二十 食事会
王国側としては、外交上レイアを拘束することができない。
彼女の入国は正規の手続きを踏んでおり、入国した以上移動の自由は保証されている。南カシルを出たことに対して文句を言える立場ではない。
また神獣の存在が軍事機密に当たろうが、それを一般に公開したのは第一・四軍の方で、見物したレイアを罪に問えるはずがない。
王国としては事情聴取もできないので、その役目をユニに押し付けたとも言える。
同様の理由で、ワーズ評議員も自治政府の重鎮であるため、簡単な聞き取りの上、偽の身分証を使用したことをやんわりと注意された程度で、すぐに身柄を解放された。
ただし、彼は同時に商人でもあるので、この後に非公式の処罰を受けることになる。王国から得ていた仕事の一部が、次の発注から別の商人へと切り替えられたのだ。
レイアとその警護隊、それにユニたちを加えた一行は、白城から解放されるとひとまず黒城市に向かった。
すでにユニが一報を入れていたので、レイアたちは貸し切りの下り船に乗り込み、南カシルに戻ることになった。
マリウスはこれに同乗することにした。イアコフと約束済みらしい。
ユニは黒蛇帝に詳しい事情を説明した後、再び陸路で南カシルを目指すことになった。
レイアと大佐たちがカシルを出るまでは、監視任務は終わっていないからだ。
ユニとオオカミたちが帝国側の一行を川港で見送った際、マグス大佐は別れを惜しんだ。
もちろんユニとではなく、トキとだった。
「借りた船は結構大きい。お前たちも乗っていかないか?
さすがに下り船の方が早かろう」
大佐はそう言ってくれたが、ユニは笑って首を振った。
「オオカミたちが船旅を嫌がるのよ。落ち着いて排泄できないってね。
マリウスは同行するんだから一応監視任務を果たしているし、無理に同乗する必要もないでしょう。
それに正直に言えば、あたしも森を野宿しながら走る方が好きなのよ」
大佐は素直に納得した。
「確かにな。
馴れてしまえば、あれはあれで面白い旅だったからな。
ユニ、貴様はいけ好かない奴だが、今回の件に関しては感謝している。
レイア様はカシルに戻ったら、数日ワーズ評議員の邸宅にしばらく滞在される意向だ。
貴様が着く前に出立してしまうことはないだろう。
一度遊びに来い。歓待しよう」
「あら、扉を開けたとたんに首を斬り落とされるのはご免よ?」
「それを言うな。
だが、いずれ戦場でまみえたときは容赦はせんぞ」
* *
レイアたちの下り船が南カシルに着いたのは、その一週間後である。
ユニとオオカミたちは、それに遅れること三日でカシル入りをした。
先に到着していたレイアは、まずはアンダスン議長に面会して謝罪を行った。
もうベールで顔を隠す必要はない。
彼女は議長と抱き合い、涙ながらに再会を喜んだ。
そして二泊三日でワーズ邸に滞在した。
公式には序列二位の有力者に招かれてのことだと発表された。
この間にレイアは二人の弟と親しく交わり、また念願だった母親の墓に詣でることができた。
ちなみにイアコフたちが調べたベルモア伯爵家にあった墓碑は、レイアが皇帝の側室となってから彼女の命令で建てさせたものだった(新しかったのは当然である)。
元養父であるベルモア伯は、レイアが母親の死をなぜ知ったのかが分からず、ずいぶんと驚いたそうだ。だが、今や彼女は伯爵家にとっては希望の星である。墓の建立に反対できるはずもなかった。
ユニが南カシルに着いたのは、ちょうどレイアがワーズ邸の滞在を切り上げ、再び山の手の高級宿に戻った日であった。
この間の事情は、先着していたマリウスによってユニに伝えられていた。
一方、ユニの到着は帝国側にも知らされ、レイアはさっそく翌日の夕食にユニとマリウスを招待することにしたのである。
レイアたちは二日後には宿を引き払い、北カシルへ渡るとのことだったので、名目上は私的なお別れ会となっていた。
* *
もう三月も終わろうとしており、暖流の影響で冬でも暖かいカシルは美しい花の季節を迎えていた。
夕暮れの時間もだいぶ遅くなってきて、どこからか漂ってくる沈丁花の香りを感じながら、失礼がない程度に身なりを整えた二人はレイアの泊まる宿を訪ねた。
ユニたちが招かれたのは、レイアの捜索のためにマグス大佐に協力して尽力したことに対する謝罪と礼のためである。
出迎えのために出てきた大佐はユニの恰好を見るなり吹き出した。
一応お呼ばれであるから、ユニはドレスを着こんでいたのだ。
彼女がそんな物を持っているわけがなく、大方アンダスン議長の口利きでどこかから借りてきたのだろう。
「なんだユニ。貴様、私を笑わせに来たのか?
