2 父
ガラッとドアが開く音がして、私はやや俯きがちな姿勢をとった。
今回の事故で額を深く切ってしまったので、長めの前髪は下ろしてある。
いつも手元には雑誌を置いて視線を下げているし、前髪がジャマをしているから、話しかけてくる相手と視線が合わない不自然さを咎められることもない。
「おはよう、綾乃ちゃん」
「・・おはようございます」
看護師さんが挨拶の後、手際よく体温と血圧を測る。
この声は富田さん。 おしゃべりが好きで手際が良い看護師さん。
数値を記入し、よく眠れたか痛いところはないかなど、毎朝繰り返される質問を一通り受ける。
「今日はリハビリがあるから。坂口先生がみえるわよ。予定、知ってたかしら。
そうね、午前中、九時くらいかしらねえ」
「はい、・・・わかりました」
リハビリは思うように進まない。思わず軽くため息が出た。
「あらあら、綾乃ちゃん、坂口先生は苦手なの? あらあら。
確かにねえ。坂口先生の顔が怖いって泣く子もいて困ってるのよ。
せめてちょっとくらい愛想笑いしてくれればいいんだけど、ずっとあの無表情でしょう? 必要以上に喋らないし。あの鋭い目、怖いわよねえ。
でも、腕はピカイチなのよ。
それに、強面だけど、男前じゃない。大人の女性には大人気よ。
見てる分には目の保養よね。私みたいなおばさんでもドキドキしちゃうもの」
富田さんはこちらが口を挟む間もなく一気におしゃべりを繰り広げ、じゃあ頑張ってね、と楽しそうに笑いながら去って行った。
いつもながらよくしゃべる人。
こっちの返事がなくても一向に気にしないみたいだから楽だけど。
富田さんと入れ違いにバタバタと慌しく部屋に近づいてくる靴音。
あれは声を聞かなくても分かる。父だ。
ガラリとドアが開いて入ってきた父は、ゼイゼイと息を切らしている。
「おはよう、お父さん。こんな早くにどうしたの?」
「ああ綾乃。昨日は来れなかったから、心配で心配で。どこも痛くないかい?」
父は荒い呼吸のままベッドに駆け寄ってきて、すぐに私の手を握る。
ふわりといつもの父のスーツの香りが鼻を掠める。
会社で重役を担っている父は、休日出勤は当たり前、毎日深夜まで残業をこなす忙しい人。
入院して以来、私に対してやたら心配性になってしまった。
仕事で寝る時間もないくらい忙しいはずなのに、休み時間に会社を抜け出したり朝の出勤前に寄ったりして毎日顔を見せに来てくれる。
以前は三、四日顔を見ないないなんてこと普通だったくらいなのに。
もちろん嬉しいけど、このままでは父の方が倒れてしまうのではないかと、私の方が心配している。
「・・・お父さん、毎日来てくれなくても大丈夫だよ?
看護師さんも先生も、たくさんいてくれるんだし」
「そんなこと言わないでくれよ。綾乃の顔が見たくて来てるんだから」
そう言って、はははと笑う。
父もまた、私と視線が合わないことを訝しんだりしない。
綾乃は照れ屋だからね、と俯く私に優しく言う。
きっと、私の顔に傷が付いてしまったことを、私以上に気にしているんじゃないかって思う。
「なにか欲しい物はないかい? お菓子とか買ってこようか?
退屈だろう? 雑誌とか、ゲームとか」
「ううん。来てくれるだけで、嬉しいよ。
それよりお父さん、ちゃんとご飯食べてる? ちゃんと寝なきゃダメだよ」
「あはは。参ったな。わかったよ」 父は陽気に笑う。
きっと、目尻にシワを寄せた、私の好きな優しい表情をしてるのかな。
父には、私の目のこと、絶対に絶対に気づかれたくない。
これ以上、父の心配の種を作ってはいけない。父を苦しめたくない。
「・・さて。行きたくないけど、仕事に行かなきゃな」
大げさに「ああ嫌だ嫌だ」と軽い口調で言う父。
それじゃ、と椅子が動く音と、カバンを持つ音。
触れていた手が離れると、ふっと寒さを感じて、思わずこちらから手を伸ばしてしまいそうになる。
そんな弱い気持ちをぐっと飲み込んで、精一杯笑顔を作った。
「いってらっしゃい、お父さん」
「ああ。ゆっくり、身体を休めるんだよ。また明日、来るからね」
名残惜しそうに父は病室を出て行った。
パタパタパタ・・。走って行く音が聞こえる。きっと仕事に戻るのかな。
忙しい思いをさせて申し訳なく思う。




