26 それはロマンス小説よりも
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わたしとエメル様との出会いはまさに奇跡であり、運命の出会いと呼ばずして、なんと呼べばいいのでしょう。
「お願い…………お願いです……誰か助けて……」
叶わぬと知りながら、そう求めずにはいられなかったあの時、まさか本当に、わたしの救いを求める嘆きに応えてくれる者が現れるなんて。
「遅くなってご免なさい! もう大丈夫、助けに来ましたよ、お姫様!」
その声を耳にしたとき、喜びを感じるよりも、これで救われると安堵するよりも、まず耳を疑い、次に正気を疑いました。
恐怖と絶望のあまり遂に気が触れてしまい、ありもしない声を聞き、ありもしない幻を見ているのではないかと。
「貴方は……?」
「俺、エメルって言います。フィーナシャイア姫ですよね? 助けに来ました」
絶望の、夜の闇へと包まれていく寝室で、枷と鎖に繋がれたわたしの前に現れた一人の騎士様。
敵地となった王城へ単身潜入し、わたしを救いに来てくださった勇敢な殿方。
それは、夢でも幻でもありませんでした。
枷から解き放たれたことを理解した時、わたしはエメル様に縋り付き、はしたない程に声を上げて泣いてしまいました。
わたしを優しく包み込むその温もりと、腕の力強さと、宥めてくれる優しさと。
その全てに張り詰めていた糸が切れてしまったのです。
貸して下さったハンカチどころか、騎士服の胸元までわたしの涙でぐっしょりと濡らしてしまい、とても恥ずかしかった。
けれどエメル様は微笑みながら、よく一人で頑張って耐えたと、自分が来たからにはもう指一本触れさせないと、そのように優しい言葉をかけて下さいました。
「ありがとう……ございます」
顔が火照り、胸が高鳴りました。
まるでロマンス小説のお姫様になったようで、自分が置かれていた境遇どころか恐怖や絶望すら、一時忘れてしまった程です。
そして、夜の帳が降りた部屋とは思えないほどに、魔法で明るく照らしたエメル様。
その飛び抜けたお力の精霊魔法にも十分に驚きましたが、明かりの下でその姿をハッキリと見て、もっと驚いてしまいました。
弟のアイゼより年上ではあるものの、わたしより年下の、まだ成人したばかりくらいにしか見えない少年だったのですから。
しかも、本来騎士であるどころか、貧乏農家の次男坊だと仰って、さらに驚かされてしまいました。
ですが、歳や出自など関係ありません。
年下であろうと、平民であろうと、たった一人でわたしを救いに来てくださった騎士様なのですから。
「エメル様、申し訳ありませんが、引き出しから取ってきて戴きたい物があります」
何故アイゼを姫様と呼ぶのかは分かりませんが、アイゼの無事も知ることが出来て、ようやく覚悟を決めることが出来ました。
自慢ではありませんが、ダンスであればともかく、剣術はもとより走ったり乗馬したりの運動は、他の貴族のご令嬢達と同じくほとんどしたことがありません。
こんなわたしを連れて、トロルロードの魔の手から逃げ切るなど不可能でしょう。
わたしは一度しくじり、囚われているのです。
強くお優しいエメル様を失わないためにも、アイゼに明日を託すためにも、エメル様には無事に戻って戴かなくてはなりません。
ここまで来て戴いただけで、もう十分です。
ほんの一瞬でも、ロマンス小説のお姫様になれた夢を見られただけで十分なのです。
だから、懐剣を握り締めました。
わたしではトロルロードを仕留めることは不可能です。
ですが、自害してトロルロードの野望を挫くことくらいは出来ます。
エメル様から戴いた優しさと勇気、そしてほんの一時の夢のような思い出を胸に、王女として、見事に最期の務めを果たしてみせましょう。
「せっかくお姫様が覚悟を決めたのに、それを無駄にしてご免なさい」
それなのに、エメル様はとてもお優しい、それでいて決然とした態度で、わたしの懐剣を持つ手を押さえました。
そこから後に起きたことは、今でも本当は夢だったのではないかと、そう思ってしまうくらいの、驚きの連続でした。
「お姫様、失礼します!」
遂にやってきてしまったトロルロードの拳を、わたしを抱きかかえ、軽やかにかわすエメル様。
夢に見た憧れのお姫様抱っこで、その腕の中で守られていると気付いたとき、わたしは危険な状況も忘れて、さらなる胸の高鳴りを覚えてしまいました。
トロルロードを見据える凛々しいお顔がとても近くて、顔も身体もさっき以上に熱くなって、心臓が飛び出てしまうのではないかと思うくらいでした。
「死にたくナけれバ姫ヲ渡せ、その女はこのオレの奴隷ダ」
「大丈夫ですよお姫様。絶対に渡したりしませんから」
わたしを道具以下の奴隷としか見ていないトロルロードの冷たい瞳に、思わず震えて縋ってしまっても、力強く決然とそう仰って、わたしを強く抱き寄せてくれた時には、そのような場合ではないと分かっていても、高鳴る鼓動を抑えることが出来ませんでした。
「顕現せよ、我が契約せし土の精霊、モス!」
