9 マユさん
「決まりだな。シン、いるのか? 入ってこい」
外に向けられる声に、慌てて先生から身を離し、目元を袖で拭った。
「話はついたかな? 綾乃ちゃん、こっちが・・」
「こーんにーちはっ」
慎兄ちゃんの声を遮る明るい女の人の声。
それと、カツカツと軽快なヒールの音が近づいてきて、私は無意識に先生の手を探していた。
その仕草に気づいたのか、先生が手を握ってくれて、ほっと安堵した。
「まあ。スゴい。私は、黛陽子。マユって呼んで」
すごいって何だろう・・
ハキハキした声は、学校の友達を一瞬だけ頭に過らせた。
「あ、は、初めまして。石崎、綾乃、です。よろしくお願いします」
ちょっと緊張しながらも自己紹介を返してぺこりと頭を下げる。
「きゃあ、なあに? 可愛いコねっ」
「抱きつくなよ、マユ。ルームシェアの話の前に一つ言っておくことがある。
・・・石崎」
先生の声に促され、私は深呼吸をしてから、マユさんとおそらく慎兄ちゃんがいるだろう場所に視線を向けた。
「私、あの、わ、・・・私、一ヶ月前くらいから、目が、み、見えなくなって、るんです」
え?と慎兄ちゃんの息を飲むような声がする。
「目の検査では何の問題もなくって、でも、・・見えないんです」
「そう。・・騙されたなあ。ちっとも気づかなかった。よく普通に生活できていたね。すごいな」
慎兄ちゃんはわざとなのか、いつもより茶化すような口調でそう言った。
「精神的なものが原因で視覚や聴覚に異常をきたすケースはあるわ。
何例か知ってる」
マユさんの声。流石は医師。冷静な受け答えしてもらえてほっとする。
「そのこと、総司さんには・・」
「お父さんには、・・言ってません。これ以上心配させたくなくて、気づいた坂口先生にも内緒にしてもらうようにお願いしてるんです」
自然と下がる視線。
俯いた私の頭をぽんぽんとやわらかく軽く撫でる手。
先生の手とは違う。これは慎兄ちゃんかな。
「そっか。うん。総司さんを悲しませたくなかったんでしょう?」
「はい。あの・・・、黙っててごめんなさい」
「ん。そんなの、いいよ。大変だったね。僕達は綾乃ちゃんの味方だから」
ね? と言ってまた頭を撫でられた。
「なるほど。それで、ルームシェアか。やっと納得いったよ。
珍しくテツが自分から言い出すし、 何か理由があるのは分かってたけど、聞いても、今は言えない、の一点張りだったし。
さっきも唯ならぬ雰囲気だったし」
うんうんなるほどね、と頷いている様子の慎兄ちゃん。
「部屋は開いているし、いいだろ? 責任は俺が持つ。
男の俺にはできないこともあるし、シンとマユに協力してもらいたい」
「もちろん、オッケーだよ」
「私も。おっけーおっけー」
あまりにも簡単に二人がルームシェアを了承するので、私の方が焦ってしまう。
「あ、あの、本当にいいんですか? 私・・・、たぶん、いえ、あの、絶対、ものすごく迷惑を掛けてしまうと思うし・・」
「迷惑なんて気にしないでよ。むしろ綾乃ちゃんなら大歓迎」
「困った時はお互い様ってね。
うふふ、こーんな可愛いコとルームシェアできるなんて嬉しいわあ。
よろしくね、綾乃ちゃん」
二人の顔は見えないけど、私の名前を呼んでくれる声が暖かくて嬉しく思う。
「・・あの、ありがとうございます。本当に」
三人に感謝の気持ちを込めて長めに頭を下げると、ぐりぐりぐりっと強く頭を撫でられる。この力は、先生の。
「こら、テツ! 女の子の髪は繊細なのよ。もっと丁寧に扱いなさいよ!
もう、男はダメね。お姉さんが直してあげるわ」
マユさんは先生を叱りつけたようだ。
他人に櫛で髪をといてもらうなんて久しぶりで、どきどきしてしまう。
「さあ、これから忙しくなるね。色々準備しないと」
慎兄ちゃんが言うと、マユさんも「おー!」と楽しそうに答えた。