十 早船
「まぁ、そう急くな」
アンダスン議長は立ち上がったマグス大佐に座るよう、身振りで示した。
そして壁際に控える執事の方を振り返る。
「アンドレ、ヤザンを呼んでくれないか?」
アンドレと呼ばれた執事が「かしこまりました」と軽く頭を下げ、会議室を出ていく。
しかし執事は数秒で戻ってきた。
彼の後ろには、いかにも傭兵然とした逞しい男が続いてくる。恐らく部屋の外で待機していたのだろう。
「ヤザン、両方の港に至急連絡を。
ワーズ評議員が現れても乗船をさせるな。
適当な理由をつけて押しとどめるようにと伝えるのだ。
それと各組の代貸しに情報を流しておけ」
傭兵は了解した旨を口にして、足早に消えていった。
「ぬるいな。
なぜ拘束命令を出されぬのか?」
不満顔の大佐に対し、議長は苦笑いを浮かべる。
「ワーズ殿は序列二位の評議員だ。
状況証拠だけでそんなことはできんよ。
さて、待たせたな。
彼の屋敷を訪ねるか……。
アンドレ、馬車の用意を」
「すでに整ってございます」
「うむ。皆の者はついてまいれ」
議長は立ち上がり、会議室を出ていく。
彼はもう八十歳を超しているはずだが、杖もつかず足取りはしっかりとしていた。
ただ、エドモンド・ワーズ評議員の邸宅は、アンダスン議長の屋敷から三百メートルほどしか離れていない。
それを馬車で移動するというのだから、やはり無理はきかないのだろう。
すでに周囲にはとっぷりと夜のとばりが下りていたが、翌日まで待つことはできなかった。
ユニと大佐たちの一行を引き連れた議長の馬車がワーズ邸の前につくと、門衛はアンダスンの顔を見ただけで扉を開けてくれた。
手入れされた広い庭をしばらく進むと、白く立派な邸宅が闇から浮かび上がってくる。
正面玄関近くの馬留には、すでにランプを下げた数人の馬丁が待ち構えていた。門衛から屋敷へ来客を知らせる、何らかの合図があったのだろう。
外灯に明るく照らされた屋敷の前では、執事らしき男が立っている。
先頭に立つアンダスンがその出迎えをねぎらった。
「久しいな。元気そうで何よりじゃ」
執事は深々と礼をした。
「アンダスン様こそ矍鑠たるご様子、私も見習いたいものでございます。
突然の――しかも夜分のご訪問とは、いかがなされました?」
「なに、エドモンドに急ぎ紹介したい者がいてな。連れてきた次第だ。
ご在宅か?」
執事はいかにも申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「あいにく主人は不在でございます」
「ほう……どちらへ出かけられたのだ?」
「なんでも急ぎの商談があるとかで、白城市へ向かわれたばかりでございます。
難しい取引だそうで、しばらく帰れまいと申しておりました」
「出かけられたのはいつのことだ?」
「午前中から市内に出ておられましたが、昼頃にお戻りになって……それから一時間ほど経ってのことだったと存じます」
「エドモンド一人でか?」
「はい、供の者は不要だということで。だいぶお急ぎのようでした。
ただ、主人を迎えに来られたというご婦人と一緒でございましたが……」
「婦人?
どのようなお方であったか覚えておるか?」
「それはもう。
ベールを下ろしたままでしたが、大層若く美しいお方と拝察いたしました。
主人の話では、今度の取引相手である商家のお嬢様だとか。
馬車をお乗り換えの際にお身体をお支えしましたが、羽のように軽く感じました。
もし天女が実在したら、あのような感じではないかと……年甲斐もなく胸が躍りました。
誠にお恥ずかしい限りです」
「そうか……。
そなたとは長い付き合いじゃ、無礼を許せ」
アンダスンはワーズ家の執事に顔を寄せると、何かを耳打ちした。
執事はそのささやきに、明らかな動揺を見せた。
「アンダスン様、なぜそれを?
いや、そのようなことをお訊きになられるということは――まさか本当に!」
議長は哀しそうな目で彼を見つめ、ぼそりと言った。
「分かっているだろうが、これはそなたの胸にしまっておけ。
エドモンドが帰ったら、直接聞くがよい」
そして気を取り直したように宣言する。
「不在では仕方あるまい。また出直すことにしよう。
ところでそなた、そこのオオカミをどう思う?」
議長はユニの後ろで大人しく座っているライガの方を見た。
執事も落ち着いた表情を取り戻していた。
「はい、主人から聞いたことがございます。
王国の召喚士が従える巨大なオオカミを見たと。
ですが、こうして目の前にいたしますと想像以上の大きさに驚きますな」
議長は愉快そうに笑った。
「そうじゃろう。わしも初めて見た時は正直恐ろしかったぞ。
だが、このオオカミは人と変わりない知恵を持ち、言葉も理解するそうじゃ。
話の種になるだろうて。
ユニ殿、この者はヘンリという。ワーズ家の執事でわしとは古い知り合いじゃ。
オオカミともども挨拶をするがよい」
ユニは勧められるままにヘンリと握手を交わし、互いの名を名乗った。
ライガはくんくんと執事の匂いを嗅いでいたが、頭を撫でられると尻尾を振ってみせた。
* *
ワーズ邸を辞した一行は、門から少し離れたところでいったん馬を止めた。
堪りかねたようにマグス大佐が議長に詰め寄る。
「アンダスン殿、先ほど何を耳打ちされたのですか?」
老人は少し疲れたような声で答える。
「あれか?
