十八 龍の娘
狂乱の時が過ぎ、どこか呆けたような静寂がその場に流れていた。
ココナは大人しくなり仲間のもとに戻ったが、筋肉で膨れ上がった肉体はそのままであった。
ハンスなどは地面に座り込んだ彼女を恐れて、露骨に距離を取ったくらいだ。
それとは対照的に、リデルはココナに抱きついたまま離れようとしなかった。
その表情は痛々しいほど必死で、何かを恐れているようにも見えた。
後に残してきた帝国兵の死骸は、すっかり半透明のスライムに覆われ、ユニの太陽石の明かりを反射してきらきらと輝いていた。
* *
「えーと、何から聞いていいのか分からないけど、取りあえずは説明してちょうだい。
あなたの身に、一体何が起こったの?」
ユニが途方に暮れた顔でココナに訊ねた。
彼女に抱きついていたリデルが、きっとユニを睨みつける。
ユニは何となく自分が酷く無遠慮なことを口にしたような気がして、たじろいでしまった。
「私も――何から説明していいのか、少し混乱しています」
胡坐をかいて地面に腰をおろしたココナが答える。
「まずはこれを伝えるべきでしょう。
私は〝記憶〟を取り戻しました」
「――!」
ユニもリデルも息を呑んだ。
ココナは召喚された時点で幻獣界での記憶を失っていたはずだから、その言葉に驚くのは当然だった。
「じゃあ、あなたは――」
質問を浴びせようとしたユニの顔の前に、ココナは鋭い爪の生えた爬虫類の手を差し出し、その言葉を遮った。
「もう一つ、言わなくてはならないことがあります。
……私は、リデルを騙していました。
もちろん、それは私の意志ではありません。結果としてそうなったということです。
つまり私は、リデルの幻獣ではないのです」
抱きついていたリデルが顔色を変えてココナの顔を見上げた。
「え? 何を言ってるの、ココナ。
あなたは私が召喚したのよ!」
ココナは小柄なリデルの両肩にそっと手を触れ、その身体を引きはがした。
鱗に覆われた指先の鋭い爪が、彼女を傷つけるのを恐れるように、どこかぎこちない動作だった。
「そうではないのです。
私はその……あなたの召喚能力を利用して、この世界に送り込まれたに過ぎません。
だからこそ、私とあなたの間には魂の融合が起こらなかったのです。
こう言うのはとても辛いのですが、私たちが交わした契約は、意味をなさない茶番に過ぎなかった――それが真実です」
「嘘よ! うそ嘘!
私とあなたの心はしっかりとつながっていたわよね?
私たちはずっと一緒だったのよ!
これからずっと二人で生きていこうって、何度も誓ったじゃない!
酷いわ! どうしてそんなことを言うの?」
リデルの小さな拳が、鱗に覆われたココナの身体に打ちつけられ、ぺちぺちと頼りない音が響いた。
ユニがリデルの腕を抑えた。そして彼女の身体を後ろから抱きしめる。
「何かいろいろと複雑そうな事情があるみたいだけど、単刀直入に訊くわ。ココナは人間じゃないのよね?
まさかとは思うけど、〝実は私が白龍でした〟なんて冗談はなしよ。
あなたの種族は何なの?」
ココナの口元が歪んだ。
「もちろん私が龍であるわけがありません。信じてもらえないかもしれませんが、これでも元は人間なのです。
今の身体は、龍の血が顕現してしまったことで起きた変化だと思います。
種族と問われるなら、私は〝龍人〟と呼ばれる存在――分かりやすく言えば、龍の血を与えられた人間です」
龍人――ユニもリデルも、魔道院で幻獣の種類については多くを学んでいた。
だが、そんな種族のことは聞いたこともない。
「あなたの口ぶりだと、その〝龍人〟っていうのは自然に存在する種族じゃなくて、まるで造られた存在みたいね」
「そのとおりです」
ココナはあっさりと認めた。
「私たち龍人は、龍とエルフの協力によって造り出された種族です。
エルフたちは人間に技術を教える代償として、生まれたての嬰児を何十人も貰い受けました。その赤子たちに秘術を施し、龍の血が入れられたのです。
ほとんどは拒絶反応が出て、死んだと聞いています。
適合した数人の子どもがエルフのもとで育てられ、交配の結果増殖したのが、私たちの祖先だと教えられました」
彼女の説明は衝撃的なものだった。
少なくともユニが知るエルフ族は、そのような非道な実験をする者ではなかったはずだ。
「なぜ、エルフはそんなことをしたの?」
ユニの質問は当然だった。
だが、ココナはユニに抱かれているリデルをちらりと見ると、口を濁した。
「それは……私の口からは言えません。
詳しいことは、白龍からお聞きください」
「白龍から聞けって……あたしたちはその白龍を探しているのよ。
簡単に会えるなら、苦労はしないわ」
「私も白龍様にお会いして帰還をお願いするために、この世界に送り込まれました。
ただ、召喚時に記憶を失ってしまったため、その目的を果たせなかったのです。
白龍族の長老様は、一年以上経っても何の成果もないことから、私が任務に失敗した――おそらく死んだのだろうと判断されたのだと思います。
それで、ユニ先生に依頼が行くことになったのでしょう。ご迷惑をおかけすることになってすみませんでした」
「じゃあ、ココナが記憶を失ってなかったら、一人で白龍を探し出していたってこと?」
ココナはユニの質問にうなずいた。
「ユニ先生はこの大空洞が龍の出入り口だと推測されていましたが、それは正解です。それはよいとして、どうやって白龍と連絡を取るつもりだったのですか?」
「それは……その深い縦穴に向かって怒鳴ったら、聞こえるんじゃないかなーって、思っただけよ」
「残念ですが、それでは龍のもとまで声が届きません。
ですが安心してください。私に龍の血が顕れたことで、白龍様の方が私に気づいたようです。
おそらく、こちらに向かっていると思います」
「お前ら、さっきから一体何の話をしているんだ?
