理科室ミルキー
今井の想い人は、太一くん、というらしい。
放課後の第二理科室で、彼のつるりとした白い肌を撫でながら、うっとりと今井はつぶやいたのだ。「太一くん」と。
誰も見ていないと思っていたのか、俺が今井の丸まった背中をぽんっとたたくと、彼女はぎゃあっとカエルのようにひしゃげた悲鳴をあげて、おおげさにのけぞった。
「あー、びっくりした。柚木、いつからここに」
「十分ぐらい前から」
「もしかして、ずっと見てた……?」
俺は口の端をゆがめてにやにやと笑った。今井の顔が面白いように赤く染まっていく。奴はごほん、とわざとらしい咳払いをしてこの場を丸めようとした。そうはさせるか。
「あのさあ、何で太一くん、なん?」
ひえっ、と空気の漏れるようなへんな声をあげて、今井はキョドった。しきりに、黒縁めがねの奥の丸っこいひとみを揺らしている。
「えっとお、太一、っていうのは、自分のなかで、なんか、明るいイメージの名前なんだな、それで、つけてみた……」
最後のほうの声はもう消え入りそうになっている。今井はしなしなとしおれた。
「すいませんもう勘弁してください」
「わかった。このことは誰にも言わない。森口にも迫田にも言わない」
「恩に着ます。今度、なにかおごらせてください」
俺は微笑むと、「太一くん」の丸い頭を撫でた。それは、冬の理科室の気配をまとってひんやりと冷たい。太一くんはにこりともしない。目は見開かれて、というか、瞳孔はつねに開きっぱなしだ。外は木枯しが吹いていてここには暖房もないというのに、一糸まとわぬ姿ですべてをさらけ出している。血管や内臓、骨までも。
そう、「太一くん」は理科室のアイドル、人体模型だ。
引き戸が開く音がして、「さむいねー」と言いながら、森口が入ってきた。赤いタータンチェックのマフラーにあごをうずめて、両の手をこすりあわせている。そのすぐ後ろには巨体の恭平。ポケットに手を突っ込んだまま、ういーす、とやる気のなさそうな挨拶をかます。
今井双葉、森口安奈、迫田恭平、そして俺、柚木収一。生物部のメンバーが全員そろった。みんな一年。上級生はいない。夏までは三年生がふたりいたけど、受験ということで引退した。うちの部は、受験勉強にさわりが出るほど、たいした活動をしているわけではない。なんとなく、ひとつのけじめとして、引退というかたちをとっただけのこと。かくして部員は四人になり、部から同好会に格下げとなったわけだが、俺たちにはさして影響がなかった。相変わらず放課後ここにあつまってはゆるいおしゃべりをしたり、飼ってるクサガメと金魚の世話をしたり、模試の前には勉強を教えあったりしている。
「ねえねえ柚木、ここがわからないんだけど」
今井が俺の制服の袖をひっぱっている。ひらかれた問題集のページには、びっしりと付箋がつけられていて、俺は軽いめまいを覚えた。
「ここって、どこ? まさか、これ全部?」
こっくりとうなずく今井。あたたた、と俺は手のひらを額に押し当てた。
「あのさあ、これ、全部基本問題じゃん。授業まじめに受けててこんなに理解できてないんだったら、医学部とか、むりじゃね?」
今井はしゅんとしぼんだ。もともと百五十センチあるかないかのちっこいからだが、さらに三センチほど縮んだ気がした。そもそも今井は中学のころから文系科目のほうが得意で、数学は致命的に駄目だった。高校受験でも随分苦労していて、俺がつきっきりで教えてやって何とかなった。なのに医学部志望、だ。
「ちょっと収、そんな冷たい言い方、ないんじゃない?」
森口が口をとがらす。丸椅子に腰掛けて、くるくるとシャーペンを指先でまわしている。隣には恭平がぴったりと密着して、森口のノートになにやら落書きしている。ちらとそれを見て、森口が「やあだバカ」と耳たぶを赤く染めた。
やあだバカ。やあだバカ。やあだバカ。
甘い。甘すぎる。恋する女子は、とろけるように甘い声をだす。
恭平は森口の、ボブカットのさらさらした髪に触れた。「もう、バカ」と森口が口をとんがらせて拗ねた。
もう、バカ。
バカだなあほんとに。いくら気を許した仲間の前だからって、イチャイチャは謹んでもらいたい。
バカふたりは無視して、俺は今井に根気よく数学を教えた。真面目だが飲み込みの悪い生徒で、日が落ちるころには、俺はぐったりと疲れ果てていた。