いつもの野伏のような姿はどうしたのだ。
貴様ほどドレスが似合わない女も珍しいな!」
ユニもむっとして言い返す。
「そう言うあんたこそ、食事会に軍服姿とは無粋もいいところね!
それが客人をもてなす帝国人の礼儀なの?」
「まぁまぁ、お二人とも場違いという点では似たようなものです。
目糞鼻糞を笑うって諺をご存じですか?」
二人をなだめようとしたマリウスは同時に蹴りと鉄拳を受け、涙目でその場にうずくまった。
その日の晩餐はレイアに従ってきた帝国の料理人が腕を振るったもので、豪勢なものであった。
田舎暮らしで肉体労働者のユニは、味が濃く脂の多い食べ物を好んだが、決して味音痴というわけではない。帝国の上品な料理はさすがに美味で、彼女は大いに堪能した。
食卓にはマグス大佐の副官たちも並んでおり、迷惑をかけた警護の者への罪滅ぼしの意味を兼ねた食事会であることが窺われた。
交わされた会話も和やかなものだったが、レイアの逃亡に関する話題は慎重に避けられた。
話題の中心は、もっぱらレイアによる二人の弟の自慢話だった。
彼女は弟たちがいかに愛らしく、母親譲りの聡明な少年であることを興奮気味に熱弁した。
「アルフレッド(レイアの上の弟)は、必ずやこの南カシルの将来を担う人物となるでしょう!
お父さまも、それはもう期待されていました。
私はアルが生まれたばかりの頃しか知りませんが、一目で弟だと分かりましたのよ。
姉弟の名乗りは許されないことと覚悟していましたが、どうもエドは私が姉だということを察していたように思います。でも、弟はそれを噯気にも出さないのです。
それでもお庭を案内してくれた時、私の手を握ってくれたのです。『転ぶと危ないですから』と言い訳して、耳まで真っ赤になっていました。
ああ、私は弟をどんなに抱きしめたかったか、あなたたちにはお分かりにならないでしょうね!」
顔を紅潮させて語るレイアは微笑ましく、食事会は暖かい雰囲気に包まれて終わった。
二人のメイドが食後の飲み物を訊ねると、ユニは遠慮がちにコーヒーを所望した。
こうした会では食後は紅茶というのが定番だったが、ユニは濃いコーヒーの方が好みだった。
そして、それはマグス大佐以下の警護陣も同様であった。
彼女たちは地獄の戦場で眠気と戦うため、地獄のように熱くて苦いコーヒーの中毒にされていたのだ。
客人の立場であるユニがコーヒーを求めたことに、大佐たちはホッとしてそれに追随した。
レイアは微笑んで侍女の方を振り返った。
「それでは私も、皆さんと同じものをいただきましょう。
アリアナ、お願いしますね」
侍女のアリアナはおっとりとした穏やかな性格の娘だったが、驚いたような顔をした。
「まぁ、レイア様はコーヒーをお飲みになれますのですか?」
「ふふふ……白状すると苦くて飲めなかったのですが、マグス大佐から逃げ回っていた際に、お父さまがあんまり美味しそうにコーヒーを飲むものですから、真似をしてみたのですよ。
苦いのはやっぱり駄目でしたが、たっぷりミルクと砂糖を入れたらどうにか飲めたのです。
だから大丈夫ですよ」
するとアリアナの横からもう一人の侍女、エンリが口を出した。
「それでしたら、私にお任せください!
