ミスター・スペンサーの宝石 2
デイビッドと私は特別仲が良いという訳でもなかったが、それでもお互い敢えて仲違いをしようと思うほど間抜けではなかったつもりである。
夢浮橋紫音
「あのクライアント、絶対何か隠してるわ」私はある種の確信とともにそう言った。
私達はその時、ベイカー街を抜けてリージェンツ・パークの辺りを散歩していた。これは私の提案だった。
「ミスター・スペンサーが?まさか!」
デイビッドには理解出来ないらしかった。彼は私と違って直接支部長に会ったわけではないからかも知れない。
「いい?何かを隠しているのでなければ私をそのまま帰したりはしないはずよ。すぐに調べて貰いたいって思うのが普通でしょ?敢えて帰らせるとすれば捜査の準備をするためだけど、それすら言わずに帰れときた。だとしたら、本当は調べて欲しくないのは明白でしょ。何考えてるんだか、アイツ」
「シャーリィ!」デイビッドが大声を上げた。「君はあの支部長に殺されたいのか?隠し事の一つや二つ誰にだってあるだろうに、そんな言い方をすればこの国では生きていけないぞ。スペンサーは自分にとって害になる者なら容赦なく殺しちゃうような人間なんだぜ」
「それが分かってるならどうしてさっきは私に一人で行かせたのかしら?ああ、私が行ってる間に調べたのね」
デイビッドは頷いた。私は思わずため息をついた。
「貴方も馬鹿ね。私に打ち勝てるような魔術師がロンドンにいる?」
「いるかもしれないじゃないか。君はちょっと自惚れが過ぎるぞ」彼は苛立ったように捲し立てた。
私は決して自分が凄い等と自惚れたことはない。ただ周りが雑魚過ぎて話にならないだけだ。それを自惚れと人は言うが、私からしてみればそんなものは論外だ。出来ない奴の妬みでしかない。正直鬱陶しかった。
「私が自惚れなくていいように貴方達が頑張って追い付けばいいと思うわ」
「君に追い付く事なんか出来るものか!」
それ見たことか。やってみろと言えば出来ないと言って諦める。その癖出来る奴を妬んで僻むんだからやってられない。
「あーあ。あの場で撃ち倒しておけば良かった」
「馬鹿な事言うのはよせよ。そうなったらそれこそ終わりだ。日本に強制送還されるぞ」
「ロンドンで見るべきものはもう見たわ。これで多少帰るのが早くなろうがどうでもいいのよ」
突き放すように言うと、デイビッドは少なからずショックを受けたような顔で立ち止まった。
「じゃあ、君にとってロンドンでのこの生活はどうでもいいものなのか?」
答えるまでもない。どうでもいいものだ。だがそれを明言するのも彼が可哀想なので、私は黙って先を歩いた。
「待てよシャーリィ!」
後ろからデイビッドの声がしたが、私は振り返らなかった。
私は一人でベイカーストリートからチャリング・クロスまで地下鉄に乗った。そのまま三分程歩き、再び魔術連盟ロンドン支部の中にいた。いくつかの見知った顔とすれ違ったが、誰も私に話しかけては来なかったし、私も話しかけなかった。実を言うと、私はイライラしていたので、誰とも話したくなかったのだ。
先刻のデイビッドとの会話を思い出すと不愉快になった。何しろデイビッドとはもう半年以上の付き合いがあるというのに未だに相互理解が出来ていないのだ。やはり私達は致命的に何かがズレているのだろう。
「おい、どうした。ここはシャーリィ・ホームズともあろう奴がシケた面して歩くようなとこじゃあねえぜ」突然、前から声をかけられた。見れば、クラスメイトの一人が私を見下ろしている。顔に見覚えはあるが、名前が思い出せない。私は今「シケた面」とやらをしているのか、と他人事のように思った。
「おう…どうしたんだ。死にそうな顔してんぞ、お前」
「そうかしら。そう見えたなら、そうなのかもね」
