618 フォレート王国の動向 西進
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フォレート王国軍の総大将、エミリーレーン直属の第五騎士団、通称輝水騎士団の騎士団長は、偵察兵の報告を受けて眉間の刻まれた皺をさらに深くする。
「周辺の町も村も、やはりトロルの姿は一匹たりともない、か……」
「保護した奴隷達の話からも、トロルどもは一部の奴隷達を人足として家財食料その他を運ばせ、町も村も放棄しているのは間違いないかと」
副団長の言葉に、辺境伯は勝ち誇った笑みを浮かべる。
「どうやらトロルどもは我らに恐れをなしているようだ。ゲガブド砦攻略以降、付近の砦は長年使われていない小さい物ばかりとはいえ、全て放棄され抵抗らしい抵抗が一切ないのがそのいい証拠」
「無駄な抵抗は諦め、完全に北部の領土を放棄したのでしょう」
「うむ。ゲガブド砦の攻略に手間取ったのは、付近のトロルどもを後方へ逃がすための時間稼ぎに違いない」
辺境伯の自信たっぷりの言葉に、他の貴族達も続く。
その言葉にも根拠がある。
最初に攻略したグロブド砦は、エミリーレーンの作戦通りたった四日で陥落させた。
これはトロルにとっても想定外だったことだろう。
そのためか、続くゲガブド砦の激しい抵抗にはフォレート王国軍もさすがに手こずり、攻略には十日以上掛かってしまった。
しかし、フォレート王国軍、シェーラル王国軍、両国が陥落させた国境線を守る最前線の砦は、これで四つとなった。
立て続けに重要な砦を四つも失陥したのだから、未曾有の大敗北と言える。
「さすがのトロルどもも、小規模な守備隊での抵抗は無駄に被害を拡大するだけだと分かっているのだろう」
「周辺の小さな砦に立て籠もったところで、何が出来るわけでもありませんからな」
「うむ。もはや手はなしと、領土を放棄する判断を下しても致し方ない」
「まさに連戦連勝の快進撃。もはやこの勢いを止められる者など存在すまい」
「このままいけば、奪われた領土を全て奪い返した上で、約定通り元シェーラル王国の領土だった地方もそのままフォレート王国へ編入出来ることは確実」
貴族達が勝利の美酒に酔いしれるように、長年トロルとやり合ってきた辺境伯すらもがフォレート王国の勝利を確信するほどに、戦況は一方的に推移していた。
「しかし、勝っている時こそ、足下を掬われぬように、気を引き締めなくては」
騎士団長も勝利の手応えを感じてはいたが、周りの貴族達が浮かれれば浮かれるほど、緩みそうになる心を戒めていた。
フォレート王国軍は順調に西進を続けている。
ゲガブド砦攻略戦以降、道中にあるどの砦も町も村もトロルの姿は一匹たりともなく、一度も戦火を交えていない。
おかげで、全く損耗なしに次々と領土を奪い返しているのだが、本気でトロルが領土を諦めたとは思えなかった。
もちろん、辺境伯も本気でそうなると楽観的に考えているわけではない。
一般人と一緒に町の守備隊や砦の駐屯兵までも引いていると言うことは、どこかで兵力をまとめ、反撃に出てくる準備を進めているだろうことは間違いないからだ。
それが分かっているから、騎士団長は軽口を叩くことなく地図を睨む。
「シェーラル王国軍からの返答は?」
「どの砦にもトロルの守備隊が配置され、町や村でもトロルの抵抗に遭っているようです。いずれも兵力差で押し潰し、制圧を進めているようですが、こちらのような状況の町や村は一つもないとのことです」
「そうか……」
フォレート王国軍は想定よりも早く北部の領土の制圧を進めていた。
すでに作戦目標となる奪還すべき領土のおよそ半分を制圧しているが、それに掛かった期間はわずか一ヶ月半だ。
対して、シェーラル王国軍は想定よりやや遅れながらも、作戦目標となる奪還すべき領土の三分の一を制圧している。
しかし、その進軍速度の差で、現状フォレート王国軍が突出している形になってしまっていた。
