表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

2041年:ホタルの里

「カーボンナノチューブ筋と導電性プラスチックによる世界初の完全免震機構<アクティブフレーム>採用!」

「スポーツクラブ、ショッピングモール、病院、学校……なにもかもビル内に完備された完全環境都市」

「2000mから横浜を見下ろす神の座。住まいの進化形、アークタワー。完売間近!」


 男の名は川崎。70をちょっと過ぎたところだ。70にもなると、薄くなった髪も気にならない。人懐こい笑顔は昔のまま。しわが多少増えたくらいだろう。体はまだまだ若々しく、体力を秘めている。

息子に薦められ、アークタワーに越してきたばかりだ。彼自身がアークタワーに引っ越したかったわけではない。ついでに言うと、息子家族の分譲費は、半分くらい彼が負担したのだ! さらに言うと、息子のもくろみはわかっている。アークタワーには、老人介護ステーションと出張介護サービス、さらに病院がそろっている。老いていく父の面倒を見るのに、最適な環境なのだ。そこまで見通しておきながら、なおかつ、彼は引っ越した。

 引越しを決意した決め手は、彼の趣味、水泳。これだけははずせないところだった。なんと、同じアークタワー内に、50mの公認プールが2つ、25mのプールが10もあったのだ。リタイア後の生活を水泳に没頭させ、シニアの大会で名を馳せることも、夢想とはいえない環境だ。

 引越しに反対したのは、むしろ妻だ。長年の友人たちから遠く離れた地へ移り、大地から高く切り離された環境で暮らすことに、どうしても賛成しなかった。

 だが、40年間の結婚生活最大の大喧嘩を経て、川崎は妻を押し切った。そして、ひとつの事実に、当惑することとなった。


 川崎には、50年に及ぶ悪癖がある。2041年の現在では、考えられない悪癖である。

 タバコだ。

 業界団体の根強い抵抗により、日本のタバコにかかる税金は、先進国中最低に長年抑えられてきたが、ついに2020年、常識が既得権を圧倒した。タバコの害で失われる健康とそれにかかる医療費は、タバコ税の税収と、タバコ関連企業の納める法人税の合計を、7倍あまり上回る。ついに、タバコ税は、一挙に他の先進国並みに跳ね上げられた。具体的には、20本入りの一箱が、2万円前後になったのである。

 1本1000円となれば、おいそれと吸えるものではない。それは、前の名古屋のマンションでも同じだ。だが、アークタワーにはさらに厳しい制限があった。火気厳禁なのである。

 台所は、完全に電化されている。給湯設備は、アークタワーが持っていて、各家庭でバスに湯を沸かす燃焼機関を持つわけではない。もう少し言うなら、発電施設と冷房施設の余熱で給湯される。

 つまり、アークタワー内で、火が燃えることは、ありえない。何かが燃えること、それは、つまり、火事を意味するのである。

 喫煙所は、アークタワーに、ひとつだけある。200階の商業エリアの片隅に、完全隔離されて。388階の川崎の家からだと、ラッシュ時で15分、そうでないときも、10分近くかかる。

 タバコというものは、そういうものではない、と川崎はぷりぷりする。気持ちが張り詰めたとき、一瞬の心の弛緩を求めて、吸う。酒とは少し違う。酒は、心のテンションを上げていくが、タバコは、下げていく。冷えていきたい時。冷ましたい時。唐突に衝動は来るのだ。それから10分もかけて、喫煙所に向かうなど、考えられなかった。

 それで、自宅のトイレで吸ってみた。ライターに火をつけた瞬間、スプリンクラーが作動して、水浸しになった。タバコはもちろん、しけってしまった。それから、タワーの保安係がやってきて、さんざん文句を言われた。最後に、妻にイヤミ倒された。

 もちろん、家に窓はない。窓がある家は、億単位だ。そして、数億円出して窓がある部屋を買ったとしても、窓は、開かない。ホタル族となることさえ、このアークタワーでは不可能なのだ。