白龍だの龍人だの、俺にはちっとも理解できないぞ」
ハンスが少し投げやりな態度で訊いてきた。
ハンスにしてみれば、洞窟を抜けて王国に亡命するという話でついてきたに過ぎない。
それがいきなり重装歩兵と長弓隊に挟撃され、殺されそうになった。
絶体絶命と思ったら、美女だと思っていたココナがごつい蜥蜴人に変身した上に、火炎まで吹いて敵を蹴散らした。
それだけでも驚くような出来事なのに、今度は龍が来ると言われたのだ。
女性たちが自分のことなどもう気にかけていないのが明らかで、不貞腐れるのも無理はない。
「あら、龍に会えるなんて、いい土産話じゃない。
あたしだって白龍は初めて見るのよ。あんた、運がいいわ」
「喰われたりしないだろうな?」
「リデルやあたしならともかく、あんたみたいな不味そうなのは大丈夫よ」
「いや、リデルに比べたら、ユニだって堅そうだぞ?」
「なにおう!」
「しっ! 静かに!
もう上がってきます」
二人のくだらない会話をココナが遮った。
それと同時に、大空洞の深い大穴から吹き出す冷気に替わって、生暖かい空気の塊りがぶわりと押し出されてきた。
最初に見えたのは、巨大な翼の先だった。
すぐにそれは見えなくなり、次の瞬間に白い龍の巨体がふわっと浮き上がった。
龍は空中で二、三度羽ばたいて静止すると、ユニたちが立つ通路にがっちりと前脚の爪をかけた。
次いで軽い地響きが起きたのは、龍が後ろ脚の爪を縦穴の壁に食い込ませたためらしい。
白龍は崖っぷちから上半身を覗かせ、通路にぶらさがるような窮屈な恰好になっていたが、平然とした顔をしていた。
そして長い首を優美に動かし、焼け焦げたり首を刎ねられたりした帝国兵の死骸と、それを覆っているスライムを見て、少し顔をしかめた。
鱗に覆われた蜥蜴のような顔であったが、意外に表情が豊かだった。
特に宝石のような青い瞳はくるくるとよく動き、その顔に悪戯っぽい印象を与えていた。
白龍は帝国兵からユニたちに視線を移し、興味深そうにココナの顔を覗き込んだ。
美しい瞳がじっと彼女を見詰める。
『あらまぁ、まさかとは思ったけど、本当に龍人の娘なのね。おばば様の差し金かしら……。
あなた、名前はあるの?』
その場の全員の頭の中に、龍の思考が流れてきた。
ユニとオオカミたちには馴れた感覚だったが、〝念話〟を初めて経験するリデルとハンスは驚き、きょろきょろと周囲を見回した。
「私はココナと申します。
あなた様のお役に立つようにと、長老様から申しつかって参りました」
『ココナね? 変わった名前だわ。
ちょっと事情を知りたいから、あなたの頭の中を覗くけど、いいかしら?』
「ご随意に」
ココナはそう答えて目を閉じた。
じっと動かない彼女に、白龍は大きな鼻面を近づけてぴたりと動きを止めた。
ずいぶん長い沈黙が流れたように思えたが、実際には二、三分程度のことだった。
再び全員の脳内に龍の言葉が響いた。
『うん……大体のことは分かったわ。
ユニというのは、あなたですか?』
白龍は青い瞳をユニの方に向けた。
ユニは膝を折って丁寧に礼を取る。
「リスト王国の召喚士、ユニ・ドルイディアと申します。
白龍様にお目にかかれて光栄に存じます」
『私を探しに来たという話ですが、どういうことなのでしょう?』
「私は王国を守護する蒼龍グァンダオ様の依頼で参りました。
グァンダオ様のお話では、白龍族の長老から、あなた様が故郷に戻るよう説得してほしいと頼まれたそうです。
何でも、卵を産める若い……その、〝女性〟が不足しているという話だったようです」
『まぁ、そうなの? それでおばば様はこんなことを……。
まったく、仕方のないお方ですこと』
白龍は小さなため息を洩らしたが、すぐに顔を上げた。
『ユニとやら。
あなたは予定どおり、その帝国人をあなたの王国に送り届けなさい』
「でも、私はグァンダオ様からあなたを――」
『その話は後です。
私はこの二年ほどエルフの里に遊びに行っていて、ここを留守にしておりました。
戻ってみればこの有様……私は非常に不愉快なのです。
夜森を開拓する農民たちを、ゴブリンの被害から守ると約束したのに、よりにもよってそのゴブリンにアシュリーの故郷が滅ぼされたのですよ。
龍としての私の面目は丸潰れです。一刻も早くこの落とし前をつけなくては、私の気が済みません。
それはあなたの望みでもあるのでしょう?』
白龍の怒りはもっともだったが、ユニは情けない顔で懇願した。
「もちろんそうですが、故郷にお帰りになるという件も、少しは考慮していただけないでしょうか?」
『今は却下です!