夜、勉強のお供に、俺は飴をなめる。甘いやつだ。カンロ飴とかキャラメルとか、ミルキーとか。高校生になってから、無償に甘いものを欲するようになった。思うに、勉強がハードになって、つねに脳がフル回転しているからだろう。脳の養分はブドウ糖である。はやく供給しろ、と太一くんの頭のなかにあるのと同じ、しわだらけの俺の脳みそが低い声でささやくのだ。
内臓が見たいから、と今井は言った。
なんで医学部なん? と聞いたときのことだ。俺たちは中二で、あの時代特有の青さでもって、生きる意味とか人生の目標とか愛やら恋やらほんとうの友情とは何かとか、そんなことについて、もやもやと鬱積を抱えてはたがいにぶつけていた。今だってもやもやはもちろんあるが、もう少し冷静に物事を考えられるようにはなった。と、自分では思っている。まあ、それはさておき。
内臓が見たい。何じゃそりゃ。今井以外の三人はぽかんと口を開けて呆けた。
「あのね、あたし、小さいころからね、医療もののドラマが気になるの。ドラマの内容じゃなくって、手術シーンに。ドキュメント番組だと、ちらっとだけど本物が映ることがあって、もう、くいいるように見入っちゃうんだ。それであたし、将来、ぜったいにいつか本物の内臓を見てやるって夢見てるんだ」
今井の目はとろんと熱をもったまま虚空を見つめ、小学生のころから変わらないロングの黒髪は光を受けてつややかに輝いていた。あれは、恍惚の表情、というやつだった。
二個目のミルキーに手をのばす。和英辞書を放り投げ、代わりにキラキラした軽い単行本を手に取った。イトコの亜季(小六)から借りたマンガの新刊だ。
ページを繰ると真新しいインクの匂い、あまやかな恋の香り、あふれんばかりの乙女の純情、胸を締めつけるせつなさ、バラエティに富んだイケメン。髪を短く切って化粧を練習してスカート丈を詰めて垢抜けたヒロインが、勇気を出して、大学生の家庭教師にコクるシーンでその巻は終わった。あああ、気になる。猛烈につづきが気になる。家庭教師には同じ大学の美人彼女がいる。この彼女、性格もいい。恋心と良心のはざまで引き裂かれるヒロインのこころ。せつなすぎる。
*
自分のことを棚にあげて言うのもなんだが、恭平はイケメンではない。百八十センチを超える長身に厚い胸板というオトコくさいルックスに似合わず、手先が器用でお菓子つくりがうまい。口は悪いが気はやさしい。緊張する場面になると腹をくだすかわいそうな体質。
ぶあつい雲の垂れ込める寒い冬の夕暮れ、俺たちの一メートルほど先を、恭平と森口は互いの体温をわかち合うように寄り添い歩いている。森口のスカート丈は中学のころより五センチは短くなり、髪も、ストパーでもかけたのか、いつの間にやらまっすぐサラサラになった。
いつものように放課後第二理科室でヒマをつぶしてからの帰り道。コンビニに寄って今井に肉まんをおごってもらった。この前約束した、あれだ。葉を落としてむきだしの枝を寒々しくさらす銀杏並木の通りを、ゆっくりと歩く。肉まんの湯気だけがあたたかい。
「さいきん、安奈ちゃんたち、仲いいね」
今井がつぶやいて、俺は思わず、えっ、と漏らした。
「仲いいねって、知らないの? てか、気づいてないの?」
「何に?」
「あいつら、つき合ってんだよ」
今度は今井がえええっとのけぞる番だった。い、いつから、と動揺のあまり声がうわずっている。俺はあきれた。
「中学の卒業式に、森口がコクったんだよ。それからずっとあの調子だよ」
今井は金魚のように口をぱくぱくさせている。あいつらが恋人同士になってからもう一年ちかく経つわけで、その間なにも疑わなかった今井の感性が、この恋愛至上主義の世の中で、ある意味、貴重だ。というか、森口とその手の話はしないのか。
「そっか。それで安奈ちゃん、やたらと迫田の話ばっかりするんだ。どこに出かけたとか、何をしたとか。迫田のことカワイイとか言うから、どこが? って聞いたら、安奈ちゃん真顔になっちゃったっけ」
話、してんじゃねーか。バカかおまえは。今井はなおもぶつぶつつぶやいている。
「コクるって、いったい、どうやってやるのかな。やっぱ、校舎裏に呼び出したりしたのかな」
