八 人質
垢擦りと香油マッサージが終わると、アイーシャという女が呼ばれてきた。
おばちゃんは〝娘〟と言ったが、見たところユニよりも年上で、三十代半ばといった年頃だった。
少し身体がくたびれてはいるが、黒髪が艶やかな魅力的な女性だった。
「このお客さんがドレイクのことを聞きたいんだってさ。
あんた、話してあげなよ」
おばちゃんにそう言われると、アイーシャは気軽にうなずいた。
「別に構わないけど……海賊に興味があるなんて、変わった人だね」
ユニは寝そべったままで気が引けたが、できるだけ丁寧な口調で頼んだ。
「私、これからセレキアに行くんですけど、最近ドレイクっていう海賊が姿を見せているらしくて、どうにも気になるんですよ。
どうかお願いします」
「わかったわ。
毛剃りをしながら話してあげるけど、まずは顔剃りからだからね。
危ないからそれが終わってからだよ。
沁みるから目をつぶっておくれ」
彼女はそう言ってユニの顔にシャボンを塗りたくる。
そして妙に立派な箱から小さな剃刀を出して手に取ると、顔の産毛を剃り始める。
それはまるで羽毛で肌をくすぐられるようだった。
少なくとも剃刀を肌に当てられているという感覚がまったくない。
ユニは内心ひどく驚いたが、喋ることができないので黙って身を委ねている。
女は手早く顔と耳の産毛を剃り、眉を形よく整える。
「さあ出来た。
もう喋っていいよ」
アイーシャに蒸したタオルで顔を拭き取られると、ユニは思わず嘆声を洩らした。
顔を触ってみると、見事につるつるである。
これまで何十回となく顔剃りは経験しているが、終わった後の肌がひりひりしたり、引きつるような感じがするのが常だった。
それがまったくないのだ。
「驚いた!
何これ? こんな感じ初めてだわ。
あなた一体どんな魔法を使ったの?」
アイーシャは笑い出した。
「そうか、お客さんは他所から来なすったんだね。
それじゃ驚くのも無理ないわ。
この剃刀はドワーフの打ち物なのさ」
「えっ!
でも、ドワーフの刃物って恐ろしく高いんじゃないの?」
「武器や防具はね。
でも剃刀とか鋏、爪切りなんかの日用品はそうでもないのさ。
もちろん人間が作ったものが百本買えるくらいには高いけど、ちょっと張り込めば買えないものでもないのよ。
この浴場は八年前にできたんだけどね、開業する時にオーナーがドワーフ製の剃刀を三本買い揃えたの。
それで、それを宣伝したのよね。
おかげで女性客が大勢押し寄せたし、その後も口コミで常連客が増え続けているんだよ」
ユニは素直に感心した。
これほど気持ちがよく、肌に優しい剃り味なら女性に喜ばれるのも当然である。
「さあ、今度は身体の方をやるからね。
お客さん、下の方はどのくらい剃ります?」
大陸でも南部の方は、気候的な理由もあって女性が全身を剃毛することが珍しくない。
ユニも何度か経験しているので、今ではまごつかなくなっている。
「前の方は整える感じで、できるだけ自然な感じに残してください」
「はいよ。
お客さん、凄い傷だけど……ここは触っても大丈夫なのかい?」
全裸で仰向けに寝そべっているユニの、肩から胸にかけてはまだ生々しい傷跡が走っている。
アッシュの治癒魔法で内部は完全に治っているのだが、見る者はぎょっとするだろう。
ユニは問題ないということを伝え、ドレイクという海賊のことを教えてほしいと再度頼んだ。
アイーシャは手際よくユニの身体を剃りあげながら、顔を上げずに答える。
「あたしはセレキアの郊外にあるアタゴ村の出身なのさ。
セレキアは西部沿岸の都市国家群の中でも、最後までケルトニアに抵抗をしていた国でね。
あたしがまだ十二歳くらいの頃は、奴らの手先となった海賊がセレキア郊外の村々を略奪して回っていたんだ。
そりゃあ酷いものだったよ。
セレキアは自分たちの都市を守る兵を持っていたけど、周囲の村々は無防備だったからね。
