669 新しい屋敷での新生活
まあ、責任や実感を改めて覚えたとは言え、だからって残ってる庶民的な感覚がすぐに貴族的な感覚に切り替わるはずがないわけで。
「……一年ぶりだな……この『知らない天井』って感覚」
自室のベッドで目が覚めたけど、一瞬、どこか分からなくて混乱して、ああ、そう言えばって、納得。
屋敷を建て替えてる最中は、やっぱり同じトロルの家をリフォームしただけの家だったから、それほどの違和感はなかったんだけど。
建材の石が剥き出しの吹き抜けみたいに高い天井だったのが、綺麗な模様でデザインされた天井に変わり、およそ半分くらいの高さまで低くなって視界に迫ってきてる。
これはただ、トロルの部屋の広さが、幅、奥行、高さと、どれを取っても倍くらいあったのが、ようやく適正な人間サイズの部屋になっただけなんだけどさ。
それにちょっとだけ閉塞感を覚えてしまうのは、慣れって言うか住めば都って言うか、戸惑いを覚えるくらい以前の部屋に慣れ親しんでたんだなって、改めて思ったよ。
しかも、その四倍くらい広い部屋をパーティションで区切ってそれぞれ寝室や居間みたいに使ってたから、余計に解放感があったし。
それでも、きっちり壁で仕切られたとはいえ、寝室や続きの部屋もパーティションで区切られてた時より広くなってて、贅沢度は増してるんだよな。
調度品は基本的に前の屋敷で使ってたのをそのまま運び込んで使ってるけど、それだけじゃ殺風景だからと新調した調度品、そして置物や美術品が増えてるから余計にだ。
そんなことをベッドの上でぼんやり考えてたら、ドアが控え目にノックされた。
「起きてるよ。どうぞ」
返事をすると、アイジェーンが寝室に入ってきた。
「おはようご主人。今朝は早いね。新しい寝室の使い心地はどう? よく眠れた?」
若干のからかいを含んだ声でそう言いながら、アイジェーンが勢いよくカーテンを開けて窓を開く。
差し込んでくる眩しい朝の光と、吹き込んでくる春の香りを含む風が、寝起きの頭にスッキリ心地いい。
「どうもこうも、正直、すごく落ち着かない……」
「あはは、遠からず辺境伯様になるんだから、この程度の生活には慣れないとね」
簡単に言ってくれるなぁ……まあ、言う通り、慣れないと駄目なんだろうけど。
「アイジェーンはどうだ、この新しい屋敷は?」
「ようやく落ち着く、って感じかな」
苦笑交じりだけと表情は明るい。
「実家の屋敷に比べたら、辺境伯の家格を意識した作りの分、やっぱり豪華で贅沢だから、その分の緊張感はあるよ? だけど、トロルの家の借り暮らしを考えたら、ようやく腰を落ち着けられる、ってね」
「そういうもんなのか……それってみんなもかな?」
「多分ね?」
「それは……悪かったな。一年近くも借り暮らしのまま引っ張っちゃって」
「気にしないでいいよご主人。一年前から屋敷の建て替えに着手していても、ゼロから設計して、真っ当な方法で建築していたら、前の屋敷よりもっと手狭な家で数年は借り暮らしだったはずでしょう? それを考えれば、十分早かったと思うからね」
相変わらず、気っ風がいいって言うか、サバサバしてるって言うか、アイジェーンらしい。
「お喋りもいいけど、着替えながらにしようか、ご主人?」
「ああ、そうだな」
屋敷の感想を忌憚なく語り合いながら、相変わらず慣れないけどアイジェーンに手伝って貰って、普段着用の伯爵の服に着替えてしまう。
それから食堂へ。
真新しい食堂は、真っ白なテーブルクロスと相俟って、清潔感と豪華さとが強調されてて、汚しそうで席に着くのも躊躇うくらいだ。
でも、俺以上に戸惑って躊躇って可哀想なのが、エフメラだろう。
「……」
昨日からって言うか、この新しい屋敷に入ってから、ずっと借りてきた猫みたいに大人しいんだよね。
工事中は仕事だからそこまで気にならなかったみたいだけど、いざ住むとなったら、一気に実感がきたらしい。
未だただの貧乏農家の娘でしかないエフメラにとっては、無骨な石造りの屋敷だったらまだしも、立派な貴族の屋敷なんて、壁や柱も含めてある物全て触るのも怖いだろうし、間に合わせじゃない真新しい絨毯を踏むのも躊躇うんだろう。
さすがに、前の屋敷から持ち込んだ自分用の椅子や机やベッドくらいは、もう慣れてると思うけど。
「エフメラ、おいで」
俺より早く起きて食堂に来てたのか、じっと椅子に座ってたエフメラを手招きすると、無言のままだったけど、急いで駆け寄って抱き付いてきた。
だからそのまま膝の上に乗せて、横座りで座らせる。
「よしよし。慣れないか?」
「うん……前のお屋敷と全然違う」
