生きるとは
北海道も夏が恋しくなってきたので、書いてみました。
せっかく海にリゾートに来たと言うのに気分は台無し。周りの目を憚って声を大きくすることは控えたが、その分言葉に険がこもる。
はじめはほんの些細なことだったと思う。彼に海へ行くと言われて、山がいいって、そんな些細なことだった。いつもは自分のことを優先してくれるのに、今日の彼は頑なに意見を通したのだ。小さな小さな不満が時間を経る毎に声は大きく、しかも相手の声を聞かなくなっていた。
「相席よろしいですか?」
そう、声をかけて向かいに座った女性は学生と言うには大人びていて、社会人と呼ぶには幼かった。
席は全て埋まっているとはいえ、こんな雰囲気の席に座るなんてなんて図々しい女か、彼女はそう思った。
「なんて素晴らしい景色でしょう。些末な争いなどちっぽけに思えるくらい」
芝居がかった口調で少女は二人を一切見ず、顔だけを真横に向けてキラキラ輝く海を見つめていた。
つられたように海を見た2人は美しく、果てしなく、飽くことのない景色に全てを忘れた。
「この景色を見に来たんだよな」
惚けた声で彼は呟いた。景色に目を奪われたまま彼女も応える。
「私は山がいいって言ったのに」
不意にその目に涙が溢れる。
「こんな綺麗な景色じゃ海に来てよかったわよ」
「うん」
彼はゴソゴソとリュックから小さな箱を取り出す。
「全然ロマンチックじゃなくなったけど」
その小さな箱に入っているものは開けなくても中にあるものは分かる。
向かいに座っていた女性は2人を視界に収めることなく、ふっと小さく笑って立ち上がり、ドリンクを持って身を翻らせた。
「あ」
彼女が声をあげる。呼び止めようと思ったが、呼び止める名がない。
ましてや呼び止めたところで何を言うのか分からず、その後ろ姿をほんの数秒見送り、幸せを詰め込んだ小さな箱に目を戻し、受け取った。
しかし、すぐに彼が彼女から箱を再び取り上げる。幼子からお気に入りのおもちゃを奪うかのようなその所業に、一瞬呆けて彼を見つめる。その彼は再びリュックに大事そうにそれをしまうと、周章てたように立ち上がった。
「行こう」
「え?は?プロポーズは?」
思わず聞き返してしまう彼女の手を引っ張って強引に立ち上がらせると、彼は飛びきりの笑顔で振り返った。
「夜景の綺麗なあの山で仕切り直しだ。今から帰ればいい時間に着くよ」
「えぇ!?ここだって十分に素晴らしいロケーションだわよ」
「お前の一番好きな場所が最高の思い出の場所になるようにしようぜ。ついでにこの海は俺の一番好きな場所だけどな」
顔を赤らめた彼女は唇を尖らせて言い返す。一歩を踏み出す
「・・・じゃあ、ここ私の2番目に好きな場所にする」
「おう!」
数の少ない電車に乗るため、2人は駆け出した。もはや17時。そもそも片道2時間の道のりに昼すぎから出掛けることが間違ってると思う。
夕日に照らされた電車のなかで彼らは寄り添っていた。
「彼女、どうしてるんだろうね?」
不意に彼女が声をかけた。
「彼女?」
訝しげに聞き返す彼に彼女は、海で相席となった謎の彼女の存在を告げる。
「喧嘩しているときに前に座った子よ」
「ん?ああ、彼女ね」
「何だったんだろうね?」
何だったんだろうね、と聞かれても分かるはずもない。人は他の人の言動など、ましてや初対面の相手の素性など分かるはずもない。
「俺たちの運命を堅結びしてくれた、ただの通りすがりの人だよ」
「そうだよね、ただの人だよね」
「女神さまには、見えなかったからな」
少しだけ笑う。
「そうだね」
彼女は少しだけかんがえて静かに呟いた。
「幸せだと、いいな」
「ん?何それ」
「なんとなく」
そう言って彼の肩にもたれかかった。
「お兄ちゃんどうするのよぉ!」
小学生の兄と妹が、木の上を見ていた。妹は泣きじゃくり、兄も成すすべなく見上げているそこには仔猫が不安そうに佇んでいた。兄が子どもながらに油断せず見ているのは落ちてきたらキャッチするため。
「どうしたの?」
どこからか現れた白いワンピースの女性に、妹は警戒心もなく答えを与えた。
「ボス猫に追われちゃったの」
