52 献身的なクレア
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「アイゼ様、そろそろお支度をなさいませんと、お時間に遅れてしまいます」
「む、もうそんな時間か」
私が声をかけると、手にした書類から少し疲れの滲んだ顔を上げるアイゼ様。
執務机に山のように積み上げられ広げられた、何十枚もの書類をきちんと整理して、席を立たれる。
戻って来たらすぐにまた広げて散らかしてしまうというのに、几帳面なお方だ。
国王陛下亡き今、代理として王太子であるアイゼ様の職務はとても多く責任も重い。
これまでも公務に携わり、精力的にお仕事をされていたアイゼ様だが、その頃とは比較にもならないほどに、こなさなくてはならないお仕事が多いのだ。
王都奪還を果たしたとは言え、今はまだ戦時中。
各方面で発生する案件は膨大で、成人前からこのように仕事に忙殺されていては、健康と将来に不安がある。
かといって、アイゼ様にしか決済できないお仕事があまりにも多すぎて、仕事の手を緩めることも出来ないのだから、僭越であるとは分かっていても心配になる。
そんなアイゼ様の、わずかな安らぎの時間がやってきた。
「では、いつも通りよろしく頼む、クレア」
「畏まりました、アイゼ様」
自室に戻られたアイゼ様の着替えが始まる。
王太子としての衣装を脱ぎ、下着も男物から女物へ変え、フィーナシャイア様より融通して戴き仕立て直したドレスに着替え、化粧をする。
衣装替えは他の侍女達の手を借りるが、化粧は私自らが全てを行う。
エメル様の好みはリサーチ済み。
その上で、疲労を隠すために明るい色で少し厚めに塗り、表情も柔らかく見えるように整える。
目を閉じじっと黙って化粧をされているアイゼ様を見ていて、ふと気付く。
少し、髪が伸びてきていた。
ショートヘアだから、そろそろ綺麗にカットする必要がある。
でも、次は毛先を少しカットするだけでいいだろう。
せっかくアイゼ様が髪を伸ばされているのだから、より早く伸びるよう、その程度で留めておくのがいい。
最後にウィッグを被り、エメル様好みのロングヘアとして、着替えが終了する。
わずかの時間で王太子のアイゼ様は、お美しい姫君へと変貌を遂げていた。
「どうだ?」
「はい、大変にお似合いです。どこに出しても恥ずかしくない姫君ですよ」
「そ、そうか」
姿見の前で頬を染めるそのお姿は、とても愛くるしく、自然と笑みが零れる。
この姿を見せられれば、男かどうかなど関係ないと、エメル様以外の殿方ですら仰っても不思議ではないと、しみじみ思う。
「では行くぞクレア」
王太子の姿のままお茶会へ顔を出されれば、今の着替えの時間も、また王太子の服へ着替える時間も、全て仕事に回せるはず。
でもそれをよしとしない。
自らの名において結ばれた約束だから徹底し矜持を貫いている。
新人の侍女達の中にはそう考えて、さすがアイゼ様だと協力的な子も多い。
それは一面間違ってはいない。
けれど本心は、次第に生まれてきている乙女心によるものに変わってきているのではないか、私はそう見ている。
口さがない連中は無責任にも、アイゼ様の乱心だとか、王太子が恥知らずな真似をとか、言いたい放題陰口を叩いているから始末に負えない。
さすがに貴族相手には私も滅多なことは言えないし出来ないが、そうでない相手には、徹底的に睨みを利かせてあの手この手で黙らせるようにしていた。
アイゼ様の場合は、お立場がお立場だけに耳目を集めやすく、悪目立ちしている感は否めない。
けれど、アイゼ様のようなケースは、一般的ではないものの、実は決して珍しい話ではなかった。
例えば、男性騎士達だ。
轡を並べ、共に命を賭けて戦う騎士達には強い絆が生まれる。
身を挺して仲間を助ける者、それで命を救われる者。
騎士としての力、男の器、その大きな背中を見て、憧れる者。
男性を褒める言葉に『男が惚れる男』というものがあり、男の器を見せつけた男性に『格好いい、抱いて』と冗談混じりの賞賛を言う男性がいるように、男性が男性に憧れを抱くことは決しておかしな話ではない。
それが他の者達より高まった者達の間で、一線を越えた関係が結ばれるだけだ。
そして、何もそれは男性同士に限った話ではない。
お茶会や舞踏会で出会った華やかなご令嬢に、憧れを抱くご令嬢。
目上のご令嬢を『お姉様』と慕い、目下のご令嬢を『妹』のように慈しむ。
