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例えばの世界その1

作者: 愁

この世界のどこかに苦しむ人が居る。そしてその人にとって何が苦しみなのか、例えばで考えてみる事にした。※これは子供視点の話です。

私は1人の人間だ。

幸せな事に両親が居り、五体満足の健康体である。

…果たして本当に幸せなのか?そう考えた事がある。


だから私は例えばで色々な事を考えてみた。


例えば私は“いじめられている”としよう。

いじめられている時初めに思う事、それはなんだろう。

例えばで考えてみる。


“私は何故いじめられているのか” “辞めてほしい” “助けてほしい”

……“最後には死にたい”


何故死のうとするのか。それはいじめられている事が辛いから?

逃げたいから?……今の苦しみから解放されたいから?


私はよく、いじめられた末に自ら命を絶ってしまう人達がいる事をニュースなどで見る。


それを見た人々は可哀想だとか逃げたとか何故誰も助けなかったのかとかそれぞれ思う事だろう。


私はその人の気持ちを例えばで考えてみる。


何故自ら命を絶つ選択をしたのか。

それは彼等が身を守る為の最後の手段だったからだ。


結局は逃げたのだろうと言う人もいるだろう。

たがそれは違う。もはや彼等にはそうするしか無かったのだ。


いじめられている理由。どうすれば辞めてくれるのか。誰に助けを求めればいいのか。……まだ死にたくない。


先生や両親を頼ればいいじゃないかと言う人もいるだろう。

……何故必ずしも相談できる対象と見るのか。


先生に話せばどうにかしてくれるのか?彼等もまた狭い世界で生きている。その狭い世界で生きていくためにどうすれば身を守れるのか、大人は知っている。


両親に話せばどうにかしてくれるのか?……果たして話せるような環境なのか?話す前にそんな環境じゃないことが殆どだと思う。

教育に厳しい家庭や、“普通”である事にこだわる家庭。様々な形があるなか、本当の意味で心を開ける程の相手なのかも危ういと思う。


自分の身は自分で守れ。その言葉を言うのは簡単だろう。だが実際困難が降り掛かってきた時、果たして自分1人でどうにかなることなのか。周りに本当に誰も居ないとする。それでも、心の中に何かしらの支えがなければ人は生きていけないと考える


自分の身を守れない、誰にも相談出来ない、そうして答えが闇に消えた時、人は“死”を選ぶのだろう。唯一“自分の身を守れる手段”だから。



……では、逆に私は“誰かをいじめている”と考える。


どうしていじめるのか。その殆どに明確な理由が無い。


では何故いじめられる人といじめる人が居るのか。

それはいじめている側が誰かをいじめようとした時、コイツなら何も言ってこない。自分の思うがままだ。そういう対象を本能的に探すものと考える。


いじめられている側は、何か言えば酷くなると、次はどんな事をされるか分からない恐怖から何も言えない。

それをいい事にいじめる側は調子に乗りどんどんエスカレートして行く。


……では、いじめをしている側に対し、人々はどう思うのだろう。


酷い。人間のすることじゃない。最低だ。だいたいの人はそういうだろう。


でも私はいじめている側の立場を例えばで考えてみる。


私は何故人をいじめるのか。それは、“理由”が無いからだ。


理由も無く人を傷つけるのかと言う人もいるだろう。

でも、こうは考えられないだろうか。


何か言い様のない確かな物に押し潰されそうだ。何だかわからない。イライラする。発散したい。どうすれば出来る?……そうだ。誰かにぶつけてしまえばいい。


どうすれば発散出来るのか、大人でも難しい事をまだ若い人や子供達が分かるはずもない。


そういった理由無き理由で人を傷つけてしまうのだろうと考える。


先程と同じ様に、先生や両親に頼ればいい、人々はそういうだろう。だが、こんな形も無い確かで不確かな物等どう説明すればいい。


自分が何に腹が立って、何が気に入らないのか。それすら分からないのに、何を話せというのだろうか。


そして、それらの唯一の発散する方法が“反抗期”であると考える。


反抗期を通して、胸につっかえるもやもやの正体や、イライラする理由、そして大人とは何かを知っていく大事な時期なのだ。


それを行動で表すタイプと内に秘めて耐え続けてしまうタイプが居ると考える。


行動で表すタイプは2種類あると考える、1つは親や周りの大人に反抗し、グレルタイプ。もう1つは、親にも周りの大人にも逆らえず、自分より弱いと判断した対象にぶつけてしまうタイプ。


この2つのタイプの内後者が、いじめている側になる可能性が高いと考える。


そして、耐え続けてしまうタイプはその場は乗り切ってしまう場合が多い。しかし、何らかの原因で耐えて蓄積された感情が爆発してしまう事があると考える。これは、いじめだけではなく、犯罪にも言える事だ。


この大事な思春期を妨害するのが、大人達なのだ。

これもあの子の為だとか言いながら、結局は自分のやり方が間違っていると認めたくないだけだと言う事もあると考える。


思春期でグレル事、それは決して悪いことでは無い。

むしろ、その経験をした人達は、余程まともな人間だと思う。


何故なら、子供ながらに何かしたい。自分の力で成し遂げたい。それを我慢せずさらけ出した結果がグレルという事。

自分を変えたい思いが行動に現れたのだ。


それを、親や大人は見守ってあげなければならない。

それを悪い事だと決めつけて取り上げてしまった結果が、今のいじめ問題に繋がっていると考える。



こうして例えばで考えてみるのも、たまには悪くないもんだ。

皆“もし自分が〇〇の立場なら”と、考える事が少ないだろう。

何故なら自分はそうじゃないからだ。


いじめられていない人はいじめられている人の事等考えないだろう。それと同じで、誰も自分自身経験した事の無いものは考えようとしない。


しかし、あえて考えてみることで分かる事もある。

あくまで推測に過ぎないが、考え、理解しようと努力する事は出来る。


何故自分の身に起きていない、他人の事を考えなければいけないのか。それはいつ自分に降り掛かってくるのか分からないからである。


必ずしも、同じ目に遭わないとは限らない。そして、もし同じ事をしている後世を紡ぐ人達に、教えてあげられるからだ。


同じ事を繰り返さないように。

ここまでお読み頂きありがとうございます。


この小説を書こうと思ったのは、大人にも子供にも読んでもらいたく、また、伝えたい事があったからです。


私が伝えたかったのは、何が正しくて何が正しくないのか。

何が普通で何が普通では無いのか。


そんなものは誰かが決めるものじゃなく、自分で決めることだという事。


言う事を聞かなくてはいけない時もあれば、反抗してもいい時がある。何が正しくて何が正しくないのか。それを探して行くのが、生きていくという事なのだと。


その答えは、一人一人違うものなのだという事。



少しでも、誰かの救いになれば、誰かの教えになればと思います。



※あくまで作者の考えによる話です。また、作者は子供です。

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― 新着の感想 ―
[一言] まだ自分には全部理解できた訳ではないとは思うけれど、なんとなくわかったような感覚があります。 まだ自分には『自分で決める』ってことができる勇気も知識も、他にも色んな物が足りない気がするけれど…
[気になる点] お子さんがいらっしゃる方なのだろう、きっとそうなのだろう、多分…あれ?自信がなくなってきました。 [一言] 丁寧な言葉の選択と論理的矛盾の無さに愛を感じました。
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