30 灰色の未来と色鮮やかな未来
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エメルが単身王都へ向かったすぐ後――
「アイゼ様、本当によろしいのですか?」
着替えを手伝ってくれたクレアが、辛そうな顔をして僕を見る。
鏡に映った僕は、ドレスじゃなく、公爵クラスの物ではあるけど貴族の子弟が着る男物の服を着ていた。
当然、ウィッグも被っていなければ、化粧もしていない。
「エメルは今、私の願いを叶えるために単身王都へ赴き命懸けで戦ってくれている……もうこれ以上、エメルを騙し続けることは出来ない」
もうこれ以上、エメルを騙す罪悪感に耐えられない。
だから、成功失敗に拘わらず、本当のことを告白する。
「エメル様に恨まれるかも知れません。本当によろしいのですか?」
重ねて確認するクレアに、もう決めたことだと頷く。
この姿を見て、本当の事を知ったエメルはどんな目で僕を見るだろう。
軽蔑? 侮蔑? 嫌悪?
そして僕を憎々しげに睨んで、恨み言をぶつけ、罵ってくるかも知れない。
エメルにはそうする権利があって、僕にはそれを黙って受け止め罰せられるだけの罪があるのだから。
でも……想像しただけで胸が痛くて身体が震える。
もう二度と、あの好意に満ち溢れた純粋な瞳で僕を見てくれることはない。
もう二度と、辛いときに励まし、勇気づけてくれることもない。
一層、胸が苦しくなる。
だけど挫けそうになる心を叱咤して振り返り、心配そうな目で僕を見てくるクレアに頷き返した。
「全ては私の責だ」
――そして、本当にエメルは全てを成し遂げて、姉上と共に無事に帰還してくれた。
「アイゼ様、俺の願いは後にも先にも一つだけです。身も心も女の子になって、俺のお嫁さんになって下さい!」
予想もしなかったエメルの言葉、それも二度目になるプロポーズに、思わず口をついて出そうになった言葉を止めるため、咄嗟に手で口を塞ぐ。
僕が男だって分かったのに、何故、またプロポーズをしてくる?
何故、そんな真っ直ぐに、これまで以上に熱の籠もった瞳で僕を見つめてくる?
何故、恨み、憎み、罵らない?
膝から崩れて項垂れたくらい、相当なショックを受けたはずだ。
「……そなた、本気か?」
「本気です。姫様になって、今度こそ俺のお嫁さんになって下さい」
これまで以上に強い意志と僕への想いが込められた真っ直ぐな瞳に射貫かれて、思わず心臓が跳ね上がる。
それから語って聞かせてくれたエメルの想いは、僕の想像もしなかったことばかりだった。
「だってアイゼ様は、姫様の格好をしていたとき、姫様として、女の子として振る舞ってたでしょう? だから、俺にとって姫様は女の子なんです。それを今更男だなんて言われても、もう女の子としてしか見られないし、それで姫様への……アイゼ様への気持ちが突然消えてなくなったり嫌いになったりするわけないじゃないですか」
「そなたを騙した私が憎くないのか? 恨み、嫌悪し、罵りたくはないのか?」
「確かにショックは受けましたけど……それでもやっぱり好きだって思っちゃったんだから、もう仕方ないですよね」
まるで些事のように語るけど、とても大きな問題のはずだ。
誰もがそんな風に、簡単に割り切って受け入れられるような話ではないはずだ。
「……つまりそなたは、今のこのドレスではない貴族の子弟の格好をしている私でも女の子に見えていると、そう言いたいのか?」
「その通りです。姫様が男装コスプレしてるくらいにしか見えてません。だから俺、姫様を女の子として愛せる自信があります!」
そこに込められた意味に、顔が熱くなって身体がゾクリと震えてしまう。
男の僕を、女の子として見て、女の子として抱くと言っているんだから。
同性愛はそもそもあまり一般的ではないし、跡継ぎを残す義務がある以上、王族や貴族にはあまり歓迎されない考え方だ。
エメルも自分は異性愛者で、『男同士はごめんです』と言ったのに……。
それでも本当に僕を女の子としてしか見ていないんだと、拳を握って力強く語るその目を見て理解した。
エメルの前ではもう、たとえどんな姿をしていようとも、エメルの中では僕が女の子であることは揺るがないんだって。
「だからこれからも姫様の一番近くで、姫様の力になって、望みを叶えていきたい。そのための露払いを俺にやらせて欲しいんです。他の誰でもない、愛する姫様のために」
「エメル、そなたそれほどまでに……」
それほどまでに僕を真剣に愛してくれた人が、これまでいただろうか?
王都から落ち延びてから今日までの数日間、毎日が辛かった。
生き残った以上、僕には王太子としてやり遂げなくてはならない事がある。
王都を奪還し、この国に平和を、民達に安寧を取り戻す事。
それを成さなくては、王族としての僕に存在価値はない。
だから、弱音を吐いている暇なんてなかった。
兵を集め。
武具と食料を調達し。
反攻作戦の準備を整え。
反攻の旗頭として人心を集め。
大儀は我らにあると兵を鼓舞し。
そして、民に平和と安心を与えなくてはならない。
それなのに……。
責任の全てを王家に被せて、被害者の立場を取る多くの貴族達。
助けを求めても、王家を見捨て他人事のように協力しない貴族達。
最初から味方してくれていた貴族達は、すでに王都防衛戦でほとんどの兵を失い疲弊している。
足りない兵と武具と食料をどこから掻き集める?