私の父も大のコーヒー好きで、淹れ方には自信があるのです。
アリアナ、あなたはカップとお皿を用意してくださいな。
私は調理室に行って豆を取って参りますから」
エンリはそう言って奥の調理室に向かい、アリアナもコーヒー用の小ぶりなカップを出すために大きな食器棚を開けにいった。
エンリはしばらくすると豆の缶とコーヒーミルを抱えて戻ってきて、さっそく豆を挽き始めた。
たちまち香ばしい豆の香が立ちのぼり、ユニと大佐たちは喉を鳴らした。
コーヒー豆は帝国や王国では栽培ができず、全量が輸入品である。
東沿岸産が最上とされているが、一般には南方諸国の奴隷農園で大量に産出される豆が主流を占めていて、輸入品とはいえ庶民に手が出せないほど高くはない。
マグス大佐たち帝国の兵士が戦場でありつけるコーヒーは、最下級の粗悪品で〝泥水〟と称されていた。一度使った豆粕を乾かし、再利用しているのだと固く信じられている。
カシルの高級宿がそのような豆を扱うはずがなく、この食堂に漂っている香りは明らかに東沿岸産の最高級品のものだった。
エンリが挽いた豆をネルの布に入れて熱い湯を注ぐと、さらに堪らない香りが周囲に漂う。
エンリはアリアナが用意したカップに淹れたてのコーヒーを注いだ。
ユニと大佐たちはミルクも砂糖も断ったので、侍女は少しホッとしような表情を見せた。
クリーム壺には半分ほどしかミルクが残っていなかったからだ。
彼女はレイアのカップに白い砂糖を茶さじ三杯入れ、ミルクをたっぷりと注いだ。
なぜだかその手が少し震え、注ぎ口がカップに当たって微かな音を立てる。
マグス大佐は黙ってその様子を見つめていた。
すっかり準備が整うと、エンリはそれぞれのテーブルに香り高いコーヒーを配った。
主人役であるレイアが率先して手を伸ばそうとすると、大佐はそれを制した。
「お待ちください」
レイアは不審な表情で大佐を見る。
「どうかしたのですが?」
マグス大佐はレイアの方を見ず、じっとエンリから目を離さなかった。
「エンリ殿、そのコーヒーを飲んでみてください」
そう言われた侍女は、驚いた顔でかぶりを振る。
「そんな!
レイア様のカップに口をつけるなど、私にはできませんわ」
大佐は凄まじい表情で口を歪めた。どうやら笑ったつもりらしい。
「レイア様の侍女であるなら、お毒見もその役目であろう?
どうした、飲めないのか?」
エンリは青い顔をして、固まったままだった。
マグス大佐は黙って立ち上がると、レイアの目の前にあるカップを手に取った。
そしてそのまま食堂の壁際に歩いていく。
そこには壁に違い棚がしつらえられ、観葉植物と一緒に数匹の金魚が泳ぐ水槽が置かれていた。
大佐は黙ってその水槽にカップのコーヒーを垂らした。
小さなカップの四分の一にも満たない量だ。水槽の水は一瞬濁ったが、すぐに薄められて透明に戻る。
だが、それと同時に丸々と太った色鮮やかな金魚が腹を上にしてぷかりと水面に浮かび上がった。暴れもしない、一瞬の出来事だった。
大佐はゆっくりと振り返り、冷たい声で命令を発した。
「イアコフ、イムラエル。
この女を拘束しろ」
「待ってください!
私は何も知りません! これは何かの間違いです!」
エンリはそう叫ぶと、その場にしゃがみこんで顔を覆った。
その前に大佐の二人の副官が歩み寄る。
「言い訳は後でゆっくり聞いてやる。
連れていけ!」
大佐の命令で、副官たちは侍女の両脇を抱えて引きずるように連れ去っていった。
彼女はわけのわからないことを叫び続けていたが、その姿が消えると喚き声も遠く小さくなっていった。
「どういうことですか、マグス大佐!