ですが安心しなさい。事が済んだら、それについてはじっくりと話をしましょう。
とにかく王国の村、アウルと言いましたか?――そこで待機していなさい。
そう待たすことなく、ココナを迎えに遣わします。』
白龍の言葉を聞いたリデルが叫んだ。
「待ってください白龍様!
ココナを遣わすって……彼女を連れ去るおつもりなのですか?」
龍は少し困った顔をした。
『そのとおりです。
この娘はあなたたちを守るために龍のブレスを使ったようですね。
知らないでしょうが、龍人にとってブレスは命を削る行為――文字どおり最後の切り札なのです。
こうして立っているのが不思議なくらいですよ」
そう言って、白龍は首を伸ばしてココナの身体を鼻先で軽く押した。
たったそれだけで、彼女は物も言わずにぱたりと倒れ、そのまま気を失ってしまった。
『ずいぶんと我慢強い娘だこと。……よほどあなたのことが大切なのでしょうね。
ご覧のとおり、彼女はとても王国までついていくことはできません。放っておけば三日は目覚めないでしょう。
でも心配はいりません。私の側にいれば、回復がずっと早まるはずです。
リデルと言いましたか? あなたもユニと一緒にアウル村で待っていてください。
必ず元気になったココナと再会させることを約束しましょう』
白龍はそう言うと、再び長い首を伸ばした。
そして何の躊躇もせずに、地面に横たわったココナをぱくりと口に入れてしまった。
リデルが金切声を上げ、ユニは慌てた。
「何をなさるのです? ココナを食べるなんて!」
『人聞きの悪いことを言わないでください!
どんな味がするのか興味はありますが、彼女は頬袋に入れただけで、消化するつもりはありませんよ。
とにかく、私の言うとおりに村で待っているのです。いいですね!』
そう言い残して、白龍は姿を消した。
通路に引っかけていた爪を放し、深い縦穴へと落ちていったのだ。
ユニとリデルは慌てて駆け寄り穴の中を覗いたが、もう奈落の底は真っ暗で何も見えなくなっていた。
* *
「行っちまったな」
二人の女の後ろに歩み寄ったハンスが声をかけた。
ユニが四つん這いになったまま、彼の方を振り返った。
彼はぼんやりとした表情で、ぼそぼそとつぶやいた。
「何だか悪夢を見ていたような気がする。
あんな巨大な怪物が、人間みたいに話をするなんて……。
もし俺が本部に帰ってこのことを報告したら、きっと仲間たちは俺がおかしくなったと思うだろうな。
オリバー爺さんの気持ちが、何となく分かったような気がしたよ」
ユニはゆっくりと立ち上がり、膝と手のひらについた土を払った。
そしてリデルの腕を取り、彼女を立ち上がらせる。
リデルは大きな目から涙をぼろぼろと零して泣いていた。
「何の権利があって、白龍はココナを連れて行くのよ?
彼女は私が召喚して、私が名づけて、二人で暮らしてきた私の親友なのよ!
ずっとずっと、一緒にいるって約束した子なの!
なのに契約は嘘だと言ったり、勝手に連れ去ったり――酷いじゃない!
もうみんな嫌い!
ココナも白龍も嫌いよ!」
ユニは黙って彼女の小さな身体を抱き起こした。
いつの間にかそばに来ていたヨミが、涙に濡れたリデルの頬を慰めるようにぺろりと舐めた。
ユニはハンスに目で合図をし、二人でリデルをヨミの背に乗せた。
「ここで泣いていても、ココナは戻ってこないわ。
とにかく白龍が約束したからには、アウル村にいれば彼女ともう一度会えるはずよ。
行きましょう」
ユニとハンスもオオカミに騎乗し、一行は大空洞から王国側へ通じる洞窟へと入っていった。
ココナが吐いた炎で焼け焦げた帝国兵の死体は、スライムによってあらかた溶かされていた。
鋼鉄の盾や鎧は彼らの好みではなかったようだった。強烈な酸で溶かされ、丸めた紙屑のようになった金属の塊りが、そこかしこに転がっていた。
オオカミたちは横を通り過ぎる際、邪魔そうにそれらを後ろ脚で蹴とばした。
かつて重装歩兵の誇りだった物体は、奈落のような縦穴に転がり落ちていく。
オオカミたちの鋭敏な聴力をもってしても、鉄の塊が底に到達した音を聴くことはできなかった。