その海賊どもの中で、一番暴れていたのがドレイクだったというわけさ」
彼女はユニの上半身の毛剃りを終えると、両膝を曲げさせて次の処理にかかる。
その間も喋り続けているのだが、自分の股の間から話しかけられるのは何ともいえない恥ずかしさがあった。
「当時のドレイクはまだ売り出し中の若手だったんだが、狡猾で残忍な海賊だったよ。
あいつは狙いをつけた村から女子どもを攫って、人質を盾に抵抗を封じる手段を得意としていたんだ。
あたしは隣りの家のマルヤムっていう姉さんと家畜を呼びに行った時に、海賊たちに捕まってね。
奴らの海賊船に閉じ込められたことがあるんだよ」
ユニは驚いて身を起こしかけたが、アイーシャが自分の仕事ぶりを確認するように、剃ったばかりの股間をつるりと撫で上げたので「ひゃっ!」と悲鳴を上げてのけぞった。
毛剃り女は満足してユニの足を腕に抱えて剃り始める。
脛のあたりに彼女の豊満な胸が押しつけられ、何ともきまりが悪い。
「海賊船の牢獄は酷いところだった。
船底の一番後ろ、舵に近いところでね。船板から染み出た海水と油が脛まで溜まっているのよ。
真っ黒で臭い水でね。横になることもできないから、木の格子に寄りかかって座ったまま寝ていたわ。
あたしはまだ子どもだったから助かったけど、マルヤム姉さんは十八だったからね。
毎晩海賊たちに連れていかれて、さんざん慰みものにされてたわ。
姉さんが連れていかれる時の『嫌だ、嫌だー!』っていう叫び声は、今でも時々悪夢に出てくるよ」
彼女はユニを転がしてうつ伏せにさせると、背中に取りかかった。
心なしかその動作は乱暴で、彼女の怒りが表れているようだった。
「三日目の晩、いつものように殴られてぼろぼろにされた姉さんが牢に戻されたけど、翌朝あたしが目を覚ますと、彼女は木の格子に自分の服を引っかけて首をくくっていたわ。
後で聞かされた話だけど、海賊たちはマルヤム姉さんの遺体から首を切り取って、村に投げ入れたそうよ。
無駄な抵抗をしたら、あたしもこうなるぞっていう脅しに使ったのね」
蒸し暑い浴場の中だというのに、ユニの背中に鳥肌が立った。
過酷な体験を淡々と語る、このアイーシャという女性の心の内を思うと、涙が滲み出てきた。
「結局、村の人たちは一切の抵抗を諦め、海賊たちの略奪を指を咥えて見ているしかなかったの。
食糧も家畜も奪われ、女は凌辱され、面白半分に家に火をつけられたわ。
その代償は、あたしというガキ一人が帰されただけだったのよ」
アイーシャは仕事が完了したという合図に、ユニの丸いお尻をぺちりと叩いた。
「さあ、出来上がりだ!
もう全身がつるっつるだよ。
お客さんにいい人がいるなら、ベッドで張り切ること請け合いさ。
あたしの話は役に立ったかい?」
「ええ、とても」
ユニは心から感謝した。
少なくとも、海賊船の牢の位置が分かったことは大きな収穫だった。
* *
翌朝、まだ夜明け前の暗い内から宿を出たユニたちは、アギル郊外にあるユルフリ川の川港に向かった。
あらかじめ連絡をつけていた群れのオオカミたちも途中から合流した。
桟橋には定期便の一番船が繋がれ、すでに多くの商人や旅人が出入りしていた。
それとは別の桟橋に、アディーブが手配した中型の川船が停泊している。
川岸にはもうアディーブが到着しており、船頭と何やら打ち合わせをしていた。
ユニたちが近づくと、彼はすぐに気づいて満面の笑みを浮かべた。
彼がまっ先に目を向けたのは、群れのオオカミたちだった。
ライガほどではないが、オオカミたちはいずれも二メートル後半から三メートル前後の化け物じみた大きさである。
最も小さいロキですら、もう大型犬くらいの大きさに成長している。
「これは壮観だ。
これだけ揃えば中隊規模の軍にも匹敵するでしょう。頼もしい限りですな!
