38 今だけは……
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この国のことを、貴族のことを、世界のことを知りたい。
そうエメル様が仰った時、わたしはすぐにピンと来ました。
わたしの側に護衛の近衛騎士がいるため、敢えてぼかした言い方をされましたが、アイゼとの結婚を貴族達に認めさせるために、知識を、情報を欲しているのだと。
「そういうことでしたら、わたしがお教えしましょうか?」
「えっ、いいんですか!?」
「はい、エメル様には命を救って戴いたご恩がありますから。この程度ではとてもお返し出来ませんが、わずかでもお返し出来るのであれば、喜んで」
本当に、その程度でこの身を救って戴いたお返しになるとは思えませんが、エメル様のため、そして何よりアイゼの幸せのため、可能な限りの協力をしたいと思います。
王女たるわたしが、恩人とは言え平民の教育係をするなど周囲が煩いでしょうから小さく釘を刺しておきましたが、近衛騎士はちゃんとそれに気付いたようで、あまり良い顔をしませんでしたが、渋々了承してくれたようです。
それでも、外聞が良い話ではありませんし、参考書となる十分な書物があり、人目に付かない、静かな図書室へと場所を移しました。
たまたま蔵書数の話から母国語の話になりましたが、どうやらエメル様は、我が国で使われている母国語が周辺諸国でも使用されている公用語だとは知らず、人間独自の言語と思われていたようです。
それも無理のない話です。
そもそも読み書きが出来る平民の数が圧倒的に少ない上に、地理や歴史などを本格的に学んでいる者はさらに少ないのですから、使われている母国語の歴史など知れようはずがありません。
ですが、この時は、エメル様でも知らないことがあるのだなと、ちょっとだけほっこりしてしまいました。
「それではまず、我が国の歴史について概要だけを簡単に説明しますね」
ですので、恐らくは詳しく知らないだろう歴史についての話をすることにしました。
話していて気付きましたが、本当にエメル様は我が国の歴史について、ほぼ何も知りませんでした。
ですが、ただ知らないだけでした。
教えれば教えるほど、エメル様はどんどん覚えていきます。
地名や人名などは一度では覚えきれないこともあり、色々とあやふやでしたが、関連した事項はちゃんと覚えられていて、事柄と事柄、出来事と出来事の関連性を類推し、何故そうなったかの推測までされていました。そう、歴史は人の営みによって生まれた流れであると、ちゃんと理解されていたのです。
これまで知る機会がなかったから知識に不足があるだけで、高度な知性と教養をお持ちなのは明らかでした。
そんなエメル様の知識に偏りがあると、おかしいと感じたのは、歴史の話が終わり、我が国の地理についての話になってからでした。
「これが現在の我が国の地図です」
「我が国の地図って……いいんですか俺に見せちゃって。軍事機密ですよね?」
地図が軍事機密であると知っていたことも驚きでしたが、ここまではいいでしょう。
ですが、わたしが地図を描いていくと、その地図を見て地形を把握されたのです。
地図は一般には出回っていません。
エメル様の仰る通り、軍事機密なのですから。
それこそ、代官や豪商などの政治や経済に大きく関わる者達であれば、自分達の住む地域の狭い範囲であれば、簡素で不正確な地図くらい見たことはあるでしょう。
ましてや国土全てを記している地図など、それこそ王城でも一部の者しか見たことがありませんし、把握してもいません。
ですが、エメル様は農民でありながら、地図を読み解き理解されていました。
この知識の偏りは、いったいなんなのでしょう。
しかも、それだけではありません。
クラウレッツ公爵領の領地の様子や特産などの話をしているときでした。
クラウレッツ公爵領の北の外れには火山があります。そこにお湯が湧き出る不思議な川があると話をしたときです。
「それって温泉ですよね? なんで温泉掘って、観光地や湯治場として開発しないんだろう。人を呼び込めば儲かるのに」
温泉という物の知識のみならず、それを利用することでの領地経営への言及までされたのです。
