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【OP-5】わたしが、わたしじゃなくなる前に

 ──自我なんて、重すぎたのよ。


 異形の光が、滴るように天井から降ってくる。

 ここは《契約の祭室》。現実ではない、しかし現実より濃い場所。


 白い肌が冷たい床に沈む。ルーチェは身を屈め、長い黒髪を仰け反るように解いた。

 その赤い瞳には、血よりも深く、絶望よりも静かな光が揺れていた。


「ねえ……仮面の王様。わたし、もう“自分”でいたくないの」


 ローブの影が揺れた。

 仮面の奥の彼は、依然として何も答えない。だが、それでいい。それがいい。

 沈黙は、彼の本質。彼の意志。彼の優しさであり、残酷さでもある。


「ねえ、今日だけは──優しくして……」


 ルーチェは囁きながら、仮面の下に手を伸ばす。

 だが、その仮面は落ちなかった。外れるはずもない。

 代わりに、彼の指がそっと彼女の手を包む。ひどく冷たく、ひどく確かに。

 それだけで、ルーチェの呼吸が乱れる。


「……ああ、あなたが、あなたでいてくれるなら……わたしは、消えていい」


 その言葉と共に、彼女の赤い瞳が淡く揺らいだ。

 まるで意識と記憶が、霧となって剥がれ落ちるように。


 契約の刻印が、彼女の肩から胸へと、淡い光を放つ。

 それはただの魔法陣ではなかった。“存在”の接続痕──魂の継ぎ目。


 フォールン・ロードは黙したまま、指先を彼女の額へと重ねる。

 その瞬間、空間が──“軋んだ”。

 鋼のように冷たく、肉のように柔らかい世界が、ひとつ、裏返る。


「…………あ」


 ルーチェの視界に、白と黒の階層反転構造が映る。

 上下も重力も意味を失い、彼女の周囲には意味だけが増殖する空間が、胎動していた。


《……識別コード:Lilith_Sequence_143。汝の存在を再構成しますか?》


 それは、声ではなかった。

 存在そのものへの問い。

 呼吸でも思考でもなく、ただ“ある”というだけの干渉。


《我、汝に名を与えん。無き名を。無限の終わりを》


 彼女の身体から、“概念”が剥がれていく。


「私はルーチェである」という名。

「私は女性である」という性。

「私は個人である」という前提。


 すべてが淡く、ほどけて、崩れていく──


 それは至福に似ていた。


「……ああ……これで……やっと“わたし”じゃなくなれる……」


 それは本当の意味での“契約”だった。

 ルーチェが願ったもの。

 アイン=ソフィ=ウルが与えるもの。


 自我の消滅と無限への回帰。

 消失と、神聖の融合。


 だが──その時。


 フォールン・ロードが、彼女を抱きしめた。

 その腕の中に、“重さ”があった。“温度”があった。

 彼の中に流れる、かすかに青い魔力が、この世界から彼女を切り離す刃を、そっと鈍らせる。


「っ……なんで……っ、拒まないの……!?」


 ルーチェが叫ぶ。自我が崩れながらも。

 その声に、仮面の下の男はただ、息をする。

 何も言わずに、存在する。

 アイン=ソフィ=ウルの干渉が、軋んだ世界の歪みの中で、静かに霧散する。


《……汝の存在座標、固定されました。再構成中断》


 声なき声が、無に還った。

 ただの沈黙が、部屋に戻ってくる。


 ルーチェは、フォールン・ロードの腕の中で嗚咽を漏らした。


 それは泣き声ではない。

 それは言葉でもない。

 それは──彼女が、まだ“彼女”でいられるという、証だった。

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