1, 太陽
大歓声。
過去最大規模で行われた俺たちのライブは、ついに終わりを迎えようとしている。
思えば最初は小さな、ロックを多少かじっているような人でもなんの興味も示さないような身内だけのライブから始まった。自分のライブのチケットを買って友達に配って、それでも余ったら街頭で配って。無理やり埋めたライブハウスの観客は、きっと誰も僕らに期待なんかしちゃいなかっただろう。
でも、俺たちはここまで来た。マイクを手に取る。チューニングをする。軽くドラムを鳴らす。それだけの行為で、視線は集まる。俺たちの一挙手一投足に、注目が集まる。
「みなさん、今日は僕たち『FEETEC』のライブにお越しくださいまして、ありがとうございます!」
ああ、照明がやけに暑い。それに眩しい。カラフルな照明に照らされて立つアーティストに憧れはしたけれど、今の僕には色が感じられない。
緊張、していた。僕はボーカル。MC。バンドの顔。しっかりしなければならないのに、このライブにメジャーデビューがかかっているともうと、足が震えた。
「何緊張してるんですか?」
後ろからトン、と肩を叩かれる。僕はこんなに緊張していると言うのに、ベースの彼女は随分と余裕そうだ。
後ろを振り向く。ドラムのあの子に、ギターのあいつ。いつも通りだけど、どこか違うみんな。そうだ、緊張しないわけがない。僕らの、夢を切り開くライブなのだから。
「それじゃあ、最後の曲を演奏したいと思います」
僕のMCなんか、きっと何も面白くない。だから早く歌ってしまおう。
苦笑いのギターが響く。なんだよ、仕方ないじゃないか。
すぅ、と息を吸い込み、目を閉じる。
喉から出る息をギュッと閉めれば準備完了。俺は、歌う――――。
***
「航さん?」
「ん?ああ、ごめん」
カラン、とアイスティーが入ったグラスで氷が揺れる。
橙色の電灯は暖かくカフェの中を照らし、シックなジャズが優しく流れていた。
落ち着く雰囲気のせいか少しぼーっとしていた。だから、あんな昔のことを思い出してしまったのだ。
記憶の隅に追いやって、いつか風化して、流れ去って行ってくれるものと思っていたけれど……忘れたいと思うことほどなかなか消えてくれないものだ。
「えい」
「わっ……なにすんだよ」
「私がさっきまで話してたこと、何にも聞いてなかったでしょ?」
「ううん、ちゃんと聞いてたよ。最近流行ってるバンドでしょ?」
「違うんだけど。今日これからどうするかって聞いたんだけど。良ければ家に来るって聞いたんだけど。ひどいわ、恥をかかされた」
「美羽ちゃん、そう言う話をカフェで大声でするもんじゃないよ?もう夜なんだから」
「夜だからじゃない?」
「そうか。確かにその通りだ」
納得納得。
「美羽ちゃんはえっちだなぁ」
「えい」
「痛い」
この短時間で二回もほっぺをつねられてしまった。今日1日で言ったら5回目じゃないだろうか。付き合ってからもう1年以上経っているけれど、通算だと万を超えているかもしれない。実はその他にも蹴りとかビンタとか色々食らってはいるんだけど。
「美羽ちゃん、すぐ暴力しちゃうのはダメだって言ってるでしょ?」
「え?でも嬉しいでしょ?」
「嬉しくないっての」
美羽ちゃんの額を軽く小突き。立ち上がる。
「今日は奢ってあげる。明日早いでしょ?今日は帰るよ」
「むー、今日はしたかったのになぁ」
「昨日も一昨日もしたじゃん……」
「そうだっけ?」
「美羽ちゃん……」
頭が痛い。めっちゃ可愛いけど。そもそもこんなところで話す内容じゃないし、周りの目も痛い。早くこの場を撤退しなくては。
「行くよ美羽ちゃん。送ってあげるから」
「はーい」
22時。美羽ちゃんの手を引いて、僕らはカフェを出た。
「結構寒いね」
「うん。もうそろそろ12月だからね」
「早いなぁ……私が白嶺大学入ってからもう一年も経っちゃうね」
「一年って、まだ五ヶ月もあるじゃん」
「確かに。なんか冬になると終わった気がしちゃうんだよね〜」
「まぁわからなくもないけど」
「でしょ?」
美羽ちゃんは綺麗なストレートの黒髪を揺らし、くるくると回りながら楽しそうに駅への帰り道を歩く。淡い赤色のロングスカートが幻想的だ。
夜であることもあって外気は冷たく、都内である白嶺大近くの道にはコートを身につけた人も多かった。まもなくクリスマスシーズン。この道も毎年イルミネーションで色鮮やかに彩られる。
「まーた考え事してる」
「え?ああ、ごめん。今日美羽ちゃんの家に泊まるかって話だっけ?」
「流行りのバンドの話なんだけど」
「……ごめんなさい」
「ていっ」
尻に蹴りをもらった。別に、痛くはない。そんな風にしてじゃれているうちに白嶺大前駅に到着。この電車は私鉄が故によく遅延しているが、今日は時間通りだ。白と青のかっこいい車体をしている。
「じゃあ俺はこっちだから」
「ん」
「美羽ちゃん……」
改札を通り、それぞれのホームへ向かう別れ際に、瞳を閉じて無防備に突き出された艶めく唇。
階段に伸ばしかけた足を戻し、美羽ちゃんに自分の唇を押し当てる。
「……短い」
「ここ、駅だからね?」
この時間だ。さすがに人は少ないとはいえ、確実に何人かには見られてしまっただろう。その中に知り合いがいなければいいのだが。
「明日、放課後サークルだからね?」