いやいや、さすがはリストの召喚士だ」
誉めそやす商人に、アシーズが苦笑交じりに抗議する。
「おいおい、それを言うなら俺だって召喚士なんだがな。
何なら哭き女をお目にかけようか?」
アディーブは慌てて首を振った。
「よしてくれ!
あんたが召喚士だってことはもちろん知っているよ。
わしら商人は縁起をかつぐんだ。不吉なものは見せんでくれ」
商人はぶつぶつと悪霊除けの呪いを口にしてその場を去った。
ユニはそれまで疑問に思っていたことをぶつけてみた。
「前から不思議に思ってたんだけど、アシーズは普段からバンシーを側に置いていませんよね?
あたしだとライガと半日離れているだけでも相当辛くなりますけど、平気なんですか?」
アシーズは困ったような表情で微笑んでいる。
そこへ横からライガが口を挟んだ。
『何を言ってるんだ、ユニ。
この男はいつも哭き女と一緒にいるぞ?
――って言うか、女の方がべたべたくっついて離れないんだが』
「ほう、あんたのオオカミにはちゃんと見えているのか」
アシーズが感心したようにつぶやいた。
どうやら彼も自分の幻獣を通してライガの言葉を聞くことができるらしい。
「えっ、どういうこと?
ひょっとして今、ここに哭き女がいるの?」
驚いたようなユニの言葉に傭兵は笑顔でうなずいた。
「ああ。哭き女は妖精といっても、ちょっと特殊な種族でな。
前にも話しただろう? 半分はこの世界に存在する実体だが、残り半分は幽体みたいなものだって。
なんて言うか、異世界に片足を突っ込んでいるような感じだな。
だから向こうの世界に重心を移すと簡単に姿を消すことができる。
彼女は相手の心理状態に応じて見える姿が変化するから、迷信に囚われていたり、恐怖心を抱いた人間には恐ろしい亡霊に見える。
だから普段は姿が見えないようにしているんだよ」
「じゃあ、アシーズにはその姿が見えているの?」
「もちろんだ。
こいつは酷い寂しがりやでな。
大抵は俺の首にしがみついているんだが、重さは感じないな。
姿を消している時は触ろうとしても突き抜けるんだ」
ユニ自身召喚士だから幻獣の生態には詳しい方なのだが、やはり個別に話を聞くと知らないことが多い。
「ライガにも哭き女が見えるの?」
彼女はオオカミに訊いてみた。
『ああ。ぼんやりとだがな。
むしろ匂いの方で〝ああ、いるな〟と気づくような感じだ』
アシーズは立ち上がって、ぱんぱんとズボンの埃を払った。
「これで結構便利なんだぜ。
姿を消したまま上空から偵察できる能力には、今まで何度も助けられた。
海賊相手にもきっと役に立つだろう」
* *
ユニたちはアディーブが借り上げた船にオオカミたちとともに乗り込み、大河ユルフリ川に乗り出した。
高低差のあまりない砂漠地帯を流れる川は急流となる難所もなく、帆を張った下り船であるから一日に百キロ以上の距離を稼いだ。
陽が落ちて暗くなると岸につけて夜を明かし、夜明けとともに再び下り始める。
オアシス都市アギルから三百キロほど離れたセレキアまで、わずかに二日半の行程だった。
到着したセレキアは、さすがに〝国家〟と名乗るだけあって大都会であった。
リスト王国最大の都市、白城市とほとんど遜色のない規模と賑わいで、白城市と同様に街全体が城壁に囲まれた城塞都市だった。
ユルフリ川のは壁外をかすめるように流れ、港で荷揚げされた物資はすぐに城壁の扉から中へ運び込めるようになっている。
群れのオオカミとは再びここで別れ、アディーブとその番頭、二人の傭兵とユニ、それにライガの一行が市街へと入った。
ちなみに王国が発行しているライガの幻獣登録証はここでも有効で、ライガの同行はそう揉めることもなく認められた。
アディーブは彼が定宿としている宿屋に一行を案内し、荷を解くのも早々に街へ出て行った。
テバイ村まで人と荷を運ぶ馬車の調達や、食糧を含めた必要な物資の買い足し、そして付き合いのある取引先への挨拶など、彼がしなければならないことは山積していたのだ。
アシーズとゴードンは彼に付いていくことにした。
一応は護衛を引き受けた身である。
いくら比較的安全な都市内であったにしろ、彼の安全には責任があるからだ。
ただ、ユニはその任務から一人外された。
いくら同行が認められても、ライガという怪物は一般市民を怯えさせる存在である。
無用なトラブルは誰も望まない。
二人の傭兵が宿を出る際、ゴードンは見送りに出てきたユニに訊ねた。
「お前はどうするんだ?