しらねえよ、と俺は言った。俺だってそんなの未経験ゾーンだ。彼女いない暦イコール年齢だ。知ってるくせに。
俺たち四人は小五のとき同じクラスで、生き物係をしていた縁でつるむようになった。それまで班も違ったしクラブ活動も別で接点のなかったメンバーだったが、一緒に過ごしてみると、非常に居心地がよかった。思うに森口は、恭平にコクるとき、かなりの葛藤があったはずだ。友達以上になりたいけど、今の心地いい関係を壊すのは怖い、みたいな。
今井は黙って肉まんを咀嚼していた。くちびるのはじっこに、肉あんのかけらがくっついている。ぬぐってやろうと、思わず手をのばしかけて、あわてて引っ込めた。
――いけない、いけない。
亜季(小六)からあらゆるマンガを借りて読んでいるが、俺は、仲良しグループのうちふたりがくっついて、あぶれたメンバーがなんとなくくっつく、という展開が嫌いだった。何だそのおまけ感。ついで感。読者をほっこりさせるために、全員カップルでめでたしめでたし、みたいな。何じゃそりゃ。どんなに好きな話でも、ラストがそんなんだったら、俺は単行本を壁にたたきつけるね。
それに。ちらと今井を見やる。まだ食ってる。万が一にでも、こいつとそんな雰囲気になるっていうのはありえないだろう。
正直な話。ちょっとだけ、かわいいなとか、ほっとけねーな、とか。思うことがないわけじゃない。ないわけじゃないけどさ。でも今井だぜ?
恋とはきっと、もっとドラマチックで、せつなく身を焦がす感情なのだ。俺はそう信じている。
「イルミネーション見に行こうぜ、みんなで」
と提案したのは恭平だった。今年から、銀杏並木通りが、クリスマスからバレンタインデーまでライトアップされるのだという。あれか。町おこしとやらの一環か。
点灯セレモニーがイブの夜七時にあるんだってさ、と恭平は目を輝かせた。
えーやだめんどくさい、とぶーたれた俺の両肩をつかんで揉む恭平。
「凝ってますねー柚木くん。勉強のしすぎじゃないですかー?」
ほっとけ。俺は今井と逆で、理系科目は得意だが英語と国語が壊滅的だ。だけど二年からのコース分けでは文系を志望している。二学期はじめの面接で担任は言った。
「普通に考えて理系のほうが向いてるんじゃない? こんなに数学と物理の成績がいいのに、勿体ない」
将来的にも理系のほうがつぶしがきくし、とも言った。もっともだ。でも俺は将来一流大学に行って大手出版社に入って少女漫画の編集がしたい。キラキラした恋の話がつくりたい。俺は絵は下手だし文章もうまくない。でも読むのは誰より好きだ。
こんなこと恭平には言えない。
塾とか行ったほうがいいんかな。でも、ここは田舎で塾は遠くにしかないし、そのくせバスの最終は七時台だし、親に経済力と送り迎えする時間の余裕がないと無理だ。うちは住宅ローンだけでいっぱいいっぱいのはず。
一流大学なんて夢のまた夢。万一受かったとして、その先、とんでもない倍率を勝ち抜いて大手出版社に入るなんてできっこない。奇跡が起きて入社できたとしても、少女漫画担当になれるかは……わからない。
ほんとうは自分でも、わかってる。
「あーもうため息なんてつくなよ辛気くさいなあ。おまえに必要なのは気晴らしだ」
「でもおまえ、せっかくのイブを、森口とふたりで過ごさなくていいのか?」
「いいんだよ。ってか、高校生カップルがよ、ふたりきりで夜中に出かけさせてもらえるわけないじゃん。つーかうちの母親が俺のことケダモノだと思ってるみたいで、すげえ警戒してんの」
「だけど、グループだとその警戒が甘くなる、ってこと?」
そういうこと、と言って恭平が二カっと笑った。俺は肩をすくめた。
しかしながら二十四日は模試だった。二十二日が終業式で、一応冬休みには入っているものの、年末まで模試と補習のオンパレードらしい。げんなりする。
いつもながら英語の出来が散々で、鬱々としながら、誰かいるか、と理科室をのぞく。今井が奥の席にすわってほおづえをついている。
おい、と声をかけると、力ない笑みがかえってくる。
「どしたの、うかない顔して」
「ちょっとね、数学が」
深いため息。
「あーあ、やっぱ理系は無理かなあ。先生がね、理系に進んでも苦労するのが目に見えてるって。やりきれないなあ、やりたいことと向いてることが違うって」
