奇妙な体験
なんでもない一日のはずだった。
仕事帰り、いつものようにコンビニへ寄って、安い缶の酒を片手に歩き出す。
春の夜風は肌にやわらかく、ふと足を止めた先には満開の桜。
街灯に照らされた薄桃色の花びらがゆっくり舞い、まるで時間だけが少し遅れて流れているように感じられた。
――本当に、ただの帰り道のはずだった。
次の瞬間、視界がぐらりと揺れる。
脳が遅れてついてくるような立ちくらみ、胃の底から突き上げる生温い吐き気。
「うっ……」と声にならない息が漏れる。
膝が勝手に折れ、アスファルトに手をついた。
地面が近い。夜の匂いがやたら濃い。
立っていられない――。
頭の奥を握りつぶされるような不快感が全身を支配し、意識が闇に引きずられそうになる。
だが。
まるで誰かがスイッチを切り替えたかのように、すっと吐き気が消えた。
耳鳴りも、めまいも、さっきまでの悪寒すら跡形もなく消え失せている。
本当に“嘘みたい”だった。
俺は自分の手を見つめた。震えていない。体も軽い。
でもなにかがおかしい――その直感だけが、冷たい刃のように背筋をなぞった。
周囲をぐるりと見渡す。
だが、変化は……ない。
見慣れた街並み。変わらぬ桜。風に揺れる花びら。
さっきコンビニで買ったばかりの酒が入ったレジ袋も、手の中にそのままある。
……“ある”のに、心臓がどくり、と痛む。
まるで体の奥が警告を鳴らしているような錯覚。
「なんだ……これ」
思わず漏れた声は、自分でも分かるほど震えていた。
手に持っていた缶のラベルを見つめる。
いつも買っているはずの銘柄。
見慣れた色、見慣れたデザイン。
なのに――印字された文字だけが、まるで別物だった。
読めない。
日本語……のはずなのに、ところどころが妙な形に歪み、見たことのあるようで見たことのない記号が混ざっていた。
文字化けのような、あの無秩序な羅列に似ている。
だが完全な文字化けではない。意味はあるはずなのに、自分だけが読み取れないような、不快な“ズレ”があった。
息が浅くなる。
缶から目を離し、周囲をさらに観察した。
道路標識も、店の看板も、広告も――すべて同じような奇妙な文字で埋め尽くされていた。
それだけじゃない。
通行人の声が耳に入る。
花見客たちの笑い声。
聞こえるのは、言葉のリズムだ。確かに何かを喋っている。
だが、その音は日本語ではなかった。
……いや、日本語に似ているのに、日本語じゃない。
意味がすり抜けていく。
聞き取れない。理解できない。
どくどくどく――
心臓が勝手に早鐘を打ち、背中に冷たい汗が流れた。
逃げなきゃ――
理由は分からない。
だが、この場所は、俺の知っている世界じゃない。
そう確信した瞬間、レジ袋を落としていた。
「っ――!」
気づいた時には、もう走り出していた。
行き先なんてない。
何処へ向かうかも分からない。
ただ――ここにいたくなかった。
ここに立ち尽くしていたら、取り返しのつかないことになる。
そんな予感だけが、恐ろしいほど鮮明だった。
どこをどう走ったのか、まったく覚えていない。
ただ足だけが勝手に動き、息が切れるまで走り続けて――気づけば、人通りのほとんどない細い道に迷い込んでいた。
ここは知っているはずの街だ。
何度も歩いた道に近い場所のはずなのに、恐怖が視界を曇らせ、周囲の風景がひどく歪んで見える。
普段なら絶対に入らない裏道。
その無機質な静けさが、余計に胸を締めつけた。
ハッと我に返り、ポケットからスマホを引き抜く。
手が震えていて、落としそうになる。
画面に灯った文字を見た瞬間――息が漏れた。
「……よかった、日本語だ」
見慣れたホーム画面。
見慣れたアプリ。
世界が狂っても、スマホだけは裏切らなかった。
圏外になっている可能性も覚悟したが、電波はちゃんと入っている。
希望が、ほんの少しだけ胸の奥に灯る。
俺は焦る指先で友人へチャットを開き、素早く文字を打ち込んだ。
【起きてるか?】
【気分悪くなったあとから世界がおかしいんだ、嘘じゃない。写真も添付するから】
震える手で、近くの店の看板を撮影し、そのまま送信した。
妙な文字で記された、あの不気味な看板。
これを見れば“異常”は伝わるはずだ。
1分……2分……