「落ち着けよ。何言ってるか分かんねえぞ」
「私にも分からないわ」
「医務室は…」
「必要ないわ。支部長に用があるから、それじゃ」手を振って立ち去った。
支部室には鍵がかかっていて、支部長本人はどこかへ行っているようだった。だからといってこのまま帰っては何のために来たのか分からないぞ、と思った私は魔術で以て鍵を開け、室内へ忍び込んだ。コートのポケットからルーペを取り出し、金庫の戸を調べた。このルーペは私がロンドンへ来る前に日本で制作した魔術品で、その場に残存した魔力を赤く浮かび上がらせる効果を持っていた。大きな魔力を感じるだけなら道具などなくとも簡単なのだが、それだと微量の魔力は感じ取れないし、何より魔力で描かれた魔術陣を目視出来る点で優れものだと自負していたが、特に手掛かりらしいものは見付けられなかった。
私は今度は床に腹這いになり、犯人の足跡や遺留品を見付けられないものかと探したが、床には絨毯が敷いてあるためハッキリとした足跡はなく、また他に如何なる痕跡も見い出すことは出来なかった。
無くなってからさほど時間が経っていないにも関わらず金庫に何ら魔術の痕跡がない事から察するに、犯人は何らかの手段を以て魔術に頼らず金庫の戸を開けたのだろう。これで犯人にはピッキングの技術が少なからずあるという事が判明したといえる。
ここで私は部屋のドアを調べていない事を思い出したのですぐさまドアへ向かったが、思い付く限り最悪のタイミングで部屋の主が帰って来たので、私は咄嗟に魔術で身を隠さなければならなかった。幸いにして私は五感、こと聴覚が著しく発達しているので、向こうが気付く前に彼等の会話によって気が付いた。
「もし見付けられればそれはそれで良いとして、見付けられなければかの異才を強制送還出来ると考えれば、君としてはどちらに転んでも得しかないな。そうは思わないか、ハーヴェイ」
「生憎、私はそう楽観的でなくてね。無論彼女を送り帰せるならばそれに越したことはないが、とはいえアレが戻って来ないと多少困るのは事実だからな」
「彼女をこのまま放っておいても困るのだろう?」
「それはそうだが…」
片方は言うまでもなくミスター・ハーヴェイ・スペンサーだ。もう片方は声だけ聞いても私には分からなかった。それにしても随分とゆっくり歩いている。
「変な噂を立てられなければ良いがな」
「君は心配性だな。誰がどんな噂を立てるというんだ?」
「私が彼女を好ましく思っていないのは君だって知っているだろう、ジョン?」
「知っているとも。それがどうしたというんだ」ジョンと呼ばれた男がやや苛ついているのが声色から伝わった。
「『ハーヴェイ・スペンサーが夢浮橋紫音を追い出したのは、自分の地位が惜しいからだ』などと言い出す奴がいないと何故いえるかね?なるほど私は地位が惜しい。魔術連盟の支部長という立場は、魔術を研究するにあたって非常に有利に働くからな。だがそれと彼女に何の関係性があるというのだ?世間の連中は私が自分の権威が失墜するのを恐れて彼女を避けているのだと言うが、まさか。彼女は化け物だ。私の手には負えない。優秀過ぎる。だから避けているというのに」
「噂には聞いていたがね、それは本当なのか?」
「今に見ているがいい。彼女はきっと宝石を見つけ出すぞ。ああ恐ろしい!」
それだけ言ってスペンサーは口もきけなくなったとみえて、簡単に別れの言葉を述べてドアを開けた。私はドアの側に潜んでいたので、その期に部屋の外へ転がり出た。
その時廊下を歩いていたのは一人の男性だけだったので、その後を尾行したところ、彼はジョン・クロフォードという魔術師であることが分かった。生憎その名前に聞き覚えはなかったが、先程の会話の相手がジョンと呼ばれていたことに符合するので、名前や体格、声といった特徴を頭に叩き込んだ。残念ながら顔を見ることが出来なかったので、仕方なく他の特徴を覚えたのである。