「わかるよ」
俺も同じ思いをかかえていた。太一くんのように頭蓋骨をぱかっとひらいて、脳みそ取り出して、得意分野を入れ替えられたらいいのにな、俺と今井。
「今日はさ、綺麗なもの見て、いやなことは忘れようぜ」
「綺麗なものって、イルミネーション? あれ、やっぱり行くの? だって、安奈ちゃん、今日休みだったよ」
「え、まじ」
「うん。インフルエンザだって」
背後で、ゆらりと巨漢の影がゆれた。
「おわ、恭平。気配消すなよ」
「あれ、迫田、顔、赤くない?」
俺とほぼ同時に今井が言った。
「さすが双葉ちゃん、未来の医者。どうも朝から熱っぽいんだ。やばいな、安奈にうつされたかも」
「彼女にうつされたとか、恭平、やらしいな」
俺がにやついていると、今井が、
「え、なんでそれがやらしいの?」
と俺の制服の袖をひいた。一点のくもりもない丸いひとみ。絶句。
「あー、つまりね、それは、ちゅ」
「やめろ収。解説するのは」
恭平の顔がさらに赤くそまった。まるで茹であげられたばかりの蟹だ。
「そういうわけでごめん。俺今夜は家で寝るわ」
「おだいじに……」
残された俺たちは顔を見合わせた。
「どうする?」
ながい沈黙。今日も相変わらず色白で髪の乱れもない太一くんの肢体を眺めながら、今井がつぶやいた。
「…………あたしは、行きたいです……」
それが、あまりにもかぼそくて消え入りそうな声だったものだから、俺は、なんだかむしょうに恥ずかしくなってしまう。
俺は恭平と同様イケメンではないが、あいつとちがって、親にケダモノだとは思われていない。むしろ草食系だと思われている。さっきだって出かけ際、「ねえデート? デート?」と期待に満ちた目で詰問された。まあね、と答えてやったら、おふくろは赤飯でも炊かんかの勢いで喜んだ。「手くらいは握ってくるのよ」とか何とか言ってた。
親っていうのは、息子が女子に興味がありすぎてもなさすぎても心配らしい。ほどほどに健全な性欲をもって、さわやかに節度を持って男女交際する、みたいなのが理想なのだろう。
めんどくせ。俺は肉食でも草食でもない。たんなる甘党だ。
待ち合わせの時間を十分過ぎても今井は現われない。珍しい。あいつは、時間にはきっちりしているのだ。リュックをごそごそ探ってギンガムチェックの巾着袋をとり出す。小学生のとき家庭科で縫ったやつだ。中には飴ちゃんが詰まっている。「女子かよ」って恭平にはよく言われる。ほっとけ。お菓子を持ち歩くのが女子の特権だなんて、誰が決めた。
ミルキーをひとつぶ、口のなかに放る。じんわりと広がるやさしい甘さにしばし癒される。と、ジーンズの尻ポケットの携帯が鳴った。メール着信。今井からだ。
「柚木、たすけて」
つう、とつめたい何かが背筋をつたった。ありとあらゆる最悪の事態が、ドラマの予告シーンのようにつぎつぎと浮かんでは消える。震える指で今井に電話をかける。
一回のコールで今井は出た。涙声だった。
「いま、どこにいる?」
「家。ごめん、むかえにきてくれると助かる」
今井が言い終わらないうちに、俺は、すでに駆け出していた。
今井の家に行くのははじめてではない。中二のとき、恭平とふたり、今井と森口に呼ばれて行ったことがある。ちょうどバレンタインで、ふたりでチョコを作ったとか何かだった。今井のおふくろさんがすっげえ高級そうな紅茶を淹れてくれて、今井の部屋全体がいい匂いに包まれていたのと、いつもおしゃべりの森口が、ずっと口をつぐんでうつむいていたのを覚えている。
昔ながらの年季のはいった家屋の立ち並ぶなか、小さいけど、場違いにこじゃれた白い一軒家。門柱に、クリスマス・リースが飾ってあった。
深呼吸してインターホンを押すと、すぐに扉が開いて、今井のおふくろさんが出てきた。小さくて若々しくて、おふくろさんっていうより、ママさんって呼び方のほうがふさわしい気がする。俺の顔を見て虚をつかれたようにぽかんと口をあけた。
「あら、えっと、……たしか、柚木収一くん、よね」
「はあ」
「まあまあひさしぶり。大きくなっちゃって」
背後からチキンの焼けるにおいが漂ってくる。だだだだ、とすごい音がして、今井が目の前の階段を降りてきた。
「ママあたし出かけるから。約束してたの」