今は20時。
友人は夜に弱くない。
むしろ23時までは必ずと言っていいほど即返信が来る。
なのに――今日に限って返信がない。
不安で胸の奥がじわじわと熱くなる。
電波はあるのに、既読の気配がないという状況が、余計に心をかき乱した。
そして5分ほど経った時、ようやくメッセージの横に“既読”の文字がついた。
「ああ……よか――」
胸を撫で下ろした、その直後。
画面に表示された返信を見て、全身が凍りついた。
返ってきたチャットは――
さっき撮って送った看板と、まったく同じ奇妙な文字の羅列。
意味がない。
読めない。
世界に混ざり込んだ“あの文字”で書かれていた。
「……なんでだよ……!」
続けざまに、さらにメッセージが送られてきた。
何行も、何行も。
読み取れないはずなのに、文字の“圧力”だけは増していくのが分かった。
画面からにじみ出すような不快感。
視界を押し潰すような濃度。
それはまるで、こちらの理解を強制するように迫ってくる――。
そんな最中、スマホが震えた。
友人からの着信だ。
胸が締めつけられる。
出るべきか分からない。
出てはいけない気もする。
だけど、この状況で頼れるのは、友人だけだ。
震える指が、通話アイコンの上で止まる。
通話ボタンを押した瞬間、背骨の奥に氷を差し込まれたような寒気が走った。
心臓を誰かに握られたような圧迫感。
声が震えるのを自分でも誤魔化せない。
「……もしもし?」
その一言のあと、電話の向こうで 息を飲む 気配があった。
ざらついた沈黙。それだけで、ここに“何か”が繋がってしまったと理解できた。
そして――
〈オマエハ、ココに……いるベキジャ なイ〉
耳に届いた声は、日本語の形だけを借りた“異物”だった。
外国人のカタコトにも似ているが、どの言語にも属さない違和感が張り付いている。
発音が、人間の喉で無理に再現したように歪んでいた。
〈ココは ソッチと……つながッテ ハ だメ。……カエレ〉
意味は辛うじて分かる。
だが、その裏側に得体の知れない感情が混ざっていた。
怒りでも悲しみでもない、“拒絶”に近い何か。
「ど、どういうことだよ!?
なにが繋がってるんだよ……!」
声は自分のものと思えないほど荒く、震えていた。
電話の相手は、すぐには答えなかった。
何かを確認するような沈黙のあと、押し殺した声が続く。
〈……ココヘ いケ。もウ ミられて イルはずダ……つかまる ナヨ〉
次の瞬間、スマホが小さく震え、通知音が鳴った。
画面を見ると――位置情報が送られてきていた。
「見つかる? 捕まるなって……どういう……」
混乱が言葉にならない。
胸の奥がざわざわと泡立つように恐怖を産む。
その時だった。
背後の暗がりから、何かの“気配”が滲み出した。
振り返る勇気がわずかに遅れた。
そこにいたのは――黒い影。
人影のようで、人影ではない。
夜の暗さよりも濃く、縁が定まらず、ゆらゆらと形を変えている。
あれは質量があるのか?
この世の物理に属しているのか?
それすら分からない“存在”だった。
影が、こちらを見ている――そう確信した瞬間、足がすくむ。
電話の向こうから、押し殺した悲鳴にも似た声が飛び込んできた。
〈……ハヤク いケ!
もウ こッち に クルな よ!!!〉
その声は、必死だった。
命じるようでいて、祈るようでもあった。
そして影が、一歩――踏み出した。
逃げる、逃げる――
呼吸が荒れ、肺が焼けるように痛む。
だが足を止めたら終わりだという確信だけは、恐怖に塗れた頭の奥で異様にクリアだった。
幸い、あの黒い影は速くない。
追ってくる気配はあるが、走れば振り切れる……そう思った矢先だった。
横道から、ぬるりと“別の影”が現れた。
一体、また一体。
気づけば道の両側から、闇が滲み出るように増えていく。
「なんっ……なんだよこいつら!!」
叫ぶと、まだ通話が切れていなかったスマホから、ノイズ混じりの声が返る。
〈ソッチかラ……マヨウ ひと ヲ つカマエ て いる。
ツナガロウ と し ていル、“キカン” の ヘイキ だ〉
息を吸う間もなく返された答えは、意味は分かるのに理解したくない内容だった。
「なっ……なんでそんなこと知ってるんだよ!?