 川崎には、2041年に賭ける思惑があった。世界マスターズ水泳が開催される。年に一回、5歳刻みの年齢別世界一を決める、水泳の国際大会である。

 北朝鮮は、現在五代目の偉大なる将軍様、金正綱が相変わらずの独裁を引いている。周辺国を核で威圧し、あるときは中国に物乞いし、あるときは韓国に同胞と呼びかけ、それで幾度もの経済危機を乗り切ってきた。相変わらず、世界の最貧国である。

そして、今年の世界水泳のシニア大会は、ピョンヤンで開催されるのだ。

 川崎の心臓が、どくり、と強く打つ。

 北朝鮮は、最貧国だ。国民に、趣味や嗜好品に費やす金はない。そして、タバコは、国民の唯一と言ってもいい、貴重な嗜好品なのである。

 つまり、税金が、非常に安いのだ。一箱、1000円も出せば買える。日本の20分の1。まさに、地上の楽園である。

 川崎は、水泳大会にかこつけてピョンヤン入りする。いや、そうではない、水泳大会に出るついでに、そう、あくまでついでだ。タバコを、買うかもしれない。成田の税関は、なんとか突破できる自信がある。なんといっても、川崎は前科なし、まっさらの日本人、そして、かつては日本を代表する財閥系企業の役員まで務めた、はたから見れば立派な人間だからだ。


川崎は、帰りの飛行機で、緊張していた。70歳台の400m自由形で5位以内に入賞する成績を収め、ホクホク顔になっているべきだった。理由はもちろん、彼のスーツケースの奥底に、完全に課税対象となるだけの量のタバコが、仕込まれていたからである。


 そして、税関は、何事もなく、通過した。彼らの仕事は、X線で荷物を見ることだけではない。人を見ること。そして、川崎の履歴は、申し分なかった。そして70過ぎの老人だ。荷物に多少妙なところがあったところで、日本の治安を脅かすわけもない。


 翌々週。川崎の妻が、名古屋の旧友のところに、旅行に出かけた。川崎は、快く、許した。

 運良く持ち込めたタバコは、すばらしいできだった。北朝鮮製ということで、品質が心配だったが、今やタバコ生産が世界のトップ5に入る国である。むしろ日本の20倍の価格のそれより、微妙な苦味があり味わい深い。

 だから、川崎は、妻が名古屋に行っている間、思う存分タバコを吹かす一日を過ごすつもりだったのだ。

 そうは行かなくなった理由は、こうである。

 アークタワーのセキュリティは、住民が持ち歩くケータイで制御される。エレベーターに乗るには、ケータイが必要である。持ち歩いていないと、扉が開かない。部屋の扉ももちろんそう、スポーツクラブの清算も、そう。もちろん、喫煙室への入室も、記録される。

 北朝鮮製の格安タバコを手に入れた川崎は、毎日、喫煙室に通った。その履歴も記録され、妻の知るところとなった。

「ねえ、あなた」

「なんだい?」妻の声が、いつもより低いような気がする。川崎は、40年の経験を生かし、精一杯明るい声で応じた。

「今月、もう、10回も喫煙室いってるわね」

 そうだろう。ピョンヤンから戻って、10日だから。

「どこから、そんなお金出てるのかしらねぇ」

 妻は、北朝鮮のタバコ価格のことなど知るまい。日本で買えば、1本1000円の代物だ。そして、喫煙室に行った者は、1本で終わることはありえない。つまり、今月はもうタバコに少なくとも1万円を投入していると妻は推測しているのだ。

「だからね」妻は続けた。

「今月はこれ以上入室できないように、アークタワーの管理事務所に申請したわ」


 川崎にとっては、死刑宣告とも思えた。

妻が名古屋に出かけた、当日。タバコが、すぐ手元にある。だが、火をつけることが出来ないのだ。

 アークタワーの外に出る手もあった。だが、それも、履歴に残るし、最寄の喫煙所といえば、横浜の有料スモークバーだ。

 川崎は、思い切った手に出ることにした。フロアの「関係者以外立入厳禁」のエリアへ、向かったのである。


 どこのフロアにも、それは、あるように思えた。388階の川崎が住むフロアにも、もちろんある。関係者以外立入厳禁の扉。それは、川崎の方向感覚によると、北側の端にある。

