685 パティーナの胸の内 1
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メリザさんに言われて自室へと戻る。
部屋が余っているからと、個室を与えられていたのが幸いだった。
鍵をかければ、一人きりになれる。
しっかりと施錠して、しんと静まり返った部屋に、思わず漏れる溜息。
そのままベッドへ倒れ込むと、枕に顔を埋めるように突っ伏した。
「うぅ……」
思い出すのは、ご主人様の驚いた顔。
優しく頭を撫でてくれる手の平の感触。
わたしを庇って守ってくれる腕の力強さ。
少し低くなった声と吐息。
筋肉が付いて逞しさを増した体付き。
服越しにも伝わってくる体温。
出会った頃は、わたしとさほど変わらなかったのに、今では少し見上げないといけないくらいに背が高くなっていた。
どれも出会った頃より男らしく、男性であることを意識させるのに十分で……。
「ああ、駄目……!」
考えれば考える程、余計に意識してしまって、ただでさえ心臓がドキドキと煩いくらいに鼓動を打っているのに、一層激しくなってしまった。
「わたし……どうして今まで平気だったのかしら」
着替えその他、身の回りのお世話をしてきたから、ご主人様に直接触れる機会も多かった。
だけどこれまでは一度も意識したことがなくて、なんとも思わなかったのに。
でも今は意識しすぎてしまって、顔中どころか、身体中がとても熱い。
これでは、とてもではないけれどご主人様の前には出られない。
そのせいでメリザさんにはあの貴族のせいだと誤解され、心配をかけてしまった。
あの貴族のことなんて、今思い出したくらい、すっかり頭の中から消え失せてしまっていたくらいなのに。
これでは仕事をサボっているも同然だ。
でも、今はまともに仕事が出来るとは思えない。
もしご主人様と顔を合わせたら、きっと恥ずかしさの余り悲鳴を上げて逃げ出してしまうに違いない。
「わたしは一体いつからこんな気持ちに……」
……分からない。
分からないけれど、気付いてしまった以上、もう気付かなかった前には戻れない。
溢れ出てくるこの気持ち。
ご主人様が好き。
ご主人様が好き。
ご主人様が好き。
そのたった一つの想いが、次から次へと心の中から溢れ出してきて、わたしをいっぱいにしていく。
「まさかわたしが、こんな気持ちを知ることになるなんて……」
恋愛している子を馬鹿にしたことはないし、馬鹿にするつもりもない。
でも、浮かれて、はしゃいで、好きな人の話ばかりをするようになってと、そんなご令嬢やメイド達を見てきて、わたしとは縁遠い、どこか知らない世界のことのように感じられて。
物事は、冷静に、合理的に考えるべきで、恋愛に現を抜かすと、言動が非合理に偏っていくようにしか見えなくて。
だから、きっとわたしにはこんな風になるのは無理だって、わたしにこんな恋愛をするのは無理だって……わたしに恋愛は必要がないことだと、どこかでそう思っていた。
だから、クラウレッツ公爵から密命を与えられ、殿下とご主人様に近き、お二人のうちどちらかを籠絡して二人を引き離すよう言われたとき、達成出来る自信がなかった。
だから、常に一歩引いた位置から冷静に物事を観察して判断するよう心がけていた。
だから、達成出来なくても仕方がないと、最初から諦めていた。
だから、不用意に距離を詰めすぎないようにと、仕事に徹して……。
それなのに……。
「それなのに、こんな……!」
まるで、今まで見てきたご令嬢やメイド達と変わらない……。
いえ、こんなにも狼狽えて取り乱し、仕事が手に付かなくなっているだけ、もっと酷いかも知れない。
「パティーナ、いる?」
「!?」
不意のノックとリリアナの声に、思わずビクリとなってしまう。
「少し、平気?」
今は誰とも会いたくない。
恥ずかし過ぎて消えてしまいたいくらいだから。
でも……溢れ出てくるこの気持ちを一人で抱え込んでいるだけでは、何も手に付かないし冷静にもなれない。