シェーラル王国軍と足並を揃えて西進していれば、南の守りを考えることなく、前へ前へと進めば良かったが、万が一、シェーラル王国軍が制圧する予定の地域よりトロルの部隊が北上してきて、進軍中の隊列の横っ腹や後方の輜重部隊を奇襲されでもしたら、被害が甚大なことになる。
よって、作戦通りなら必要最低限の兵力を要所要所に残していれば良かったが、重要な拠点ごとに南を睨む十分な兵力を配置しながら進軍しなくてはならなかった。
そのため、戦闘で損耗しているわけでもないのに、本隊の兵数が予想より少なくなってしまっているのだ。
「順調すぎるのも考えものだな。このまま無策に西進するのは厳しいだろう」
「そうですね。明らかにトロルどもが兵力を温存して撤退している以上、どこかで反転攻勢に出てくるのは確実です。恐らくその時は、北部の他の地方や中央からの援軍も合流してかなりの兵力になっているはずです。その時、本隊の兵数が足りなくては敗北を喫する可能性があります」
「かといって、それを恐れて縮こまっていては、このかつてない領土奪還の機会を逃すことになる、か。まるで焦土作戦だな。脳筋で蛮族のトロルの中にも多少は切れる者がいるようだ」
トロルは基本的に脳筋で、無尽蔵のスタミナと、少々の傷なら治癒してしまう再生能力を頼みに、力でごり押ししてくるのが普通だ。
しかしそれは、自分達の『力』に絶対の自信があり、単純にその『力』を振るっているだけで勝てるから、その戦法を採っているに他ならない。
その力押しが通じなければ、単純ながらも策を弄するだけの知恵はある。
今回は、より効果的に策が嵌まっているが、やっていること自体は実に単純だ。
シェーラル王国軍を相手に遅滞戦術で足止めしながら、北部の一般人と兵力を西回りで一旦逃がす。
その後、態勢を立て直して反撃に出る。
そして反撃に出るからには、奪われた領土全てを奪い返す勢いでいく。
ただ、それだけである。
実際に、フォレート王国軍が北上してくるトロルの部隊を警戒して、要所に十分な兵力を残しながら進軍しないといけないのは、トロルの頭では計算になかった。
「かといって、北上されると困るからと、シェーラル王国軍が制圧する予定の地域に、こちらから兵を差し向けるわけにはいきませんからね」
「出来ればそうしたいところだがな。そんな真似をすれば、必ず揉めるだろう」
騎士団長として、それは出来ない相談だった。
それが原因で両軍の足並が揃わなくなれば、今後の作戦遂行に問題が起きることは明らかだ。
不用意にそのような真似をしては、無能の謗りを免れ得ず、エミリーレーンの期待を裏切ることになるだろう。
敬愛するエミリーレーンに失望の眼差しで見られることなど、あってはならないことだった。
「しかも戦利品が多すぎるのが仇となるとは」
騎士団長が焦土作戦と評し、要所に十分な兵力を残さなくてはならない理由が、もう一つあった。
「確保した奴隷達は、これで何人になった?」
「およそ、七千です」
砦も、町も、村も、多くの奴隷達が放置され取り残されていた。
しかも、ことごとく食料を引き上げられていたため、飢えた状態でだ。
戦利品として労働力になる奴隷を手に入れることは作戦の中に組み込まれているため、その奴隷達を確保しない手はない。
しかし、その奴隷達を食わせるための食料は、制圧した砦は元より、町や村に残された食料を当てにしていた部分がある。
そもそも、戦争で領地を奪い取ると言うことは、現地で食料を略奪、もしくは住民に安く提供させ、それで兵の腹を満たすことが、最初から補給計画に組み込まれている場合がほとんどなのだ。
それがない以上、奪うどころか自分達が輸送してきた食料を逆に分け与えて食わせてやらなくてはならない。
結果、兵站に多大な負担が掛かっていた。
「七千か……今後はもっと増えるだろうな」
「このまま西進しては、まず間違いなく、一万五千を越えるのではないかと。本国へ連絡し、予定を繰り上げて補給部隊を派遣して貰わなくては兵達が飢えます」
