治家。王をはじめ、周囲がその才能と人柄に将来、王国の柱石となることを期待している。
今回は、ブエナビスタ王国のカミーユ王子が、隣国のソロモン王国に表敬訪問するその帯同責任者として、随行している。
長年交流のある両国は、定期的に使節を送り合うことで親交を深め、今に至っている。
若干10歳のカミーユ王子が、海を越え来訪してきたことをソロモン国王はいたく感激し、滞在中右に左に手厚く歓待された。
ギルも歓待される側として、常に王子の傍らに控え、諸事そつなく対応することができた。王子の訪問も問題なく終えることができ、ブエナビスタへ帰国することになってホッと胸を撫でおろしていたが、困難はそんな矢先にやってきた。
ソロモン王国出航3日後、王子が船内廊下で倒れた。慌てて居室に運び込み、専属の医者に見せたが、体調は急激に悪化し、ついに高熱で動けなくなった。その間、医者はあらゆる治療を試みたが、熱は全く下がることはなかった。
王子の容態が危ないということで、急ぎ王国に戻るため、最短ルートの「魔の海域」を通ることが検討された。この海域を通れば2日早く王国に着くことができる。しかしながら、ほとんどの船員が、口を揃えてこの海域を避け迂回路を通るルートを推奨した。そんな空気で迂回路を通るルートに決定する間際、宮廷占い師のベンゲルが、「王子にとって迂回路は不吉、王子の命を助けたければ近道以外にない」と言い出した。占い師の言葉に場が凍り付く中、王子の命を救う一縷の望みに掛け、近道である「魔の海域」を通る道をギルは決断した。
「船長。どうだ?」
艦橋に駆け込んできたギルは船長を見つけると、状況を聞いた。
「最善は尽くすが、何とも言えん。嵐の規模が大きくなってきている」
船長のゴッグは、真剣な眼差しで目の前の海を見据えながら、ギルに正直な感想を漏らした。
髪に白いものも見えるこの道30年のベテラン船長は何百と航海を重ねて、嵐での航海術も熟知している。無口だが腕は確かだ。その船長が終始、緊張の面持ちで臨んでいることに、今回の嵐の深刻さが伝わってくる。
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