今井の目が赤い。今井ママは目を見開いて、俺と、自分の娘の顔を、交互に眺めた。みるみるうちにその頬に赤みがさし、目じりが下がり、やわらかい笑みがひろがっていく。
「やだ、あなたたち、そういうこと? まあまあ、若いっていいわね。いいわ、行ってらっしゃい。イブですものね。でも、遅くならないようにするのよ。まあ、収一くんだったら信用できるし、だいじょうぶね」
やたらと全身がぞわぞわするのを押さえて、俺は好感度マックスの微笑みを返した。
「もちろん。帰りはきちんと双葉さんを家まで送り届けますので」
今井ママはとろけそうなスマイルで
「双葉。デートなのにそんな普段着でいいの? ほら、あの、ツイードのワンピは? 嫌? じゃ、髪だけでもアップにしたら?」
と浮かれている。今井は靴を履きながら煩そうにママの手を払った。今まで見たこともないような冷徹な目で母親を一瞥し、じゃ、とそっけない挨拶だけを放った。
今井は大きな音をたててドアを閉め、逃げるように早足でずんずんと歩く。住宅地をぬけたところでようやく歩を止める。立ち止まって息を整える今井の背後からまわって、ゆっくりと顔をのぞきこんだ。寒さのため頬はばら色にそまり、吐く息が白く綿菓子のようだ。ぶあつい手編み風のニットのうえに、さらに学校指定(!)のダッフルコートを羽織り、防寒は万全なのに、唯一無防備な指先だけが赤くかじかんでいる。
「ごめんね、うちの親、勘違いしたみたいで」
顔をあげて、さびしげに微笑んだ。
「でも、おかげで助かった。ありがとうございます」
ぺこんと頭をさげる。俺は所在なく後頭部のあたりをぼりぼり掻いた。
「どしたの一体。たすけて、なんて言うから俺びびっちゃったよ。なに、親とけんかでもしたの?」
成績、とか。進路、とかのことかな。医学部はあきらめろと説得されたとか。
「あのね、あたし宛の小包を妹が勝手に開けて、びっくりして気絶しちゃって」
「は?」
気絶?
「定価で十万近くする人体模型トルソーがね、オークションで二万円で落札できたの。ふふふ、五年やってた五百円玉貯金、開けちゃった。むふふふ」
「それで、ブツが今日届いたと。何も知らない妹がびびって泡吹いた、と」
「うん。妹はすぐに正気にかえったんだけど、ママがすごい取り乱しちゃって。あたしのこと、凶悪犯罪者予備軍みたいな目で見るの。カウンセリング受けてちょうだい、って涙ながらに訴えられちゃって」
そういうことか。それはたしかに、あのママには、きっついだろう。
「でも、イブに男の子がデートに迎えに来てくれたから、ママ、すっかり安心したみたい。あたし、女子の友達も少ないし、心配されてて、だけど、普通の女の子なんだって思ってくれたみたい。ちょっと予想以上の反応だったけど。ママ、中学の時から柚木のこと気に入ってたし」
そうか。やっぱり。俺は恭平のおふくろにも気に入られている。あの年代の女性の心をくすぐる何かを持ってるんだろうか、俺。それとも、単に危険な香りが少なすぎるだけだろうか。
今井は、思いっきり、猫のように伸びた。
「あー、もう、めんどくさ」
伸びたその手の先に、俺は、ぽん、と小さなまるい包みを置いた。
「ありがと。やった、ミルキーだあ」
幼児のように目を輝かせて白い飴を口に放る今井。俺も、もうひと粒。
ゆっくりと商店街の裏道を抜け、駅前の公園を通り過ぎる。手をつないだカップルが早足で俺たちとすれ違う。
甘い砂糖の玉が、舌のうえで、じんわりと溶けていく。口じゅうにひろがったやわらかな甘味が、血管をつたって、末梢まで行き渡る。俺は聞いた。
「ねえ、ほんとに恭平たちのこと、気づいてなかったの?」
「うん、だって」
ちらと俺を見上げた目に、一瞬、迷いの色が浮かぶ。
「だって?」
「だって安奈ちゃん、中学のころはずっと、柚木のことが好きだって言ってたんだよ。二年のとき、告白するって、バレンタインにチョコ作り付き合わされたし」
がつんと鈍器で殴られたような衝撃。目の前に星くずのような火花が散る。
「わあ、きれい」
それは火花ではなく電飾だった。銀杏並木通りに着いたのだった。
木々の枝に星が宿ったようだった。つゆのような小さな光のつぶが、交互に、青と白のかがやきを放つ。ゆっくりと光の森のなかをすすむ。
何だって。森口は俺のことが好きだったって?