誰かに、なんとかして欲しかった。
「……ええ」
だから、迷いながらもベッドから起き上がると、躊躇いがちに鍵を開けてそっとドアを開く。
するとそこには、先ほどとは違う完全武装のリリアナが立っていた。
どうして、と疑問に思ったけれど、思い出す。
ご主人様の指示で、あの貴族が報復に現れたとき迅速に対応するための、警戒しての完全武装なのだと。
「わたしと話をしていていいの?」
「ああ、それは大丈夫。念のためと言うだけだから。お館様からも許可は貰っているし、何かあればすぐそちらに向かう」
言われてみれば、他国の王城内で兵を動かして、その国の貴族が暮らす館を襲撃するなんて、あまりにも愚かで非常識過ぎる。
その場で切り捨てられてもおかしくない案件だ。
たとえ本人の頭に血が上っていても、よほどでない限り、まず間違いなく部下達が反対して落ち着かせるはず。
そう考えれば、念のためと言うのは本当に念のためなのだろう。
「それで、いいかな?」
「うん……どうぞ」
リリアナを部屋へ招き入れる。
リリアナはよく遊びに来るから勝手知ったるで、遠慮なくベッドの脇に椅子を持って来てそのまま腰掛けた。
わたしはどうするか少し迷ったけれど、そのままベッドに腰掛ける。
「それで、お館様に告白したって本当か?」
「っ……!」
そんな前置きもなく、いきなりストレートに聞いてくるなんて、本当にリリアナはデリカシーが足りない。
「あれは……告白なんて、そんないいものじゃ……」
言い訳をして、わずかに胸の奥が痛む。
そう……あれはそんないいものじゃない。
どうせなら、もっとちゃんと、ロマンチックな雰囲気の中で伝えるべき言葉だったのに……なんて締まらないのかしら。
「ああ、やっぱり。ようやく自覚して、そのままついポロッと口から零れたと言ったところか」
「ぅ……」
だから、そんなストレートにデリカシーのない……。
いえ、それより今、リリアナはなんて言った?
「『ようやく自覚して』って……リリアナは気付いていたの? わたし自身も気付いていなかったのに?」
驚いてつい身を乗り出したわたしに、リリアナはしょうがないなって言いたそうな顔で苦笑する。
「多分、気付いていなかったのは肝心のパティーナだけかな。お館様ですら、薄々は察していたみたいだから」
「ご、ご主人様まで!?」
「もっともお館様は、勘違いで自意識過剰だったら困るとばかりに、踏み込まないようにしていた節があるけど」
「うぅ……」
なんて恥ずかしい……!
ますますご主人様とは顔を合わせられないじゃない!
両手で顔を覆ったわたしに、リリアナが慰めるようにポンポンと肩を叩いてくる。
指の隙間からチラリとリリアナを伺えば、まるで妹を愛でるような微笑ましい顔をしていた。
いつもは年下のわたしを頼っている癖に、こんな時ばかり年上ぶって。
「でもね、お館様は顔を真っ赤にしていて、満更でもなさそうだったけど?」
「……っ!」
なんでそんなことを言うの!?
ますますどんな顔をしていいか分からないでしょう!
さらに顔が熱くなって、口元がムズムズして落ち着かなくて、顔を覆った手をどかせないじゃない!
「嬉しいなら嬉しいって言えばいいと思うけど」
「か、からかわないで……!」
「別に、からかっているつもりはないけど?」
楽しそうに口元を緩めて、絶対にからかっているでしょう。
「それで?」
「『それで』……って?」
「だから、それでどうするの? お館様にもう一度ちゃんと告白して、側室に立候補するのかってこと」
「――!?」
「もしかして、そこまで考えていなかった? パティーナにしては珍しいな」
「そ、それは……」
「そっか、いっぱいいっぱいになっちゃってたか」
リリアナが、まるで小さな子供にするように、わたしの頭を撫でる。
せっかくのご主人様が撫でてくれた感触が上書きされるようで――いえ、わたしは何をそんな恥ずかしいことを……!
「それで、どうする?」
「それは……」
…………。
「どうもこうも、どうしようもないもの……」