「わかってるよ。美羽ちゃんもギター、忘れないでね」
「うん、わかった。航さん大好き」
「俺もだよ」
惜しむように身体を離し、僕は2番線、彼女は5番線へと向かった。
幸い電車に待たされることもなく、また座席を確保することもできたので、足元から出て来る微温い風に身を緩ませながらスマホを取り出し、イヤホンを繋ぐ。
今日はそうだな。本当に珍しく、あの日のことを思い出したから……ロックがいい。
イヤホンから聞こえる最近流行りのバンドのサウンドに身を任せた。ああ、あの頃は、楽しかったな。
そうやっていたら涙が出そうになり、俺は上を向いて目を閉じた。静かに流れて来るバラードナンバーがゆっくりと思い出の世界に、夢の世界に俺を誘って行った。
***
『終点、花本〜花本〜、終点でございます〜』
「……んあ?」
目を見開きキョロキョロと辺りを見渡すが、車内には誰もいない。駅名を見ると、花本と書いてある。最悪だ。電車を寝過ごして終点まで来てしまうなんて。滅多にやるものじゃないのだが、今日の俺はちょっと色々不調らしい。
スマホで折り返しの電車を調べるが、終電が終わってしまっていた。明日は1限からだ。幸い終点から家の最寄りまではそう離れていないし親に……いや、タクシーで帰ろう。幸い実家の最寄り駅は花本から戻って3駅の芦川だ。
電車から出ると、さらに冷え込んだ外気が容赦なく暖房に慣れきった身体を突き刺して来る。だが花本駅はそこそこに栄えている駅だ。タクシーを捕まえるのは容易なはず。
寒さに震えながら改札を抜け、階段を下り、ロータリー広場に出る。
この時間だというのにそれなりに人がいるところはやはり流石だ。飲み屋も多いしネットカフェもある。終点になるだけはあるな。
吐く息が白い。今日はやけに冷え込む。
「―――――――」
「……え?」
グッと、心に何かが流し込まれるように思った。歌だ。歌が聞こえた。
声の方を見ると、そこには一人の女性がアコースティックギター片手に路上ライブをしているようだった。それなりの人に囲まれている。
なぜだろう。いつもなら路上ライブなど何も気にすることなく通り過ぎるのに、今日だけは、その歌声が、その歌が、どうしようもなく気になってしまった。
「―――――――」
近づいて、ようやくその姿が見えた。背の低い、美人というよりは可愛らしいセミロングヘアーの女性だった。歳は同じくらいだろうか。脇にCDが置いてある。名前は……暮野光、か。聞いたことないな。
しかしCDが売れている様子はない。それもそうか。歌は特別うまいわけじゃないし、曲だって数年前に少しだけ流行ったロックチューン。ウケ狙いにしても、時代じゃない。
でも、なんだろう。なんか……うまく説明できないけど、いいな。
彼女を囲んでいる人だって、彼女の良さをうまく説明することはできないのだろう。それでも静かに聞き入っているのは、彼女の歌に、旅人を温める暖炉のような、春、雪を溶かしていく太陽のような暖かさを感じるからだ。
俺が知っているこの曲はこんなに優しい曲じゃなかったのに、彼女が歌うだけで心を溶かすような音になる。音程や声質といったわかりやすいものじゃない、直接聞いて肌で感じてこそわかる、一種の特別な才能と言える。
言わずとも、彼女がいかにこの曲を愛しているのか、歌を愛しているのかが伝わって来る。だってこんなにも、音が喜んでいる。
「ありがとうございました」
でも、やはり技術が劣ってしまっている。歌を止めてしまえば、魔法が解けるように聴衆は現実へと帰還した。それぞれの帰路に就く。
小銭をギターケースに入れていく人はそれなりにいたが、CDを買って聞きなおそうという人はいない。彼女は完全にライブ型の歌手なのだ。
僕は少し酔いがさめてきたサラリーマン達が小銭を放り込んでから帰って行く様を、そこから動くこともなく見つめていた。。
「あの、もう歌いませんよ?」
「え?ああ、すみません」
それを見て流石の彼女も不審に思ったのだろう。僕に帰るように促して来る。
僕は財布を取り出そうとして、カバンの中に手を入れる。すると、その腕を握られ、首を振られた。
「ありがとうございます。でもいいんです。私、あなたからはすごく大きなものをもらってしまいましたから」
そっと指を伸ばし、僕の目に触れる。指先についた水滴が停車しているタクシーの明かりに照らされ、水晶のように光る。
「これだけで、十分です」
恥ずかしそうに笑ってみせる暮野光。かっこつけすぎかな、なんて言いながら頭を掻いていると、何かに気づいたように元いた場所に戻り、また走って戻ってきた。
「これ、迷惑じゃなければもらってくれませんか?全然売れないんで、一枚だけ」
その手には、さっき僕が見たCDが握られていた。
「ありがとうございます」
断る理由もない。受け取って、カバンにしまう。
「でも、お金は払わせてください」
「え?いや、そんな……」
「いいんです。はい」
取り出した千円札を無理やり彼女に握らせ、タクシー乗り場に向かう。
「じゃあ、これで」
「あ……ありがとうございました!!」
ぺこりと頭を下げて来る。暮野光、か。もっと、聞いていたかったな。しっかりとした練習を積めば、もしかしたら凄い歌手になるんじゃないか。そんな確信が持てるほどに、才能を感じる少女だった。
少しだけ暖かくなった心で、俺はその場を後にした。