頭を撫でてやると、抱き付いたまま、本当に猫みたいに頬を擦り寄せてくる。
前世でも猫は飼ったことないけど、引っ越し先に慣れずに警戒してる猫って、こんな感じだったのかもな。
「でも、王城で姫様とフィーナ姫の館を訪ねた時はここまでじゃなかっただろう?」
「お客さんで行くのと住むのじゃ全然違うよ。帰るまで気を付ければ平気じゃなくて、汚したらどうしよう、傷つけたらどうしようって、ずっと考えちゃうし」
「まあ、そうだよなぁ……」
本当に、平民と貴族じゃ、身分差や生活レベルの差が大きいもんな。
「エメ兄ちゃんは? お城も、他の貴族のお屋敷も、いっぱい行ったことあるでしょう?」
「俺も同じだよ。やっぱ自分の屋敷に住むって言うのとは、全然違うからな」
王城で借りてる館も暮らすようになってから長いけど、飽くまでも借り物だからな。
そういう意味では割り切れるけど、今、目の前にある屋敷は全部俺の物なわけで。
身の丈に合わない超高級なブランド品を身に着けてるようなもんだ。
「気にせずともそのうち慣れますわ」
ワゴンを押して食堂に入ってきたサランダが、実に事も無げに言う。
しかも、料理を並べる手際も姿も、堂々としたもんだ。
むしろ生き生きしてて、この屋敷は俺のじゃなくてサランダの物なんじゃないかって気がしてくるくらいだよ。
これはやっぱり、アイジェーンの言った通りなのかもな。
特にサランダは、今は子爵令嬢でも、元伯爵令嬢かつ元伯爵夫人だったから、かつてこのくらいのレベルの生活をしてたわけだし。
そういう意味で、ようやく以前の生活レベルに戻れたって感じなのかも。
「故意に傷つけたり壊したりするのでなければ、傷や汚れは歴史ですわ」
「あぅ」
サランダは、どこか母親か姉っぽい顔で、エフメラの頭を撫でる。
「ただの汚れでしたら、わたくし達やメイド達が綺麗にしてしまいますし、ちょっとした傷程度なら補修してしまえば済むのですから、気にする必要なんてありませんわよ」
「……そういうもの?」
エフメラが見上げると、サランダが自信たっぷりに微笑む。
「ええ。そういうものですわ。それでも残ってしまった傷や汚れは、何年かすれば、当時こんなことがあったって思い出話になりますし、笑い話にも出来ますわよ。すぐに慣れろと言われても難しいかも知れませんが、いつまでも気にして萎縮していたら、息苦しくて辛いだけですわ」
「そうなのかな……そうなのかも?」
「ええ。なんでしたらいっそ開き直って、一度ベッドなり棚なり魔法で派手に壊してしまってはいかが? エフメラさんが壊してしまっても、すぐに伯爵が買い直してくれて、なんだこんなものかと肩の力も抜けますわよ。それだけ稼いでいるんですから、なんの問題もありませんわ」
「おいおい」
至極当然って顔で、とんでもないこと言ってくれるな。
「あはは♪」
でも、エフメラが楽しげに声を上げて笑う。
ちょっとは緊張がほぐれたかな。
笑顔になったエフメラの頭を、サランダが優しく撫でる。
「あなたは伯爵の妹なのですわよ。しかも伯爵の妻になりたいのでしたら、この程度で萎縮していたら、格好が付きませんわよ?」
「む……それはそうかも」
確かに、汚したらどうしよう、壊したらどうしようって、自分の屋敷でビクビクオタオタしてるご夫人やご令嬢なんて、見てて残念すぎるよな。
「うん、ありがとうサランダさん」
「どういたしまして、ですわ」
エフメラは、貴族としてのマナーとか立ち居振る舞いとか心得とか、サランダに色々教えて貰ってるからか、姉や先生みたいに信頼して慕ってるところがあるからな。
先達の教えとして、すんなりと聞き入れられるんだろう。
そういう部分は俺じゃあ教えられないし、俺もサランダに学ばせて貰ってる。
「ところで伯爵。なんですの、その複雑そうな顔は」
「……俺より上手にエフメラを慰められて、ちょっと悔しいだけだ」
「あら、それは大人げないこと」
楽しげに勝ち誇ったように笑うと、残った配膳へと戻る。
「でも、俺からも、ありがとうな」
「ええ。どういたしまして、ですわ。この程度、お安いご用ですわよ。さあ、エフメラさんも落ち着いたなら、そろそろ自分の席に戻りなさいな」
「はーい」
エフメラが元気よく答えて、俺の膝から降りると自分の席に戻る。
サランダはそれを笑顔で見ながら配膳を済ませて、食堂の隅へと控えた。
なんだか以前より、明るく楽しげに仕事をしてくれてるみたいで一安心だ。
「さあ、冷めないうちに食べるか。いただきます」
「うん、いただきます」
朝飯が終わったら、新しい執務室で早速仕事を開始だ。