序章
この物語はフィクションであり、実在する人物名、団体、地名とは一切関係ありません。
私は一点を見つめていた。
私に見つめられた彼――恋人、君島直樹は、目も口も固く閉じて彼を取り巻く静寂を決して壊すことなく眠っていた。
――霊安室。薄暗いこの部屋では直樹の顔がどのような色を帯びているのか分からない。だからこそ、私には彼がただ寝ているだけのように見えた。死んでいるようには思えなかったのだ。しかし彼は起きない。私を捕らえて放さない、よく動く彼のその大きな目は、自ずから開かれることはなかった。
私は傍らに在る白い布を目にした。彼の顔を覆い隠していた布だ。思わずそれを睨んだが、だからといって布が消えるわけでもなく、ましてや彼が目を覚ますこともなかった。
「――――っ」
私は声を出そうとした。けれども何かが胸につかえ、声にならない。
「紀恵さん……」
後ろから誰かが私の名前を呼び、私の肩に手をかけた。直樹の職場の後輩で、彼と仲が良かった鵜飼英司だった。私が再び、しゃべらぬ直樹の方に目を向けると、私の頬を水が伝った。
「……直……樹」
水が零れるのと同時に、声も出せるようになった。
「直樹、直樹、直樹っ……」
さっきまで声が出なかったことが嘘のようだった。私は溜まっていたものを一気に吐き出すように、同じ名前を連呼した。やはりその名前の主には何の反応もない。
「直樹……」
私はその場に泣き崩れた。床がひんやりと冷たかった。
私達はさっきまでいた白い建物を背に、街路樹の植えられた道をひたすら歩いた。赤信号が私達の足をとめた。
「本当に残念です……」
「えぇ……。でも彼は刑事だったから。私はどこかで覚悟は出来ていたのよ」
嘘だ。覚悟などしていなかった。大切な人がこんな形で死ぬなんて、テレビや小説の中だけ、所詮は他人事だと思い込んでいた。鵜飼刑事はそんな私の心情を読み取ったのか、心なしか彼の表情が寂しげに見えた。
「あの人は……君島さんは立派だった」
鵜飼刑事は目の前を走り去る車を見ながらそう言った。それは私に対しての発言なのか、はたまた単なる彼の独り言なのかは、私にはよく分からなかった。
「人質を助けるために、自分が犠牲になったんですから」
立派に死んでいくくらいなら、逃げ腰で生きて私の傍にいてくれた方がよっぽど良かった。頭の中で思うだけで、こんなこと実際に人には言えなかった。
「俺には出来ないです」
鵜飼刑事は私の方を向いて言った。この言葉は確実に私に対してのものだと分かった。
走っていた車は徐々に速度を落としやがて止まり、私達を指揮する信号は青に変わった。何人か信号待ちしていた人達と共に、私達もまた進み始めた。鵜飼刑事は黄土色のコートのポケットに両手を突っ込み、天然パーマの髪を揺らしながら、俯き加減に歩いていた。私達は、その後互いに会話を交わすこともなく、黙々と歩いた。時折吹く冷たい風に、私の黒髪が乱れて顔にまとわりついた。
直樹が病院に搬送された直後、私も病院に到着した。彼が然るべき場所で手術を施されている間、私はこうなった過程を簡単に聞かされた。
直樹は“強盗に遭った”という店長の通報を受け、何人かの刑事(その中には鵜飼刑事も含む)と共に銀行へ駆けつけた。警察の登場で、犯人は相当焦った様子だった。
犯人はすぐ近くにいた四、五才くらいの少女を人質を取り、その人質に拳銃を向けていた。少女は当然泣き叫んだが、それに驚いた犯人は、人質を自分の手から突き放し、奇声をあげて人質めがけて引き金を引こうとした。直樹はすぐさま少女を助けようと、その子の前に飛び出した。犯人はそのまま引き金を引いた。放たれた弾は直樹の腹にねじ込んだ。彼はその場にうずくまったかと思うと自分の後ろにいる少女に笑顔でこう言った。
「けがはないか……?」
少女は頷き、その直後直樹は倒れ込んだ。彼の体も彼のまわりも血だらけだった。警察は少女を保護し、犯人を取り押さえた。
これが私が聞いた内容だ。本当にドラマのようだと思う。涙目で話す鵜飼刑事の顔が印象的だった。
私と鵜飼刑事はここの交差点で別れる。彼は交差点を左に曲がり、私はそのまままっすぐ進むと家がある。彼は“それでは”と私に軽く頭を下げ、左に曲がった。私も頭を下げた。一昨日買ったばかりの革の茶色いブーツに少し汚れがついているのが目に入った。私はそれをはらうことなく頭を上げた。日が沈む。私には夕日が真っ赤な血に見えた。
コナンFFを執筆させて頂いています、赤田サチです。オリジナル作品は今回が初めてです。それ故、評価・感想ぜひとも頂きたいと思っております。
ジャンルについてですが、どうしようと悩んだ挙句、根本的な部分で適当に。すみません……。