「あらあら」
彼女は何も困ったような様子もなく呟くと、すっと木に手を掛けるとなんなりとすいすいと登っていく。無防備に風に煽られるスカートの裾を気にする素振りもない。
そして仔猫を片手で抱くと、またススっと降りてくる。高さを残している中を、やんちゃな少年のようにジャンプで降りる。
スカートが翻って奥の白い下着が見えて兄の方が顔を赤くする。
「どうぞ、ちゃんと守ってあげるのよ」
妹に仔猫を渡すと、チラリと兄の方を見る。
「見たでしょう」
顔を真っ赤にして頷いた少年に彼女はなんでもないように笑いかけた。
「そういう時はね、見てない、って言うものよ」
「あー、おにーちゃんのエッチー」
妹が顔を赤くしている兄をからかう。思春期の男の子なら仕方ないと、彼は思うが口になどできるわけがない。
結局、彼は黙ってそっぽを向いた。
そんな2人に笑いかけて、彼女はその横を通りすぎる。
「お姉さん、ありがとう」
その声にも振り返らず片手を上げて軽く振るのが、彼には妙に大人に見えた。
彼女の歩み去ろうとする進行方向から脚立を持って走ってくる父と母が見えて小さく手を振る。歩いている彼女が一瞬足が止まったように見えた。しかしそれも気のせいかと思うくらい短い時間。
「もーおとーさん、おかーさん、遅いよ。もうお姉さんが助けてくれた」
妹が大きい声を両親にかけると、父も母も彼女の前で足を止めた。
ここからでは聞こえないが、満面の笑みできっと「ありがとうございます」と声をかけてるのだろうと察する。それに彼女が固い笑顔で会釈して、そそくさたその場を離れていくのが見えた。
両親はそれには気にもかけず、我が子の手を握りしめるために小走りに駆け寄っていった。
「お姉さんすごかったんだよ、サササって木を登っていったの。そして猫ちゃんをサッと掴んだんだよ」
妹が興奮気味に話している中、兄は彼女が消えていった方向をチラリと見た。カーブの多い道、脇目も振らず歩いていた彼女の姿はない。
「ピョンって飛んだとき、真っ白い天使かと思っちゃった」
「普通の女の人だよ」
「おにーちゃん、お姉さんのパンツ見たんだよ、エッチなんだから」
「見たんじゃなくて、見えたの。仕方ないだろ飛び降りたんだから」
無邪気にからかう妹の頭を小突く。
両親は無邪気にじゃれている兄妹の手をそれぞれ引いて、歩き出す。
「仔猫ちゃんの名前を何にしよう」
妹の問いに兄が間髪いれずに応える。
「ブリュンヒルト」
「言いにくいからブリュちゃんね」
「どっちも言いにくいだろ」
笑いながら家路を急いだ。
彼女がどこに行ったのか、少しだけ気になりながら。
「お母さん、まだ暑いんだから畑なんて後でいいでしょ」
「ちょっと見てくるだけだって」
お婆さんと呼ばれるような年になっても、あるいはなったからか夏の強い日差しに照らされた野菜たちを見るのが、日課になっていた。
特に意味はない。
暑いのに大丈夫なのだろうか、でもない。ただ照らされたトマトやトウモロコシの涼し気な雰囲気が好きなだけかもしれない。
今日も照り付ける日差しのもと、畑を歩いていた。
眼下に見える海水浴場は若者たちで大賑わいだ。
この暑い中、よくあんな日陰もないところで遊べるものだ、と自分のことを棚にあげて目を細める。楽しそうにしている人たちが嫌いなわけではない。
しばらく下を眺め、本来の目的に戻る時にはすでに長い時間が経過していたのかもしれない。
ふ、と、目の前は暗くなっていた。
時間がいくら経ったか分からない。首筋に当てられた冷たいもので体がびくっと動く。少しだけ開いた口から水が少し、流し込まれた。
目を開けると真っ白いワンピースの女性がいた。濡れたハンカチで首を冷やしてくれている。
「大丈夫ですか? こんな暑い日に帽子もかぶらないで外に出てはいけませんよ」
帽子もかぶっていない女性は笑顔で囁いた。
「もう少し、水を飲んでください」
「・・・悪いねぇ」
おそらく海水浴場で買ったと思われるドリンクの使い捨てコップに水を注いでいた。
「一応、洗ってありますけど気になるならお家から借りて来ますけど」
「いやいや悪いねぇ」