そして凛々しい顔に負けないくらい凛々しい声で呼び出された、一体どころか八体にもなる契約精霊達。
精霊を見るどころか精霊力すら感じ取ることが出来ない、そんなわたしでも感じられるほどの、凄まじい力を秘めた精霊達には、思わず息を呑み身震いしてしまう程でした。
そんな契約精霊達に取り囲まれ、枷を嵌められ床に這い蹲るトロルロードの姿は、エメル様の仰る通り罪人そのもので……。
力のないわたしの代わりに断罪してくれている。
そう思うと、胸が熱くなり、涙が滲みそうでした。
「お姫様、俺はこいつらを許せないんで、本気でこいつを殺します」
そんなトロルロードを見下ろし、そう宣言したエメル様の言葉と瞳には、怒りを感じられました。
この国の多くの民を害し、お父様とお母様を害し、さらにわたしを辱めようとしたトロルロードに、怒って下さっている。
それが嬉しかった。
お父様とお母様の無念を晴らせることが嬉しかった。
だから、わたしも改めて覚悟を決めました。
トロルロードをこのような形で処刑すれば、ガンドラルド王国との全面戦争は避けられないでしょう。
ですが、どうせ今のままでは我が国は滅びしかありません。
お父様とお母様……国王陛下と王妃殿下を害されておきながら、侵略者の顔色を窺い何も出来ないのであれば、国の威信など保てようはずがありませんから。
そのような誇りを失った国では、ガンドラルド王国に限らず、遠からず他国からいいように蹂躙されるのは目に見えています。
それに、これほどのお力を持つエメル様がいれば、もしかしたら……。
そう考えずにはいられません。
だからわたしは目を逸らさず、全ての責任を自ら背負う覚悟を決めたのです。
「そうですか、分かりました。強いんですね、お姫様は」
それをまさか、強いなどと言われるとは思いませんでした。
力がなく、絶望し泣くことしか出来なかったわたしだと言うのに。
だから否定したのですが……。
「いえ、すごく強いと思いますよ。尊敬しちゃうくらいに」
尊敬とまで言われてしまいました。
その優しく凛々しいお顔と瞳に、わたしは思わず息を呑んでしまいました。
懐剣を手にしたときといい、今といい、エメル様はまるでわたしの気持ちを全て分かっているかのように……いえ、きっとそうに違いありません。
わたしの気持ちを察して、それを尊敬すると仰ってくださったのです。
もう、胸の高鳴りは最高潮に達し、顔の火照りを止められませんでした。
これほどに、わたしの心に寄り添ってくださったのは、お父様とお母様、そしてアイゼを除けば、エメル様が初めてです。
そしてトロルロードを断罪し、お父様とお母様に黙祷を捧げて下さるその姿に、わたしは騎士の中の騎士、英雄の中の英雄の姿を見ました。
しかも、夢のような出来事は、それで終わりではありませんでした。
「きゃあっ!? わ、わたし、空を飛んで!?」
なんと、エメル様の契約精霊の背に乗って、夜空を飛んでいるではありませんか。
美しい満天の星空の下。
命を救って下さった騎士様と二人、夜空を舞う。
夢を見るよりも遥かに夢のような光景です。
このようなロマンチックなシーン、どのロマンス小説にもありませんでした。
きっと大国の姫君ですら、このように素晴らしい体験をしたことはないでしょう。
しかも……。
「俺でよければ、事が終わった後、また一緒に空を飛びましょうか? その時は、ゆっくり景色を楽しみながら」
そのようなロマンチックな約束、初めてです。
「はい、是非お願いします! 約束ですよ?」
そう一も二もなく答えてしまったのは、乙女であれば仕方ないと思います。
そんなわたしを楽しげに、でもとても優しく見つめられるエメル様は、年下とは思えないほどに大人びた眼差しをしていました。
忽然と現れたときから一貫して紳士的で、わたしへの思いやりを欠かさない……そんなエメル様は、星空の下で幻想的ですらあって、もう目が離せませんでした。
そのすぐ後、トロルロードはおろか、四千のトロル兵を赤子の手をひねるよりも容易く殲滅してしまった時は、さすがのわたしもその底が見えない力に恐ろしさを感じもしましたが……。
エメル様はわたしの命と貞操を守って下さった、命の恩人です。
世界中のどこを探しても、エメル様以上の英雄を扱ったロマンス小説は見つからないでしょう。
そして世界中のどこを探しても、エメル様以上の殿方は絶対にいないでしょう。
頭の片隅で、第一王女としてのわたしが、エメル様と敵対してはならないと、エメル様を決して逃してはならないと、そう囁きました。
ですが、それ以上に大きな声が、心の奥底から湧き上がってきていました。
わたしはエメル様のためのお姫様になりたい!
身も心も全てを捧げて、エメル様と添い遂げたい!
出会ったばかりで、年下の殿方を相手にこのように思うなど、はしたない女と思われてしまうでしょうか……?
ですが、もうこの気持ちを抑えることは出来ません。
だって、もうエメル様しか見えないのです。
エメル様、お慕い申し上げております。
叶うならば、どうぞわたしを妻にと望んで下さい。
わたし、フィーナシャイアは、エメル様になら喜んでわたしの全てを捧げます。