「かといって、奴隷達を見殺しにして飢え死にさせるわけにもいかないか……」
「奴隷達が食料を寄越せと、暴動を起こすこと間違いなしです」
そうなれば、兵達に犠牲が出るし、士気にも関わってくる。
「奴隷達が言うには『食い物ハ、エルフどもカら恵んでもらエ』と言われた、だったな。当然それも狙っての奴隷の放棄だろうな」
奴隷は所有物で財産である。
トロルにしてみれば、エメルに引き渡すため、今所有している奴隷達の所有権をいつかは放棄しなくてはならない。
つまり、相手が誰であろうと、奴隷の放棄は早いか遅いかの違いでしかないのだ。
加えて、撤退時に奴隷達のスタミナのなさ、歩幅の小ささは足手まといになる。
そんな奴隷達を手放すのを惜しんでゾロゾロ連れて歩き、フォレート王国軍に追い付かれて殺されては本末転倒でしかない。
「トロルにそこまで知恵が回るでしょうか?」
「トロルは脳筋だが獣ではない。足手まといを押し付けて足枷にしてやる、くらいの知恵は働くだろう」
フォレート王国軍としては、戦闘に巻き込まれて少なくない奴隷達が死に、また戦闘の混乱に乗じてこれ幸いとトロルの軛から逃れて散り散りになり、実際に確保出来る奴隷達の数はそう多くないだろうとの予想だった。
つまり、ほどほどの数が手に入ればそれで良かったのだ。
まさかトロルが思い切りよくほとんどの奴隷を放棄して撤退するなど、さすがのエミリーレーンも想定外の事態だった。
「何事も計算通りにはいかない、か……」
かといって、愚痴をこぼすだけでは始まらない。
手を打つのが、指揮権を預かる者の責任だ。
「可能な限り速やかに奴隷達を後方へ、本国の砦へと輸送だ。出身国の調査は輸送中に行わせろ。前線で食わせてやる余裕はない」
「はい、そのように手配します」
副団長の言葉に、騎士団長は頷く。
奴隷達の扱いはそれでいいとして、今後の方針を決める必要があった。
「偵察の範囲を広げ、トロルの反転攻勢に対する警戒を厳重にし、進軍速度を落とすしかあるまい。情けないが、援軍の派遣も含めて、幾つかの作戦案と共に状況を報告し、エミリーレーン殿下の裁可を仰ぐこととしよう」
「ふむ。それと同時に、シェーラル王国軍の尻も叩く必要があるでしょうな」
「辺境伯の言う通り、シェーラル王国軍が予定通り進軍していれば、進軍速度を落とすまでのことはしなくても良かったのは間違いない。これ以上、足を引っ張られては適わないからな」
◆◆◆
「そう……トロルがそんな真似を、ね」
届けられた報告書と作戦案に目を通し、エミリーレーンの眉間に皺が深く刻まれる。
無能な貴族や指揮官であれば、現場でなんとかしろと、責任を現場に押し付けて、当初の計画に固執するところだろう。
しかしエミリーレーンはそのような無能ではない。
「万が一の事態に備えて国境線の砦に張り付けていた部隊から、至急援軍を編成させなさい。トロルの抵抗がないのなら、後方へと変わった国境線で兵を遊ばせておく意味はないわ」
「はっ、そのように通達します」
「それから、その部隊に補給物資を運ばせなさい。今後も確保する奴隷の数は増えるでしょうから、余分にね。そして、奴隷達を後送する砦に追加の物資を送ることも忘れないように」
「畏まりました」
「進軍速度を落とすのは、援軍到着までは認めます。どうせシェーラル王国軍が足並みを揃えるまで、まだ少し時間が掛かるでしょうしね。でも、進軍速度を落とすのは援軍到着までよ。いずれ大規模な反撃に出てくるでしょうから、今の内に可能な限り領土を奪還して、反撃に出てくる敵部隊に迫りなさい。悠長に進軍して、反撃の態勢を十分に整えさせてやる必要はないわ」
エミリーレーンは矢継ぎ早に指示を出した後、癖になった手つきで髪を払う。
「シェーラル王国へは、私からも抗議を入れておくとしましょう。この千載一遇のチャンスは、絶対に逃せないのだから」