受け取った水を飲み干すと、少しだけ力が入ったような気がして立ち上がろうとするがやはりそんなにすぐには戻ってはいないようだった。白いワンピースの彼女は脇の下に手を回して近くに木陰まで寄り添って歩いた。涼しげな彼女の額に玉のような汗がにじんでいた。
「本当に悪いねぇ。倒れてたんか」
「たまたま歩いていたら見えたんです」
「それは楽しんでいるところ申し訳ないことをした」
「全然。人助けができて清々しいくらいよ」
お婆さんと一緒に木の根元に座り込む。
「おや汚れてしまうよ」
「気にしてないから大丈夫です」
彼女はまたも爽やかな笑顔でそう答えた。
「さ、お家で休みましょ。今日はお水ちゃんと飲んで、休んでくださいね」
先に立ち上がりお婆さんの手を取る。そしてゆっくりと玄関まで送ってあげる。
「真っ白なワンピースだねぇ。花嫁衣裳みたいだ」
玄関で別れようとして振り返ったお婆さんはニコニコ笑いながら思いがけない言葉をかけた。そして彼女は思わず目を丸くする。
「・・・綺麗に思っていただいて光栄ですわ」
すぐさま気を取り直したように、そしてさも嬉しい言葉を聞いたかのように笑みを返す。にっこり微笑んで一礼し、踵を返す。
振り返りお婆さんの視界から外れた表情は寂しげな笑みだった。
「お母さん、どこに行っていたの?」
「暑くて倒れたみたいだわ」
「だから昼に出て行かないで、って言ったじゃない」
「探しにも来なかったじゃないか」
「私だって忙しいんです。で、大丈夫?」
少しだけ体重を支えるように娘は母の背中を抱いた。
「優しいお嬢さんに助けてもらってなぁ。めんこい花嫁にしたいくらいの娘じゃったよ」
「休んでもらえばよかったのに」
「若い娘がこんな家に上がりたがるかい。若い者同士で楽しくやるのがいい」
ソファから見える窓の外には、もう彼女の姿は見えなかった。
多くの人が快晴の夏の海で、楽しく幸せな時間を過ごしているのと同じ時間、彼女は車道の脇をトボトボも歩いていた。
使い捨ての、中身も入っていない紙コップを、それをポイっと捨てることも、置き去りにすることもできず、捨てられないヌイグルミのように、彼女の手に収まっていた。
あの2人はきっと幸せな時間を過ごしているのだろうな、少し微笑みながら思う。あの兄妹、仔猫を逃がさなければいいと考える。お婆さん、体に気をつけて欲しいと願う。
「・・・花嫁衣裳か・・・」
ふと首から下を眺める。憧れてはいたが、それを意識したわけではなかった。白は白でも別のものを考えてこの服にしたのに。
道路を上りきったところにある駐車場を横切る。そこを抜けたら絶景の岸壁。
風が強い。風をはらんだワンピースが重い。華奢な彼女なら吹き飛んでしまうかのように。
それまでの人生を噛み締めるように、ゆっくりゆっくり、崖に向かって歩く。
それでも自分でも驚くくらい、足取りが軽い。だってあの女の目をもう盗まなくていいんだ。
私がそそのかした?たぶらかした?そんな言い方、失礼じゃない。純愛よ。恋愛に発展する時間的順番がちゃんと時系列にのってなかったんだ。
10年前、あなたと私が同時に会っていたら間違いなく私が選ばれていたのに。
恋愛に順番なんて関係ないじゃない。たまたま私が後に生まれて、後に出会ってしまっただけ。
あの人は私を愛してくれた。優しくしてくれた。抱いてくれた。
人の純愛を邪魔したのはあっちじゃない。
私は信じていたのに。
私を選んで、私をかばってくれるって
選ばれたのはあの人だった。
私は信じていたのに。
彼の優しさをもっと全身に受けたかった。
彼と昼間の街を歩きたかった。
彼と週末のお休みを過ごしたかった。
私の体で、彼が触れていないところなんてないんだ。それくらい彼は私を愛してくれたのに。
白いワンピースの裾がはためく。麦わら帽子でもかぶっていれば、風に飛ばされたとき映画みたいかも、とつい関係ないことを考える。
そういえば今日はいろんな笑顔が見れたな。
人生最後の日にはふさわしいかも。笑顔で見送られるなんて、そうそうない経験よ。
地面の終わり・・・海の始まり、とでも題そうか。高所恐怖症ではないが、ふと足がすくむ。命を守ろうとする本能が体に緊急事態を告げる。