説明していただけるのでしょうね?」
レイアが蒼白な顔色で、唇を震わせながらどうにか言葉を発した。
大佐は自分の席に戻ると、まだ湯気を立てている自分のカップを手に持って口を付けた。まったく躊躇しない。
「ふん、コーヒーの淹れ方に自信があるというのは、まんざら嘘ではないようだな。
――いや、豆がいいせいか……?」
大佐はそう独り言をつぶやき、レイアの方に向き直った。
「レイア様。
自分たちが帝国内で襲撃されたことをよもやお忘れではないでしょう。
その事件を目撃した者はおりませんでした。
それなのに、ここにいるユニとマリウスはそのことを知っていました。
それがどういうことか……お分かりになりますね?」
レイアは震える声で答えた。
「私たちの中に裏切り者がいると言いたいのですね?」
大佐はうなずいた。
「そのとおりです。
自分はユニからその話を聞いて以来、侍女殿のどちらかが敵の手先ではないかと疑っておりました」
「待ってください!」
レイアの顔に赤みが戻った。彼女は必死で頭を回転させていたのだ。
「事件を知っているというなら、御者や下働きの使用人、それに料理人だっているはずです。
侍女だけを疑うのは早計ではありませんか?」
だが、あくまで大佐は冷徹だった。
「現に今、毒を盛られたではありませんか。
まぁ、それ以前にあの女を犯人だと特定した根拠があるのですが……。
マクラレン中尉! 立てっ!」
大佐の声には抵抗を許さない厳しい響きがあった。
副官たちが退出し、一人残されていたマクラレンが反射的に立ち上がって直立不動となった。
「あの事件の後、暗殺者がどうなったのか貴様に訊ねた者があったと言ったな?
それは誰だ?」
普段から顔色の悪いマクラレンだが、大佐の怒気に気圧されてその青白い顔を引き攣らせた。
「はっ、エンリ殿であります!」
「何を訊かれ、何と答えた?
レイア様の前で正直に答えよ!」
彼はレイアの方をちらりと見て一瞬躊躇った。
だが、それは無駄な抵抗である。この件は、すでに大佐によって尋問されている。
今さら隠せないし、言を違えることはできない。
「エンリ殿は『暗殺者の死体をどうしましたか』とお訊ねになりました。
自分は『死体を犯してから埋めた』と申し上げました!」
「死体を……犯した?」
レイアは呆然としてマクラレンを見つめたが、彼は真っ直ぐ前を見たままで、レイアと目を合わせようとしなかった。
大佐は憮然として吐き捨てた。
「この男はエンリに懸想していたようです。
ただでさえ気味悪がれていたのに、そんなことを話したらますます軽蔑されるだけでしょうが……。
自分にはこの手の男の考えは理解できませんが、これは事実であります。
しかし、ユニたちは死体凌辱の件まで知っておりました。
これを知っているのは、自分たち警護の者を除けば、エンリ一人のはずです。
これ以上の説明は必要ありますまい」
レイアはがっくりと肩を落とし、深いため息をついた。
「分かりました。
……後のことは大佐にお任せします。
ユニさん、マリウスさん。せっかくのお食事を不快な思いで終わらせてしまったことをお詫び申し上げます。
この件は私たち帝国内の問題、いわば身内の恥のようなものです。
どうかお忘れください。
私は少し気分がすぐれません。これで失礼いたします」
彼女はそう言うと、心配するアリアナに肩を抱かれるようにして退出した。
ユニはマリウスと目を見合わせ、どちらからともなくため息をついた。
そして目の前のコーヒーカップを取り上げ、一気に飲み干した。
「たしかに美味しいわ。でも、熱いうちに飲みたかったわね。
マグス大佐、それじゃあたしたちも失礼するわ」
彼女はそう言って立ち上がった。
「ああ、みっともないものを見せてしまった。
済まなかったな」
大佐は頭を下げずにそう言い捨て、副官たちが去っていった後を追った。
誰もいなくなった食堂に、ただマクラレンだけが一人立ち尽くしていた。