『そなたなら感じたはずじゃ。養女に出されたミリア殿に似ておられると』……そう訊いた。
図星だったようだな。
ユニ殿の方はどうだった?」
ユニはうなずいた。
「間違いありません。
あの執事から、レイア様の匂いがしたそうです」
「それだけ聞けば十分だ。急ぎましょう!」
マグス大佐が馬腹を蹴り、先頭へと躍り出る。
議長の馬車はアンダスン邸を通り過ぎた。
彼らはそのまま街の北側、川港へと向かったのだ。
アンダスンの馬車には四隅にランプが下げられている上、カシルの街には街灯も整備されていた。
馬は夜目が利くので、そうした頼りない明かりでも支障なく歩んでいく。
ユニは前に出た大佐の背中を見ながら、馬車の横についていた。
窓から顔を出したアンダスンが、ライガに跨るユニに話しかける。
「やれやれ、あのマグス大佐という女子はせっかちでいかんのぉ。
この時間だ。すでに手遅れなのは目に見えておるというのに……」
「もう川船の出発はないのですね?」
ユニが横を向いて訊ねる。
「そうじゃ。ボルゾ川を遡る貨客船は、早朝から午後二時までなら二時間おきに出ておる。
その後の三時の便が最終じゃ。夜間航行するのは密輸船くらいのものだからの。
彼らが一時過ぎに屋敷を出たというなら今頃は船中、どこかの川港に停泊しているはずじゃ。
これまでの経緯を見るに、ワーズ殿は周到に準備を重ねておる。
恐らく午後に出る早船に乗ったのじゃろうて」
「早船とは?」
「漕ぎ手を増やし、寄港地も最低限に絞った快速船のことよ。
これは日に一便しか出んのだ。
――それにしても分からん。
ワーズ殿とレイア様は、なぜ逃げようとするのだ……」
「どういうことでしょうか?」
「分からんか?
二人が父娘の再会を果たしたいと思っていたのなら、なぜ堂々と会わんのじゃ?
確かに、皇帝の寵姫の実父が南カシルの商人だったと知れてはまずかろう。
だったら自治政府の評議員に招かれ、数日滞在する――ということにすればよいではないか。
このような策を弄してまで逃げる必要がどこにある?」
「実は皇帝の愛人が嫌で逃げたとか、カシルに心に決めた恋人がいたとか?」
「ありえんな。
皇帝の寵姫ともなれば、貴族の娘にとっては夢のような出世だろう。
恐らく実家の伯爵家にも多大な恩恵があるはずだ。
あの賢い子に損得勘定ができぬわけがない。
恋人説に至っては噴飯ものだな。彼女がカシルを離れたのはまだ十歳の話じゃ」
ユニはライガの背に揺られながら考える。
アンダスン議長の言うことはもっともだ。
執事の話によると、ワーズ評議員はわずかな身の回り品を持っただけで、ほとんど身一つで屋敷を後にしたという。
それなりの金は持っていただろうが、いずれはカシルに戻って来ざるを得ないだろう。
ワーズ家にはレイアの後に生まれた二人の男の子だって残されている。彼らはまだ少年で、母親もいないのだ。
彼女が黙り込んでいるのに気づいたマリウスが馬を寄せてきた。
「どうしたんです、難しい顔をしていますよ?」
ユニは興味がなさそうに、ちらりとマリウスを見た。
「別に。
どうしてレイア様は逃げるのかしら……って考えていただけよ」
若い魔導士は馬上で肩をすくめる。
「さぁて。ひょっとしたら逃げたんじゃないかもしれませんよ?」
「何よそれ?」
「ほら、レイア様は好奇心の塊りみたいな人だったでしょう。
案外、王国見物がしたいだけなんじゃないですか?」
「馬鹿言わないでよ」
ユニは鼻で嗤ったが、なぜだかマリウスの言葉が心に引っかかった。
彼女は再び自問自答していた。
――ちょっと待ちなさい、ユニ。よくよく考えるのよ。
王国では普通でも、帝国にはない珍しいものって何?