おかしな動悸がとまらない。森口はずっと恭平にいちずな片思いをして、あふれ出しそうな想いを押さえきれず、友達関係を壊すリスクを犯してまで恭平をものにしたのだとばかり思っていたが。
違うのか。じつは……違うのか……?
なにかの拍子に、あっさりと俺から恭平に乗り換え、あっさりと告白したのか。
恭平も言ってた。「そろそろ彼女ほしいな、って思ってたらコクられて、安奈のことは嫌いじゃないし、まあいっか、って感じでつきあうことにした」と。
そんなものなのか。恋って、そんなものでいいのか。
濃紺の闇のなか、冴えて澄んだ空気に星屑のひかりがまばゆく点滅する。まるい瞳にひかりを映して、白い息を吐きながら、今井が、
「あのさあ。葉っぱの落ちた木の枝って、血管に似てない?」
などとつぶやいている。赤くかじかんだ両の指先を顔まであげて、ほう、っと息を吐きかける。ミルキーはすでに溶けてなくなってしまったが、まだ、口のなかに、全身に、甘さの余韻があって、ちょっとやそっとでは抜けそうになかった。
「こんな発想しちゃうあたしって、やっぱ変かな」
問われて、俺は苦笑した。変だよ。
「知りたいだけなのにな」
今井がつぶやく。思いがけずそれは寂しげな気配をまとっていて、俺はじっと、つづきの言葉を待った。
「知りたいの。体の中がどうなってるか、自分では見ることができないでしょう? あたしたちがこうして息をして、歩いて、しゃべってること。簡単であたりまえのことだってみんな思ってるけど、ちがうの。そこには驚くべきからくりがあるんだよ。教科書や本で学ぶことはできるけど、あたし、それだけじゃ足りない。ふしぎを、奇跡を、じかに見たいの。できれば、解き明かしてみたいの」
熱く語りすぎてしまったことに照れたのか、今井は頬を赤く染めて、へへ、と笑った。つられて俺まで顔が熱くなってしまう。
こいつの夢が叶うといいな、と思った。純粋に、そう思った。俺の夢は夢のままで終わるかもしれないけどさ、こいつの夢は。
俺は今井の手をとってぎゅっと握りしめた。それは衝動だった。
今井はびくっとからだをふるわせ、信じられない、といった顔で、おそるおそる俺を見上げた。むりもない。俺自身だって信じらんねえよ、こんなことするなんて。
「ごめん。……嫌?」
「……嫌じゃないよ。むしろ……、えっと、つまり」
しどろもどろになる今井。
「このまま、つないでいたい、です」
照れが極致に達したとき丁寧語になる今井の癖。瞬間、俺にも、怒涛のように恥ずかしさが襲ってきた。耳たぶのあたりがやけに熱をもっている。イブの夜の雰囲気に流されているのかもしれない。あまりものが身を寄せ合いたくなっただけかもしれない。青くさい今井の情熱にほだされただけかもしれない。甘い飴の毒がまわって、いかれちゃったのかもしれない。
だけどもう、どうでもよかった。
俺の手のなかで、凍りつきそうに冷たかった今井の手が、じんわりと熱をおびていく。心地よかった。それで、いいんだと思った。とりあえず俺は、このやわらかなぬくもりを離さない、と決めた。
続編あります。
連載「十六歳」の3・4話「マシュマロ・キス」になります。
よろしければ、どうぞ。