エピローグ:現代・再び歩き出す
雨はすっかり止んでいた。
濡れたアスファルトにはまだ空の色が映っていて、街灯の明かりが静かににじんでいる。
ビルのガラスに映るのは、傘も差さずに立ち尽くす泡沫の姿だけだった。
以前、そこには違う影があった気がした。背の高い、あたたかな誰かの――
あのとき、確かに聞こえた「うた」という声。
けれど今は、もうどこからも聞こえなかった。
それでも、不思議と寂しさはなかった。
泡沫はそっと息を吐いて、手にしたノートのページをめくった。
そこには、乱れた文字で綴られた自分の言葉が並んでいる。
「封印は終わらない。でも、僕はもう、逃げない」
一行ずつ、ゆっくりと指でなぞる。
この数ヶ月、胸の中で渦巻いていたもの――怒り、後悔、喪失、そして祈り。
それらを言葉に変えて綴るたび、少しずつ心がほどけていった。
いつか、東雲兄様を迎えに行く。
ただ封印を守るのではなく、あの人を妖から解き放ち、「兄様」として迎えるために。
そのためには、時間がいる。覚悟も、力も、準備も。
でも――
「うた、ってさ」
背後から声がして、泡沫はゆっくりと振り返った。
学校の友人のひとりだった。
小柄な体で、ずぶ濡れの泡沫を見上げながら、少し困ったように笑う。
「優しすぎる名前だね。……なんか、すごく守ってあげたくなる」
泡沫は小さく笑った。
名前の由来を聞かれたことは何度かあるが、まともに答えたことはなかった。
けれど今日は、不思議と嘘をつく気になれなかった。
「兄がね、つけてくれたんだ。……僕のこと、守りたかったんだと思う」
「そっか。……あったかい人だったんだね」
泡沫は何も言わずに頷いた。
あたたかくて、強くて、でもどこか孤独な人。
だからこそ、あの人をもう一度笑わせてやりたいと思った。
「そろそろ帰ろう。風邪ひくよ」
「うん」
ノートを閉じて、カバンにしまう。
一歩、踏み出す。水たまりを越えて、雨上がりの道を歩き出す。
雨の匂いがまだわずかに残っていた。
でも、それはもう、怖くない。
過去の影はガラスに映らなくなった。
けれど、胸の奥には確かにある。
いつか向き合うその日まで、失わずに抱えていく。
泡沫は空を見上げた。雲間から、細い月がのぞいていた。
「兄様、僕はちゃんと、生きるから」
そう、胸の中でだけ呟いて――
泡沫は前を向いた。