俺としては、風呂にでも入って宿でおとなしくしていることを勧めるがな」
ユニは鼻息荒く応える。
「もちろん、お風呂には入るわよ。
でもその後は、飲みに行くに決まっているじゃない。
これだけの大都会なのよ。冷えたビールがあたしを待っているわ!」
ゴードンはため息をついて宿を出た。
「聞いた俺が馬鹿だったよ」
* *
「大丈夫なのか、あれは?」
人通りの多いセレキアの街路を悠然と歩きながら、アシーズがゴードンに声を掛ける。
「あれって、ユニのことか?」
ゴードンが訊き返した。
彼らはアディーブとその番頭の後ろを、少し離れてついていく。
のんびりとしているようで、油断なく周囲に目を配り、護衛対象である商人に危害を加える者がいないか観察を怠らなかった。
「俺はお前と違って、ユニとはそれほど深い付き合いはないからな。
あの女は今ひとつ掴みどころがない。
いや、いざという時の判断力や、果断な行動力は俺もこの目で見ている。
オオカミたちの使い方も堂に入ったものだ。
ただ、普段の言動が少し抜けているというか……頼りない感じがするんだがな」
ゴードンは軽く吹き出した。
「ああ、そうだな。
普段のあいつは食い意地が張っていて酒飲みだ。
割と馬鹿なくせに、変なところで悪賢い。
女なのに手は早いし、ずぼらだ。
あれ、変だな? 褒めるつもりだったんだが……。
とにかく俺が言いたいのは、そういう奴だが意外にしっかりしている――ということだ」
「そんなもんかねぇ……」
アシーズは懐疑的だった。
「アギルの公衆浴場で、海賊船の牢の位置を聞き出してきただろう?
あれはお手柄だったぞ。
……それに、これを見ろ」
ゴードンは懐から革袋を取り出して投げてよこした。
アシーズが片手で受け取ると、ずっしりと重い。
結構な額の貨幣が入っているようだった。
「これは?」
「宿でユニから渡された。
これでありたけの矢を買い集めておいてくれってな」
アシーズは呆れたような表情を見せた。
「おい、それじゃ俺が立てた計画は……」
隊商を護衛する傭兵たちは当然弓も用意しているが、そう多くの矢は携帯しないのが一般的だ。
弓矢は集中運用することで、最もその効果を発揮する。
十人に満たない警備兵では、戦闘の前哨戦で使用するくらいだ。
予想される海賊戦では、百五十人前後の傭兵を糾合することになる。
それだけの人数がいれば、弓の一斉射は相当の威力を発揮するし、五十人程度で専門の弓隊を組織することもできる。
そうなった場合、彼らの用意している矢の本数ではあっという間に射尽くしてしまうだろう。
だから事前にこのセレキアの街で矢を大量に仕入れておかなければならない。
二人の傭兵は、この街に向かう船中でそう話し合っていた。
問題はかなりの金額がかかるということだった。
ゴードンはユニに理由を説明すれば、必要経費として問題なく了承するだろうと考えたが、それに対してアシーズが異を唱えたのだ。
万が一にも、金を握っているユニが反対したらどうするのか?
ここは黙って二人の手持ちの金(彼らは着手金として相当額を貰っている)で矢を購入して既成事実を作り、それからユニに金を出すよう交渉すればいい。
万分の一の確率でユニがゴネたとしても、矢が用意されたという結果は動かない。
大事なところだから、石橋を叩くつもりでユニには黙って矢を仕入れよう――それがアシーズの計画だったのだ。
「なるほど、俺の目は節穴だったようだ。
あいつは馬鹿ではないらしいな」
アシーズは笑みを浮かべて革袋を投げ返した。
ゴードンは受け取った革袋を懐に戻しながら、ぼそりと独り言をつぶやいた。
「いや、馬鹿なのは間違いないんだが……」