決して聞いていて気分の良い話ではなかったが、あの会話によって手掛かりが得られたのだから、これはこれで良しとしよう。そう心に決めて、その日の捜査は諦めた。
家──といっても私の家ではないが、他に呼びようがないので家と呼ぶ──に帰ると、デイビッドがふてくされていた。
「手伝って貰う、とか言ってたくせに、なんで置いていくんだ?」
「貴方が余計なことを言うからよ」
「君だって色々言っていたじゃないか。まるで命が惜しくないみたいに格好つけるのはやめて、大人しくしていないと本当に危険なんだぞ」
デイビッドは、私にとっては理解出来ないことだが、ムッとして反論してきた。私の仕事について私がどんな意見を言おうが、それは私の勝手だろう。それに、私はコイツ程小心者ではない。
「すまないけどデイビッド、私は命が惜しくないなんて言うつもりはないわ。ただ、あんな奴に殺される程弱々しいつもりは無いのよ」
デイビッドにはますます理解出来ないようだった。それも当然だろう。彼は私の魔術の腕を知らず(私が巧妙に隠したせいだが)、逆に歯向かう者全てを排除してきたスペンサーの残虐さを知っているのだから。
「シャーリィ、君は思い違いをしているよ。ミスター・スペンサーはこの国で一番魔術を上手く扱う人だ。四大元素だって二つも使う。君に勝ち目なんかないんだ」
「どういたしまして。私は四つとも使えるわよ」
デイビッドは目を丸くして飛び上がった。
「そんなことはありえない!この国でも四つ使える人間なんて一人もいないんだぞ」
「だからロンドンに興味が無いのよ。私にとって、この留学で得たものなんて、シャーリィ・ホームズの名前くらいよ」
私は冷ややかな目線を彼に送った。
「一体どうしたんだ、紫音。ここへ来た時の君はそんなことを言うような奴じゃなかったはずだ!」
「どうしたんだって!?貴方達の方がどうかしてる!あらゆる可能性を秘めた魔術師の癖に、皆安全な方へ行きたがる!それでどうして魔術が発展するって言うの!?そんなだから私でも出来るような簡単な魔術が出来ないんだ!」
これを聞いて彼は酷く傷ついたような顔をしたが、私は一切気にも留めなかった。だいたい、私は大した魔術師じゃない。それでも私がロンドンでチヤホヤされるのは、単にロンドン支部の魔術師が出来なさすぎるのだ。これで日本の魔術師よりも優秀だって?冗談も休み休み言って欲しい。私が魔術を使えるのは、文字通り命を賭して学んだからに他ならないというのに、誰も後に付いては来ない。これだったら、日本にいる師匠の下にいる方が余程時間を有効に活用出来たことだろう。この留学を私に勧めたのは中学の先生だったが、あの人の推薦だからといって軽々しく行きますなどと返答してはいけなかったのだ。私は大いに反省した。
「貴方の言い分も分からないではないけれど、それはお門違いと言う他ないわ。私は自惚れで言ってるんじゃないの。本当に貴方達は相手にならないのよ。だから貴方に許されているのは、私の味方になるか、それとも敵になるか。その二択よ」
少々脅しが過ぎる気もしないではなかったが、端的に言えばそういう事だ。現状スペンサーは私の敵だ。デイビッドがアイツの肩を持つか、私の味方をするか、という状態であることに間違いはない。
私は彼の答えを待たず、食事はいらないからと言ってベッドに入った。
シャーロック・ホームズは捜査中に食事をとらないことがよくあったという。それには理にかなっているような理由があるわけだが、思春期の体でそれをやる事は些か以上に無理があったことを告白しておかなければならない。
私はこの日朝食しか食べていなかったが、正直かなり辛かったのである。
夢浮橋紫音