こいつら何なんだよっ!」
影たちが揺れながらこちらへ迫ってくる。
人型に見えるが、腕も脚もあいまいで、重力に従っているかも怪しい。
それなのに“捕まる”という言葉だけが、妙に現実味を帯びて脳裏にこびりついた。
〈サイキン……フエてル〉
走りながら、息を切らしながら、それでも電話の向こうの相手は話してくれた。
――今から二十年ほど前。
平行世界への干渉方法が、とある研究者によって発見された。
当時は科学界で大騒ぎになったものの、実用化には程遠いとされ、すぐに表の歴史から消えた。
だがその裏で、禁止されたはずの技術を使い続けた者たちがいた。
ここ数年、“こちら側”へと異世界の人間を呼び寄せ、捕まえ、その違いを調べる――
そんな違法機関が地下で蠢き続けているのだという。
〈ソッチ の……ヒト は……“チガイ” が ほしい。
みラレタら……モドレなイ〉
言葉はぎこちない。だが意味は刺さる。
息が止まりそうだ。
電話の相手は続けた。
〈トツゼン……しらナイ ヒト かラ……“ワカラナイ ゲンゴ” で
レンラク が クル……コッチ の sns で……ハナシ に ナッてる〉
こちらの世界の人間が、突然 “別の世界の言語”で連絡してくる――
そんな不可解な出来事が増え始めているらしい。
そして極一部では、
〈……カタコト ナラ……アナタ の コトバ……ツカエる ヤツ も イル〉
と、異世界の言語を“少し扱える”者まで出始めたという。
それが、いま電話の向こうにいる“彼”なのだ。
走っても走っても、影が増えていく。
背後の闇が追いすがり、息の音さえ呑み込もうとする。
〈……ハヤク、“そこ” ヲ デロ……そっち ノ セカイ に……かえレ〉
大通りへ飛び出した途端――
背後で追いすがっていた影の気配が、煙のようにふっと消えた。
まるで“人目につく場所は避ける”とでも言うように。
夜でも車と人が絶えない大通り。
いつもならなんてことはない景色なのに、この瞬間だけは光が救いに見えた。
息を整える間もなく、スマホの地図に示された場所へ向かう。
指定されたのは……俺が気を失い、異常が始まった“あの公園”だった。
通話の向こうから、掠れた声が聞こえる。
〈……コレで……オワカレ ダナ。……ヨカッタ……〉
本当に安堵しているような声音だった。
「……ありがとうな」
短く、それしか言えなかった。
それでも相手は、微かに笑ったような気配を返してきた。
ふと時計を見る。
たった数十分のつもりだったのに――2時間以上が経過していた。
「……そんなに、走ってたのか……」
現実感が薄れたまま、公園の入口に立った。
街灯に照らされて、桜が静かに揺れている。
ふぅ、と深く息を吐く。
とにかく終わった……そう思いながら、あの桜の木の下へ歩み寄った瞬間だった。
――ぞわり。
皮膚の内側を手でかき混ぜられるような、あの“気持ち悪い感覚”が再び襲った。
胸が掴まれ、視界が一瞬ゆがむ。
同時に、スマホから プツッ と音がして通話が切れた。
「え……?」
思わず立ち止まり、周囲を見渡す。
そこに広がっていたのは――
本当に、いつもの公園だった。
店の文字も看板も、標識も、通行人の声も、全部。
見慣れた日本語。
聞き慣れた日本語。
黒い影の気配はない。
異様な歪みも、胸を締めつける圧力もない。
まるで――全部が最初から“無かったこと”のように。
ただ、風に揺れる桜だけが、やけに静かな音を立てていた。
side????
「貴重なサンプルを帰して良かったんですか?」
静まり返った部屋に、控えめだが鋭い声が響く。
声の主は黒髪をひとつに束ね、純白のラボコートをまとった女性研究員だった。
無機質な蛍光灯の光が、彼女の眼鏡に薄く反射している。
机の前に立つ白衣の男は、何事もないようにスマホ置いた。
通話の切れたスマホが、カタンと乾いた音を立てる。
男は白髪混じりの頭を軽く振りながら答えた。
「今回は“帰すこと”が目的だよ。
偽の記憶を定着させ、サンプル自身に楔を打ち込んで――
向こう側との繋がりをより強固にするためだからね」
女性は眉をひそめ、しかし興味を隠せない表情で続けた。
「では……彼があなたを“友人”と認識していたのは、記憶操作による定着ですか?」
男はゆっくりとポケットからタバコを取り出し、火をつける。
煙が淡い輪を描きながら天井へ上っていった。
「ああ、そうだ。
ごく自然に受け入れるよう、何層かに分けて薄く刷り込んでおいた。」
「では成功、ですよね?」
女性の問いに、男は苦笑を浮かべる。
「――失敗だ。」
「失敗……?」
男は一服して煙を吐き出し、暗い目で虚空を見つめた。
「誘導も、行動も、感情の流れも完璧だった。
“こちら”に来た時点で記憶は完全に上書きされていたし、私を友人と思うようになっていた。
逃走も、恐怖も、影との遭遇も予定通りだ。」
男は指で机をとんとんと叩く。
「だが――帰還の瞬間に、上書きされた記憶層がすべて消えたようだ。
まるで“向こうの世界”が拒絶するかのように、ね。」
女性は息を呑む。
「……では楔は?」
男の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「楔は成功だ。
記憶は消えても、“繋がり”は消えない。
むしろ――より深く刻まれたと言っていい。」
男は机の上に置かれたモニターへ目を向けた。
そこには、彼の脳波と身体データが記録されている。
帰還と同時に、脳の一部が異常に活性化した波形が映っていた。
「これでいつでも観測できる。
また“呼べる”。」
煙の向こうで、男の目だけが獲物を見るように細められていた。