いいの、もう。あと十数センチ。あと3歩。
すくむ体に対して脳による強権を発動し、左足が一歩前に出る。出たところでいきなり背後から右腕が捕まれ、力ずくで眺めのよい岸壁から引き離される。
「な、何よ! 誰よあんた」
思いがけない邪魔に思わず荒げた声が発せられる。
「若いのに軽々しく捨てた命を粗末にするな」
まだ若い男性の、必死さだけが伝わる何を言っているか分からない言葉に、数秒前の出来事を忘れて、思わず吹き出す。
「何? 何て?」
笑いながら彼の顔を見てつい質問してしまう。
「いや、だから死ぬなって」
しかし彼の言葉が核心に触れると、つい感情が理性に勝った。
「あなたに関係ないじゃない」
捕まれている手を抜こうとして、女性の力では抗しえない握力はさらに力がこもる。
「人が死ぬのを見過ごせるか」
「死にたい人を死なせてあげるのも優しさとは思わない?」
「思わない。生きたい人が死んでいくのに、生きていける人が自ら死を望むのは罪だ」
「何も罰せられないわ」
罰せられるなら、あの女よ。私を死に追い込んだ。
私は死にたくて死ぬんじゃない。もう生きていける場所がないから死を選ぶんだ。
彼が横にいてくれない世界に、私の生きる場所はない。
「!私の命なんだから、勝手にしていいでしょ」
「あんたが死んで泣く人がいるうちは、あんただけの命じゃないんだよ! 子どもじゃあるまいし、聞き分けろ」
「無闇に助けないでよ。私はこの日のために、会社を辞めて、生活用品や服を処分して、アパート引き払って、携帯解約したのよ。このまま帰るところなんかないんだから!」
初めて彼はポカンと口を開き、咄嗟に言葉が発せられなかった。
「・・すげぇ」
「は?」
「金もないのか?」
「いえ・・・お金は捨てるにはなんかもったいなかったし・・・死んだときに抱えてたら地獄で必要かな、と思って」
「どういう宗教観だよ・・・」
呆れたように呟いてから気を取り直したように彼は続けた。
「じゃあ、服を買うくらいは大丈夫だな」
「はぁ?」
彼は彼女の手を握ったまま立ち上がり、そして彼女を引っ張り上げて立たせる。驚くくらい軽かった。
「仕事が見つかるまで俺の家にいなよ」
そう言って慌てたように空いている左手をバタバタさせながら、早口に続けた。
「俺の部屋は狭いけど、仕切りを作るから、仕切りのこっちに来たらダメだぞ、俺も行かないし、触らないし触れないし見ないから安心しなよ」
「・・・見るのまでは禁止しないわよ」
苦笑しながら彼女は、しかし厳しい視線を彼に送った。
「なんで何分前まで知らなかったあなたにそんな迷惑をかけられるのよ? 常識的に無理だわ」
「迷惑をかけるというのは生きるってことなんだよ。もうそろそろ押し問答やめて俺を安心させてくれ」
「なんで私があなたを安心させなきゃダメなのよ」
「・・・ここで、こんなのを見かけて、助けてしまったからだよ」
そして彼は彼女の顔を見てニカッと笑った。悪戯小僧のような笑みのまま彼は続けた。
「俺、きっと運が悪いんだよ」
「・・・私のことは言ってくれないの?」
「え? ああ、きっとあんたも運が悪そうだから、諦めて仕事探して、元気に生きていこうぜ」
「運が悪い同士がいたら相乗効果で最悪じゃない?」
彼は少し黙って考えて、
「俺、数学苦手だから相乗ってよく分からないけど、マイナス×マイナスはプラスじゃなかったっけ?」
彼女は顔を伏せて笑った。なんか自然に笑えた。彼の必死さに、死ぬための覚悟は、死ぬことへの恐怖へと、変わっていた。
「分かりました。仕事が見つかるまで居候させてください」
親も兄弟も、信じていた人ももういない世の中。死んでも悲しんでくれる人もいない世界で、少しだけ生きていこう。彼に手を引かれて歩きながら、生きようと、思った。信じることが出来る人が現れるまで、生きてみよう、そう思った。
どうも明るいお話を書けない性格みたいです(笑)。
ちょっとだけ元気に、ちょっとだけ前向きに、なるかな?
こんなことを考えている人もいる、と思っていただければ幸いです。
お読みいただいてありがとうございます。