四古都には多くの召喚士がいるわ。
彼らは伝説上の怪物や精霊を従え、ごく当たり前に街を歩いている。
さらに四神獣という、すこぶるつきの霊獣まで存在するわ。
あの娘が『それをこの目で見てみたい』と思ったとしても不思議はないわね。
でも、皇帝から許可が下りているのはあくまで南カシルの視察。
――となれば、父親に会うのとカシル脱出の一石二鳥を狙ったという線が出てくるわ!
どうやらレイアの目的は幻獣見物――ユニは自分の思いつきに満足した。
ただ、これはあくまで推論である。取りあえずは胸にしまっておこう。
そう心に決め、彼女は前を向いた。
あれこれ考えている内に、川港の常夜灯が見えてきたのだ。
* *
南カシルの川港は極めて規模が大きい。
上り船、下り船、そして川向こうの北カシルと往復する渡し船とで、船着き場が相当離れている。
さらにそれらは貨客船と貨物船とで別となっている上、桟橋も複数並んでいるのだ。
ユニたちはボルゾ川を上る貨客船乗り場の管理人を訪ねた。
昼間なら乗船を待つ人の群れが絶えない所だが、すでに夜の八時を回っていて、人っ子ひとりいない。
管理人はさえない中年の小男で、残った事務仕事を終わらせて帰る準備をしていた。
彼は近づいてくる複数の灯りに不審の目を向けたが、相手の一人が評議員議長と知ると驚いた。
「こんな時間にすまんな。
今日の午後、ワーズ評議員が乗船せなんだか?」
管理人は慌てて脱いだ帽子を胸に抱えたまま、二、三度うなずいた。
「は、はい、アンダスン様。
確かにワーズ様とお連れのご婦人がお乗りでございました。
黒城市行きの早船でございます。
先ほどワーズ様をお留めするようにとの通達が参りましたので、このことはご報告いたしましたが……」
「貴様っ!
なぜ乗船を止めなかった?」
マグス大佐が破れ鐘のような声でいきなり怒鳴りつけた。
気の毒な管理人は「ひっ」という小さな悲鳴を上げて首をすくめる。
「よさぬか大佐。
ワーズ殿を留めるよう触れを出したのは一時間ほど前のことだ。
午後の時点で有力者の乗船を拒否するなど不可能だし、その連れのご婦人とあらば身元改めも憚られるだろう。
管理人の報告は、わしらとすれ違いになったのだろう。
この者に罪はない」
大佐はむすっとした顔で黙り込み、小男はほっと胸を撫でおろした。
議長は彼を安心させるよう、穏やかな声で訊ねた。
「それだけ聞けば十分じゃ。
それより、明日の早船の予約は埋まっておるのかな?」
管理人は胸のポケットから手帳を取り出し、忙しく頁をめくった。
「いえ、まだ三席空いておりますが……朝のうちに満席になると思います」
議長は振り返って一行の人数を確認する。
「無理を言ってすまぬが、どうにか五席都合をつけてもらえんか?」
「はい。あと二席でしたら……詰めればどうにかなると思います」
ユニはオオカミたちがいるから陸路を行くとして、帝国側の護衛とマリウスの五人は翌日の早船で後を追うという算段である。
カシルから黒城市までは千キロを超す距離がある。
長距離移動の場合、馬は徒歩よりましな程度で予想外に時間がかかる。明日の早船に乗ればレイアたちに一日遅れるだけで済み、馬よりずっと早い。
ちなみに、黒城市まで通常の上り船なら三週間近くかかるが、早船の場合は十二日前後で到着できる(多数の漕ぎ手が交替で漕ぎ続けるため、乗せられる客の数は限られ、それだけに船賃もべらぼうに高い)。
「ユニ、貴様の方はどれくらいで黒城市に着けるのだ?」
ふいにマグス大佐がユニに訊ねた。
「そうね……辺境まで八日、そこから黒城市までは三日だから、十一日ね。
ぎりぎりレイア様の船に追いつけるかしら」
「だったら私は貴様と同行する。
したがって早船は部下たちとマリウスの分、四席用意してもらえばよい。
イアコフ、お前たちは寄港地ごとにレイア様が下船していないか確認するのだぞ。
私とは黒城市の港で落ち合おう」
「ちょっ、ちょっと待ってよ!
曲がりくねった街道を走るわけじゃないの、タブ大森林を真っ直ぐ突っ切るのよ?
あたしはライガに乗るからいいけど、あんたの馬じゃ絶対についてこれないわ」
しかし大佐は落ち着いたものだった。
「そんなことは分かっている。
だから私もオオカミに乗ればよいだろう。
貴様のオオカミは、まだ何頭も仲間がいるのだろう?
一頭貸せ!」
歓楽街の喧騒が風に乗って微かに聞こえ、岸辺を洗う水の音も静かなものだった。
船着き場の常夜灯に照らされ、管理小屋が夜の闇に浮かび上がっている。
その静かな空間に、ユニの叫び声が響き渡った。
「はぁーーーーっ? あんた馬鹿ぁ?」