さらに、アーグラムン公爵領について話しているときでした。
「元々は麻布で儲けてたのはいいとして、突然綿花を栽培って、どこから持って来たんですか? エルフのフォレート王国の特産でそこから輸入? 普通、自国の主要な産業に関わる物資を輸出なんてしませんよね? それって、どんな条件や裏取引があったんですか?」
綿花の出所に不信感を覚えることが、まず普通ではありません。
新しい産業を興してアーグラムン公爵はすごい、領地経営の才能がある、外交の手腕が並外れている、などと考えるのが関の山のはずです。事実、下級貴族程度であれば、その程度の発想しかしていませんでした。
それなのに、アーグラムン公爵とフォレート王国の関係を怪しまれ、そこによからぬ取引がなされただろうことに気付かれました。
それはもはや平民ではなく、貴族の、それも政治に携わる上級貴族の発想です。
初めてお会いしたときは、まるで大きな商会の跡取りのようだと思いましたが、それどころではありません。
アイゼがエメル様に『そなた、何者だ?』とよく言っている理由を、本当の意味で理解した気がします。
果たしてエメル様は何者なのか。
エメル様のことを、もっと知りたいと思ってしまいます。
アイゼはわたしの知らないエメル様のそんな一面をよく知っていたのでしょう。
……わずかに胸が痛みます。
アイゼに嫉妬などしてはいけません。
エメル様は、アイゼが女の子になってでも寄り添いたいと思った方なのですから。
だからわたしは二人を応援するために、エメル様の教育係を買って出たのです。
「ずっと付きっきりで家庭教師して貰ってるし、何かお礼しないと駄目ですね」
それなのに、エメル様にそう言われたとき、わたしの心は揺れてしまいました。
アイゼとは交わしていない、わたしとエメル様だけの約束……。
「では……あの時の約束を、いいでしょうか?」
せめてこのくらいならいいですよね……?
「どうですかお姫様?」
「すごいです……本当に空を飛んで……まるで鳥にでもなったみたいです……!」
それは本当に、夢のような時間でした。
遮る物のない開けた視界。
どこまでも続く世界。
このような素晴らしい光景を目にした姫は、世界広しといえど、きっとわたししかいないでしょう。
恐らく、エルフの姫ですら、このようにして精霊と空を飛ぶなど、想像をしたこともないに違いありません。
目の前を鳥が飛んでいるのを見た時は、本当に自分が鳥になった気がしました。
これがエメル様が見ていた世界。
そう思うと、ただの農民でありながら上級貴族のような知性と教養を持つに至った経緯が、垣間見えた気がしました。
「こんな素敵な体験をさせて戴いて、本当にありがとうございます」
この素晴らしい景色を見せて戴いた感動と感謝を伝えたいのに、そのような陳腐な言葉にしかなりません。
とても言葉では伝えきれないのです。
それなのに……。
それと同時に、ほんの少しだけ、後悔してしまいました。
何故、わたしはあの約束を持ち出してしまったのでしょう。
エメル様とアイゼの関係を考えるのであれば、今わたしがこうしてエメル様と二人きりでいるのは、淑女として褒められたことではありません。
ですが……それでも……。
「もしかして身体が冷えちゃいましたか?」
「ええ、少しだけ」
「戻りますか……ってお姫様!?」
気付いたときには、エメル様に縋り付いてしまっていました。
はしたない。
結婚の約束を交わした相手がいる殿方にこのような真似、とてもはしたない、そう思います。
ですが、エメル様が戻ることを提案されたとき、まだ戻りたくないと、気持ちが溢れかえってしまったのです。
騎士達ほど鍛えているようには見えないのに、とても力強く優しく、わたしの腰に腕を回して支えてくれるエメル様。
夢のような時間を与えてくれるエメル様。
命の恩人のエメル様。
このエメル様への気持ちは、決して知られてはいけないもの。
二人の間に割り込むつもりも、アイゼからエメル様を奪うつもりもありません。
ですが……ですが……。
「もう少しこのままで……今だけは…………」
地上に戻ったら、エメル様のことは諦めますから。
心から二人のことを祝福し笑えるようになりますから。
だから、せめて今だけは……。