政治の道具としてしか生きられない、その生涯に自由などない、そんな乙女達の恋に恋する、瞬きする間に過ぎ去ってしまう煌びやかな時間。
その中で、憧れと慈しみがいつしか思慕へと変わり、一線を越えた秘密の花園が生まれるだけだ。
私もアイゼ様の影響で多少ロマンス小説を嗜むようになったが、そのような性別の垣根を越えた美しくも麗しい友情と恋の物語を描いた作品のなんと多いことか。
謂わばアイゼ様は、その思春期の真っ直中におられるのだ。
多感な年頃であるが故に、エメル様の純粋で真っ直ぐな想いに、強く心が揺さぶられたのだろう。
命の危機、周囲からの重圧、明日をも知れぬ運命。
戦争の最中で、アイゼ様を取り巻く状況は日ごとに厳しくなり、アイゼ様を押し潰そうとしてくる。
そんな心が折れそうな辛く苦しいときに、自分を認め、支え、立場など関係なく一人の人間としての自分のために、命を賭けて戦ってくれる者がいる。
そして、真っ直ぐな熱い想いをぶつけて、自分を望んでくれる。
まるで、アイゼ様が嗜んでいらっしゃるロマンス小説そのものだ。
姉君のフィーナシャイア様の影響を多分に受けている感は否めないものの、アイゼ様もまた、そのようなロマンスに憧れを抱いているのは明白だった。
であればこそ、これで落ちないはずがない。
配役こそ英雄ではなくお姫様であったものの、もはやそのような性別の違いなどなんの意味も成さないだろう。
一般的ではなく、あまり歓迎されないとはいえ、公然の秘密でそのような関係が珍しい話ではないことは、広く知られているのだから。
それさえ乗り越えてしまえば、後はお二人の気持ち次第だ。
だから、この状況を生み出した原因の一端としての私は、誠心誠意、全力でお二人の仲を応援させていただく。
意図せぬ状況に転がったなどと、言い訳をするつもりはない。
たとえ、発端や原因がなんであれ、アイゼ様にはエメル様の支えが必要なのだ。
お二人が仲を深め、強い絆で結ばれ、それで幸せになれるというのであれば、それを陰に日向に成就するよう立ち回るのが、私の義務と責務なのだから。
お茶会のアイゼ様は、とてもリラックスされている。
エメル様の積極的なアプローチに困った顔をしながらも、照れが見え隠れして、内心では満更ではないようで微笑ましい。
日ごと乙女に変わられていくアイゼ様。
いっそ本当に姫君としてお生まれになられていれば、問題はもっとシンプルで済んだだろうにと、そう思わずにはいられない。
そしてその肝心のエメル様は、お食事の最中、また大きな波紋を投げかける発言をされた。
「そこで、科学的知識や農業の知識をちゃんと持ってる人達に、俺が直接その方法を伝授するんで、この野菜達を王家の直轄地で大々的に栽培してみませんか?」
エメル様の生まれ故郷の村で栽培されている、美味で見た目も良く上質な作物を、王家の直轄地で栽培する。
これだけでも、随分と大胆な提案だ。
そして、素晴らしい提案でもあった。
だから私は考えた。
王家がその秘密を独占すれば、口さがない貴族達を相手に、優位に交渉を進められるだろう。
きっとアイゼ様の重圧も多少なりとも減って、エメル様と過ごされる時にアイゼ様へ向けられる目も、少しはましになるだろう。
それは半分しか正解ではなくて、そこが私の限界だった。
エメル様の発想には、その先があったのだ。
グーツ伯爵家の長女として恥ずかしくないだけの教育を受けた私よりも、遥かに高い視点と広い視野で、もっと長期的に、何よりも苦しいお立場のアイゼ様のためにと考えられた献策。
侍女としてあるまじきことに、主人とその大切な思い人との会話を聞いて、その驚きを態度に出してしまったくらいの衝撃だった。
アイゼ様に恥を掻かせる真似をしてしまった羞恥と反省から謝罪するという当然の行為に至るよりも先に、私は覚悟を決めた。
アイゼ様とエメル様、このお二人の関係は、何があっても成就させなくてはならないと。
エメル様を決して逃してはならない。
現実が見えず、自己保身で王家の責任を追及するばかりで、なんら建設的な議論も出来ない愚かな貴族達。
そのような者達の嫌がらせに嫌気が差して、エメル様がアイゼ様を置いて去って行くような事態だけは、絶対にあってはならない。
そのために、今の私に何が出来るのか。
謝罪することすら失念して、私はそれだけを必死に考えた。
「あ、あの!」
ところが、そんな私の思考を中断せざるを得ない、あるまじき発言をレミーが口にしたのだ。