どうやればトロル兵五千が支配する王都を奪還出来る?
どこにもない……。
思い付かない……。
兵と民に勝利を信じさせなくてはならないのに、どうすれば勝利できるのか、まるで分からなかった。
他の誰より僕が、勝利出来ると信じることが出来なかった。
そんな僕に、誰が付いてきてくれるだろう?
そう思うと、とても苦しかった……。
でもエメルは真っ直ぐな瞳で、そんな僕を認めてくれた。
女の子だと勘違いしたままの姫様扱いだったけど、僕の民を思う気持ちを理解して尊重してくれて。
僕が治める国ならいい国になると信じてくれて。
自信を持って自分が信じる道を突き進んでいいと、そのための露払いは自分がすると、そう言ってくれた。
不覚にも、涙が零れそうだった。
どれだけ嬉しくて、頼もしくて、心救われたことか。
そんな彼が、今また真っ直ぐに僕を見てくれている。
騙した僕を、それでも愛すると言ってくれている。
こんな真摯な振る舞いで、揺るがぬ眼差しを、想いを、真正面からぶつけてきてくれたのは彼が初めてだ。
これまで、王太子の婚約者になろうと多くのご令嬢達が僕にアプローチしてきた。
ご機嫌を伺い、耳障りのいい褒め言葉を紡ぎ、身体を触れさせてきて、歓心を買おうとする。
そこに愛はあっただろうか?
元から王族も貴族も、政略結婚が当然で、そこに当人達の愛だの想いだのが入り込む余地はないし、必要もない。
だから、彼女達の目に映るのは、『王太子』であって『僕』じゃない。
そんな彼女達が間違っているわけじゃない。
僕は男だ。
だから、男同士で結婚なんて考えられない、そう突っぱねればいい。
そして男としてご令嬢の誰かと結婚すればいい。
でも……そこに幸せな未来は見えない。
傍らに婚約者となったご令嬢がいても、それがなんだっていうんだろう。
この先、一生、誰も心から愛することも、愛されることもなく、たった一人でこの国を復興させ、背負っていかなくてはならない未来。
そんな色のない灰色の世界を、たった一人で死ぬまで歩み続けることになるだけだ。
でも、隣に立ってくれているのがエメルなら?
エメルは『僕』を見てくれている。
男とか女とか関係なく、『僕』を見てくれている。
一番苦しいとき、一番辛いとき、誰よりも側に居てくれたのは誰だ?
心に寄り添ってくれて、励ましてくれて、支えてくれたのは誰だ?
ドレスを着て、化粧をして、女の子として、姫として振る舞えば、彼は言葉通り変わらぬ愛を与え続けてくれるだろう。
あの王都で倒れそうになった時に僕を抱き留めて支え、抱き締めてくれたように、辛いとき、苦しいとき、誰よりも側で僕を支え守ってくれるだろう。
それは、どれほど色鮮やかな未来になることか。
胸が高鳴る。
まるでロマンス小説の姫君のように、胸を高鳴らせてしまっている。
口をついて、なんて言いそうになってしまった?
思わず『はい』って答えそうにならなかったか?
僕は気付いてしまった。
ドレスを着て、化粧をして、エメルの前で彼の望む姫様を演じること。
それは、まるで自分が敬愛する姉上になったような、ちょっと不思議な感覚と、綺麗に着飾ることでエメルが喜んでくれることへの、ちょっとした満足感。
いつしかそんな気持ちを抱いていたんじゃないか?
最初は罪悪感とエメルを繋ぎ止める目的からやっていたはずなのに、いつしかどうすればもっとエメルが喜んでくれるか、どうすればもっと姉上のように可憐で愛らしいお姫様に見えるようになるか、真剣に考えて……楽しんですらいたんじゃないか?
きっとそれが答えなんだ。
王太子としての立場に対する誇りと責任は変わらない。
未だ国家存亡の危機は去っていなくて、この国に平和を取り戻すのに、どれほどの苦難が待ち受けているかも分からない状況だ。
だからこそ、その苦難が訪れたときに隣で僕を支えてくれる人は……エメルがいい。
その苦難を共に乗り越え歩んでいくのは、政治的なしがらみに縛られた愛情のない妃なんかじゃなくて、誰よりも僕を愛してくれるエメルがいい。
どんなロマンス小説でも見たことがない程の、強くて格好いい、そして頼もしく優しい英雄が愛を誓ってくれるこの物語。
その物語で、そんな英雄が永遠の愛を誓ってくれるのなら、僕はドレスや化粧で身を飾りお姫様になっていい。
いいや違う、身も心も女の子になって、エメルが望む『姫様』になりたい。
女の子になって、エメルに愛されたい。
決して開けてはいけない扉が開かれてしまった。
その向こう側へ、僕は足を踏み入れてしまった。
たった七日。
エメルと出会い、エメルの望む『姫様』を演じたのはたった七日だ。
なのにそのたった七日で、男であるよりも女として、王子としてよりも姫として愛されたいと、僕の心はエメルの想いで染め上げられてしまっていたんだ。