 つまり、外の世界への扉なのだ。

 ビルに、窓がないのは異常である。それが、70歳の川崎の感覚だ。だから、窓はあるに違いない。だが、アークタワーのそれは、隠されていて、一般住民から手の離れたところにある。

 それこそ、ホタル族の復活の地なのだ。

 いささか大げさに物事を考えながら、川崎はその扉に近づいた。北朝鮮製のタバコ1カートンを堂々と腕に抱えて。

 すぐには開かなかった。ケータイが振動している。画面を見ると「生年月日を入力してください」と表示されている。

 それがどうした!

 ためらわず、入力した。1970年代生まれのどこが悪い!

 扉は、開く。

 がっかりしたことに、そこは、さらに小部屋になっていた。しかも、いつかの経験に基づき、慎重に天井を観察すると、スプリンクラーが実装されている。

 つまり、ここではタバコは吸えない。

 では、ここは何のための部屋なのか?

 さらに観察を進めると、部屋の奥に、またしても「開閉注意!」の文字が書いてある扉を発見する。これこそが、ホタルの里への扉なのだろうか?

 脇にある、認証用のロックにケータイをかざす。認証後に、ケータイが再び振動し、メッセージを流す。「本当にあけてよろしいでしょうか? はい/いいえ」

 俺はなあ! タバコが吸いたいんだよ!

 激怒しながら、「はい」を選択した。


 扉は開いた。とたんに、周囲が白くなった。耳が、ポン、と鳴る。そして、体が、ぐっと引っ張られた。

 普通の70歳の緩慢な動きなら、扉から転げ落ちてもまったく不思議ではなかった。そうならなかったのは、水泳で鍛えた体のおかげだ。それほどの勢いで、吸い出された。手元の1カートン、10箱、末端価格にして20万円相当のそれが……2000mの大空を舞った。

 タバコが、2041年の社会でどういう位置づけか、一度説明しておこう。かろうじて、合法ではある。だが、それは、社会的に、いやしまれる趣味である。今世紀初頭で、合法でいやしまれる趣味というと、例えば、性的なサービスを提供する女性が、需要者側の自宅へ訪問するというサービスがあった。

 その、麗しき女性が、例えば、あなたの部屋が汚すぎるのを見て、絶叫して逃げ出したとして……あなたは部屋を出て、彼女を、追えるだろうか?

 川崎は、20万円相当、1カートンのタバコが、横浜の2000m上空の真っ青な空を舞うのを見て思った。回収など、とんでもない。せめて、落ちてきたあれに当たって命を失う人が出ないように、祈ろうと。苦笑いするしかなかった。


――どうして、このアークタワーの各フロアに外への扉がついているんだ?。

――カイン、ビルには、普通そういうものも必要だろう?。

――そうだが、このアークタワーは、ただのビルではない。その目的は。

――以下略でいい。

――アークタワーは、宇宙船だ。だから、1階も400階も等しく1気圧に設定されている。400階近くで窓を開ければ、気圧の差は300ヘクトパスカル近い。2000mでは常時風が吹いていて、ベルヌーイの定理で気圧の差はさらに……。

――中学校で習う科学だな。住民に、知らせればいいんだ。バカなことをしないように。

――ふう。アベル、私は、アベルの楽観主義がうらやましい。

――とりあえず、各フロアの外への扉は、通行不能にした。パスワードを知らないものは通れない状態になった。

――それでいい。<アーク>という言葉の意味を、もう一度考えてもらいたいだな。

――それはお勧めできないと思うが。今住んでる住民が、<アーク>の言葉の意味を正確に読み取ったら、全員出て行くに違いない、カイン。


いや、水泳好きなんです。小説書くより得意です(笑)。

主人公の川崎さんにはモデルがいます。タバコをふかすスイマーです。困ったもんです。早くやめようね。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