第9章:東雲兄様の封印の緩み
風が、妙に温かった。
季節の端境が、山の木々の間で濁った匂いを運んでいた。
祠の裏手、小さな沢のせせらぎが音を立て、泡沫はその音に気を逸らしていた。
この場所は、兄が封じられた場所だ。
屋敷から離れた山の中、鳥居もない、石もない。ただ空気だけが濃い。
けれど、ここに立てば――兄の気配は、確かにある。
泡沫は膝をつき、掌を土に伏せる。祓いの術ではない。何かを“聴こう”とする姿勢だった。
「……兄様」
呼んだ声に、返事はない。風すら応えなかった。
けれど、胸の奥に、懐かしい痛みが走った。
まるで、それだけが兄の返事だったように。
***
封印は、父と二人で行った。
三年に一度、貼り替える呪の結界。
既に慣れきったはずの作業だった。けれど、今年はなにかが違っていた。
呪文の一節を唱え終えるたび、兄の気配が近くなった。
泡沫の中に、それが確かに“入ってくる”ような感覚があった。
「――うた」
それは、耳で聞いたのか、胸の奥で聞こえたのか、もう判断がつかなかった。
けれど、確かに「呼ばれた」と泡沫は感じた。
手元が少しだけ揺れる。けれど、呪は乱れなかった。
父は気づいていない――そう思いながら、泡沫は術を続けた。
「……俺は、まだここにいる」
兄の声は、ただの幻聴かもしれなかった。
でも、それを否定する術を、泡沫は持っていなかった。
その声は、懐かしく、穏やかで、そして、痛ましかった。
***
「お前は、もう自由になれたか?」
その問いは、泡沫の胸に深く沈んだ。
自由――という言葉が、あまりにも遠く思えた。
兄が封じられたあの日から、泡沫は自由だったろうか?
名前を捨て、力を隠し、ただ過去を背負いながら歩いてきた。
自由というには、あまりにも歪だった。
「兄様……僕は……」
何も返せなかった。
代わりに、言葉とは別のものが、頬を伝った。
涙は、泣くと決めて流れるものではない。
***
儀式の終わり、父は何も言わなかった。
それはいつもと変わらないことだったが、泡沫はわずかに言葉を探した。
「……父さん。封印……弱まってる」
父はほんの少しだけ目を細めたが、口を開かなかった。
「声が……聞こえた気がした」
沈黙が、返事の代わりだった。
泡沫は、空を見上げた。
木々の合間から差し込む光が、何も答えをくれない空の色をしていた。
「僕は……祓い屋じゃない」
言葉が、喉を割って出た。
それは、父に向けた言葉ではなかったのかもしれない。
けれど、それでも、今まで言えなかった言葉だった。
「兄様の妹だよ、僕は。――だから、封じ続けるだけなんて……できない」
父は、それでも何も答えなかった。
ただ、風がまた吹き、木々の間で兄の気配が、ふと、濃くなった気がした。
***
その夜、泡沫は眠れなかった。
兄の声が、断続的に胸の内で響いた。
「俺を忘れるな」「俺はまだここにいる」――その言葉が、静かな夜に混じって染み込んでいく。
何度も、封印を終えてきたのに。
もう何年も経ったというのに。
兄の記憶は、少しも褪せなかった。
――いま、兄様を「助けたい」と思っている自分がいる。
昔ではない。後悔でもない。
この今、この胸の鼓動の中にある、それが泡沫の真実だった。