38 父の気持ち
父が倒れた。
慎兄ちゃんからそう聞いた時、最悪の事態を想像してクラっと目眩がした。
冷静な先生は私から携帯を取り、大丈夫だと抱き寄せる。
過労で倒れただけらしくて、ホッとした。
急いで病院に駆けつけると、父は病室で点滴の針を腕にさして横になっていた。
父は私の顔を見ると、バツが悪そうに視線を泳がせる。
「あ、綾乃。ち、ち、違うんだよ。これには訳が・・」
父は体を起こし、焦りながら両手をパタパタ忙しく振る。
父の輪郭が一回り、小さくなったように感じる。顔にはうっすら無精髭を生やして頬が痩せこけていた。目に見えて疲労困憊している。
先週、目が治ってから久しぶりに父の姿を見れた。以前よりずいぶん痩せたと思った。この一週間は本当に忙しくて会いに来れない、と電話だけでやりとりをしていたんだけど、倒れるほど働いていたなんて。
私は父の枕元に腰をおろし、おもむろに抱きついた。
「わわ。あ、綾乃!?」
父は慌てたようだったけど私はお構いなしに、ぎゅうぎゅうとしがみついた。
いつもは硬いスーツだけど今は柔らかいパジャマだからか、父のぬくもりを直に感じた。
「心配かけたね。・・・ごめんね」
父はそう言って、私をぎゅうっと抱きしめ返してくれた。
少し落ち着くと先生が椅子を持ってきてくれて、座った。
父は私が剥いたリンゴを嬉しそうに口にする。
「初めて綾乃がリンゴの皮を剥いたのは小学一年の時だったよ。小さい手で果物ナイフを持って、見てるこっちが怖くてさ。
でも、莉乃はだいじょうぶだって笑ってたんだよね。
あの時も、母親ってすごいなあって感心したもんだよ。
・・・懐かしいな。上手に剥けるようになったね」
リンゴを刺していたフォークをお皿に置いて、父は自分の手に視線を落としながらポツポツと話した。
「・・綾乃が睡眠療法を受けるって聞いて、実は僕もここに来てたんだ。心配で。
事故のことを思い出せば衝撃を受けるだろうと思って、慌ててここまで走って来て・・・。
でも僕は、ついたての向こうに立ったきり、声も掛けられなかった。
綾乃が、・・莉乃を呼んで泣き叫んでるのに。おかあさんって」
父はブルブル震える自分の手を硬く握り込んだ。
「・・・僕自身、ちっとも消化できていなかったんだよね。莉乃のこと。
仕事をしていても、つい隣を見てしまうんだ。隣の席には、いつも莉乃が座っていたから。
僕は、莉乃の支えがなかったらここまで登ってこれなかった。
小さな会社だけど、立ち上げて、どうにかここまで大きくした。
・・・莉乃がそばにいてくれたから」
閉じていた目を開けて、父は私と視線を合わせた。
「・・・ごめんね、綾乃」
眉を寄せて、泣く一歩手前みたいな顔で、父は私に謝罪の言葉を告げる。
「綾乃が、自分のせいだって・・そんな風に思ってしまったのは、僕がしっかりしてなかったからだよね。ごめんね。
莉乃をなくして悲しかったし、半身を失ったみたいに辛かった。でも・・」
父の手が伸びる。
私も手を伸ばした。
父の両手が私の手を包む。
「・・でもね、綾乃のせいだなんて、思ったこと、一度もないよ。絶対に。
綾乃が助かって、本当に、僕は救われてる。
綾乃まで連れてかれてたら・・・僕はきっと、生きていけないよ」
父は声を震わせながら、祈るみたいに両手におでこを寄せた。
こんなにたくさん話す父は初めてかもしれない。
「綾乃は、僕と莉乃の宝物なんだ。
僕たちに、いっぱい、いっぱい、いっぱい幸せをくれた。
僕と、莉乃の、たいせつな、たいせつな、子どもなんだよ」
「おとう、さん・・・」
胸がいっぱいでうまくしゃべれなかった。
涙が、後から後から流れて頬をつだう。口に入ってしょっぱい。
父が慌ててティッシュを取ってくれた。涙を拭いて、ついでに鼻をかむ。
父も同じように鼻をかんだ。
目が合って、ぷっと二人で吹き出す。
あなたたちはよく似てるわって、母はいつもそう言ってた。
「ねえ、綾乃。莉乃は最期、笑って逝ったよ。
わたし、さいごに母親らしいことできたでしょって。
君を守れたこと、莉乃は誇らしげに笑ってた。母親ってすごいね。
ああ、ダメだな。僕は泣いてばかりで。天国の莉乃に怒られちゃう」
そう言ってまたティッシュで目元を拭う父。
「怒らないよ、お母さんは。きっと・・もうあなたったらって、笑うよ」
「・・・そうだね」
父は、ふっと穏やかに笑った。